
(画像はwikipediaより転載)
要約
キ77長距離研究機とは、朝日新聞社が東大航研に製作を依頼、のちに陸軍も加わって開発された長距離飛行を目的とした実験機であった。戦時中であったため国際機関からの公認はされていないが、総飛行距離16,435km、滞空時間57時間11分という世界記録を達成している。これは1962年にB-52爆撃機に抜かれるまでは世界最長飛行記録であった。2機が製作され、1機は日独連絡のためにシンガポールを離陸後行方不明となっている。
キ77長距離研究機
性能
全幅 29.43m
全長 15.30m
全高 3.85m
自重 7,237kg
最大速度 440km/h(高度4,600m)
上昇力 6,000mまで24分00秒
上昇限度 8,700m
エンジン出力 1,090馬力(ハ115特)2基
航続距離 18,000km(300km/hで滞空55時間)
乗員 6名
武装 -
爆装 -
設計・開発 木村秀政 / 東京帝国大学航空研究所
背景から開発まで
キ77は、1939年に朝日新聞社が皇紀2600年記念に太平洋無着陸訪米親善飛行を行うために東京帝国大学航空研究所に専用の長距離航空機の設計を依頼したのが始まりである。皇紀とは明治時代に発案された日本独自の紀年法で神武天皇即位を元年とする。そこから計算して1940年は皇紀2600年ということになり、多くのイベントが企画された。キ77はその企画の一つとして発案されたものである。
開発

(画像はwikipediaより転載)
1939年に東大航研に開発を依頼した機体は当初朝日新聞社の頭文字「A」をとって「A-26」と呼ばれていたが、やがて陸軍がこのA-26に目を付けて陸軍の試作機に加えた。これによって以降はキ77と呼ばれることとなる。このキ77の開発は基礎設計は東大航研、機体製作は立川飛行機、エンジンの製作は中島飛行機が行うこととなっていた。
機体設計の幹事は木村秀政で、長距離飛行を可能にするためには揚抗比を最大化することが必要であった。揚抗比とは飛行機が飛ぶためには浮くための力である揚力が必要であるが飛行機が飛行すると同時に抗力が発生する。この抗力とは揚力を消し去る力のことで空気抵抗や飛行機自体の重量も抗力となる。つまり揚力が最大で抗力が0であれば飛行機というのは無限に飛行することができることになる。
しかし機体が前方に向かって飛ぶからには空気抵抗や機体の重量がある以上抗力は必ず発生する。この揚力と抗力の関係を表した式が揚抗比である。揚抗比とは揚力を抗力で割った数なのでこの数値が大きければ大きいほど機体は長時間飛行することができる。
速度と揚力
揚力を発生させるには速度を上げて前方からの風圧を翼に当ててそれを浮く力に返還させる必要がある。揚力を最大化したければ翼を大きくして角度(向かい角)を最大にすればいいだけだが、ことはそう簡単ではない。離陸時はそれでいいかもしれないが長時間飛行で燃料を消費して機体が軽くなってしまうと飛行機の質量が軽くなるため今度は向かい角の翼が空気抵抗となり速度が低下してしまう。
そこで木村秀政氏は最大の航続距離を発揮する速度を長時間維持し続けるためには高翼面荷重の翼を採用することにした。翼面荷重とは機体重量を翼の面積で割った数値のことでこの値が大きければ翼が小さく機体が重いことになり、逆に小さければ翼が大きく機体が軽いことになる。
つまりは翼を小さくにするということだ。小さな翼の飛行機を高速で飛ばすことで長時間最大の揚力を発生させることができると考えた。しかしこれでも燃料を消費すれば前述の問題が発生する。そこで木村氏は今度は飛行方法を変更することとした。
燃料が減れば機体は軽くなる。そこで徐々に高度を上げていき高い高度から今度は徐々に降下していく。グライダーのようなものだ。燃料が消費されて機体が軽くなっているので上昇も容易だ。これは現在の長距離飛行機の採用している方法と近いものであった。
試験飛行
1940年3月に基礎設計開始、同年秋には基礎設計が完了した。以後の細部の設計は立川飛行機で行われたが、太平洋戦争開戦後に陸軍の命令により一時製作が中断するが、1942年4月に突如製作再開が命じられた。それどころか年末までに1号機を製作させよという急展開であった。この陸軍の変節は同月に米軍によって行われたドーリットル隊の空襲に対して一矢報いるためであったと言われている。
この要求に対して製作陣は1942年9月に1号機を完成させたものの、あまりにも作業工程を切り詰めた突貫作業であったために各部の工作は粗悪になってしまっていた。それでも同年10月には地上運転、11月18日には初飛行に成功している。1943年4月には2号機も完成するが、こちらは時間的な余裕があったため丁寧な仕上げになっていた。試験飛行は1942年11月から1943年3月まで行われ、結果は良好であった。1943年4月には総合試験として東京からシンガポールまでの往復1万キロ以上の距離を53時間で無事に飛行した(無着陸ではない)。
機体はセミモノコック構造で主翼は薄い層流翼を採用した。長距離飛行のために主翼はインテグラルタンク(翼がそのまま燃料タンクとなっている構造)を採用、さらに胴体にもいたるところに燃料タンクを設けた結果、燃料搭載量は12,202Lに達している(一式陸上攻撃機34型4,400L、二式大型飛行艇17,080L)。機内は、当初は与圧キャビン、次いで気密室が計画されたが当時の日本の技術力では製作することが難しかったため結局、酸素吸入マスクを使用することとなった。
エンジンは中島製ハ115(1,170馬力。海軍名「栄21型」)2基でプロペラは直径3.8m3翅のハミルトン定速プロペラであった。
世界新記録達成
1944年7月2日午前9時47分、キ77は満洲の新京を離陸、新京、白城、ハルビンを結ぶ一周865kmのコースを19回飛行、4日19時に新京に着陸した。総飛行距離16,435km、滞空時間57時間11分であった。これは戦時中であったため国際航空連盟未公認の記録であったが、当時の世界最長記録であった。この記録は1962年にB-52爆撃機が18,245kmを飛行するまで更新されなかった。
生産数
1号機、2号機の合計2機。1号機は、戦後米軍の手によって米本土に運ばれたが途中、嵐により大破1949年頃にスクラップとなった。2号機はドイツとの戦時連絡飛行に使用されたが行方不明となった。
まとめ
キ77は長距離飛行で世界最長記録を樹立した。残念ながら国際航空連盟未公認の記録ではあったが18年間その記録は破られることはなかった。この記録は米軍から見ても価値があったようで終戦まで残存していたキ771号機は米国に運ばれ性能試験を受ける予定であったが1946年、輸送中に暴風雨に遭遇して大破してしまい3年後の1949年にスクラップにされた。高速研究機研三は米国に送られることなくそのままスクラップにされてしまったが、この違いは最高速度699km/hと世界的にみれば凡庸であった研三と世界記録を樹立したキ77違いであったのだろう。
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