01_Tu4
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 ツポレフTu-4は一応ツポレフが開発した戦略爆撃機である。ベースになったのはソビエト領に不時着した米軍爆撃機B-29でそれをほぼ完全にコピーした。このためリバースエンジニアリングの傑作と言われている。但しソ連は技術力では米国に及ばないため全体的な性能はB-29に劣る。特に火器管制システムの複製は出来なかった。初飛行は1947年5月19日でこの機体の完成によりソビエトは核弾頭を搭載する爆撃機の保有に成功した。

 

ツポレフ Tu-4

 

 

性能

全幅 43.05m
全長 30.18m
全高 8.46m
自重 35,270kg
最大速度 558km/h(高度10,250m)
上昇力 4.6m / 秒
上昇限度 11,200m
エンジン出力 1,790馬力(シュベツォフ ASh-73TK エンジン)4基
航続距離 6,200km
乗員 7名
武装 12.7mm機関砲10門
爆装 最大12,000kg、または原子爆弾1発
初飛行 1947年5月19日
総生産数 847機
設計・開発 ツポレフ

 

B-29をパクりました!

 ツポレフTu-4爆撃機、飛行機ファンでもあまり聞きなれない航空機かもしれない。しかし画像を見れば大体の人、何なら航空機ファンじゃなくても、高齢の人達であれば見たらすぐわかるはずだ。そう、このシルエットはまさしくB-29だ。しかしシルエットはそうでも画像の機体はB-29ではない。ソビエト連邦製爆撃機ツポレフTu-4だ。実は米国とソビエト連邦、それぞれに爆撃機を作ったら偶然似てしまったのだ!。。。という訳ではない。

 1944年、B-29による日本の支配地域への爆撃が始まった。当初はマリアナ諸島の制圧が完了していなかったために中国本土からの出撃となった。B-29の初出撃は1944年6月、タイ国への攻撃が最初でさらに満洲国や北九州への爆撃も行われるようになった。

 それらのB-29の内7月に1機、8月に1機、11月に2機が機体の故障等によりソビエト領内に不時着した。B-29は当時の米国のハイテク技術の粋を集めて作られた機密の塊だった。このためソビエトはレンド・リース法によりB-29の供与を求めた位だ。その喉から手が出る程欲しかったB-29がソビエト領内に不時着したのだ。ソビエト政府は放っておくはすがない。

 当時のソビエトは日本と日ソ中立条約を結んでいることを理由に米国の返還請求も無視、B-29のコピーが始まった。4機のB-29の内、飛行可能な3機はモスクワに飛行、1機は分解、1機はクルーの訓練用、1機はオリジナルとして保存された。

 

リバースエンジニアリングの傑作

 B-29のコピーはインチ法とメートル法の違いに苦しみながらも慎重に行われた。金属の素材が入手できないなどの理由により大規模な再設計が行われた結果、機体はほぼ正確に再現することができた。それでも完全な再現とはならず試作機の重量は340kgほどオーバーしてしまうがこの程度の誤差で収めたのはかなり優秀だろう。

 エンジンはB-29のR-3350ではなく、ソビエト製のAsh73TKエンジンを使用した。このエンジンは米国ライト社製R-1820エンジンをライセンス生産したM-25エンジンの改良型で18気筒2,000馬力を発揮する。因みにR-1820エンジンは日本では陸軍名ハ8、海軍名光エンジンの元になったエンジンで(厳密には参考にした)、九七式司令部偵察機九七式艦上攻撃機1型に使用されている。

 エンジンだけで言えばR-1820から派生したAsh73TK、ハ8、B-29のR-3350エンジンは同系統に属する親戚のようなものだ。

 米国ほどではないがやはりソビエトの技術力は高く、高高度過給機や与圧室もコピー完了したもののどうしても火器管制装置だけはコピーすることができなかった。このB-29の火器管制装置とはかなり高度な技術が投入された装置で偏差射撃を計算するアナログコンピューターを搭載、さらに与圧室内から射撃するために遠隔操作が可能となっており、その遠隔操作も数名の射手がスイッチの切り換えで複数の機銃の操作をすることが可能であるというシロモノであった。さすがにこれのコピーは難しかったようだ。

 

B-29との比較

 とにもかくにも1947年5月19日にボーイングB-29。。。いやツポレフ製Tu-4爆撃機は初飛行に成功した。自重はB-29の33,793kgに対して35,270kg、最高速度はB-29の575km/hに対して558km/hと若干低く、航続距離に至ってはB-29の9,000kmに対して6,200kmと70%ほどの性能となった。しかし上昇限度はB-29の9,710mに対して11,200mと優っている。

 武装は初期型は12.7mm機銃10門とB-29と同様だったがのちに23mm機関砲10門に変更された。乗員はB-29の11名に対して7名とどういう訳か減っている。肝心の爆弾搭載量はB-29の9,100kgに対して12,000kgと大幅に増加している。

 総合するとB-29に対して重量は増加、速度は低下、航続距離は大幅低下したものの上昇限度と爆弾搭載量は優っている。総生産数は847機で一部は人民解放軍にも供与された。

 

核搭載可能戦略爆撃機の運用開始で米軍大パニック

 B-29の最大の特徴は核兵器を輸送することができることだ。米国は第二次世界大戦中に核兵器の開発に成功しているが爆弾のみ完成しても意味はなく、同時にそれを敵地へ輸送する輸送手段の開発が必須であった。そこに登場したのがB-29爆撃機であった。これにより核兵器の輸送が可能となり戦争中に日本に対して核攻撃を行っている。

 1948年になると米国は「いやぁ世界中どこにでも「アレ」を落すことできますからねぇ。へへへ」と言わんばかりにB-29による世界一周を実施している。これに対してソビエト連邦も1949年に8月29日になると核実験に成功、原子爆弾をTu-4に搭載することでソビエトも核兵器とそれを輸送する手段を保有することとなったのだ。

 

 

その後

 生産は1949年から始まり1952年まで行われたが、1952年にはソビエト連邦初のジェット爆撃機Tu-16バジャー爆撃機が初飛行、米国でも同年にB-52爆撃機が初飛行に成功している。以降、爆撃機もジェット機の時代となりTu-4はTu-16爆撃機などにその地位を譲ることとなり、1960年代には全機退役した。

 

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