01_予科練の空
(画像はwikipediaより転載)

 

「石塚兵曹、敵が射線に入ったら知らせろ。機をすべらす、遅れるな」
「ハイッ!射線に入ったら知らせます」

 

こちらが海面を這うようにしているので、敵も効率のよい急角度では突っ込んでこれない。後上方の浅い角度に定針しようとしている。

後席の機銃がこれに連射をつづける。突っ込む敵機の機軸が、こっちに正向する。その直前、

 

「射点に入る、すべらせー!」

 

と叫ぶやいなや、途端に体がガクンと機体にぶっつけられる。旋回計の鉄球があらぬ方に飛んで、すごい力で体が機体に押しつけられ、肩と頭でようやく支える。

その一瞬、ダダダダと重機銃の斉射音とともに赤、青の曵痕跡が、右の機翼をかすめて流れた。危機一髪、まずは第一撃はかわし得た。

(本間猛『予科練の空』より引用)

 

 1944年10月フィリピン。著者、本間猛兵曹が偵察員を務める重巡利根所属の零式水上偵察機F6Fヘルキャットの追尾を受けていた。操練30期出身のベテラン操縦員松本良治少尉の操縦で零式水偵は山間部を低速、低空で飛行する。高速の新鋭戦闘機ヘルキャットでは速度が早すぎるため迂闊に突っ込むことができない。零式水偵の低速を活かした熟練の戦いであった。

 

本間猛『予科練の空』

本間猛 著
光人社 (2002/11/1)

 

予科練とは・・・

 本間猛氏は予科練乙種9期。太平洋戦争で最も活躍したクラスだ。それだけに死亡率も異常に高い。同期は191名。その内167名は戦死、さらに生き残った24名もほとんどが戦傷を受けている。五体満足で終戦を迎えた同期はわずか3〜4名であった。

 当時、海軍の搭乗員になるには海軍兵学校から飛行学生へ行くコース、水兵から操縦練習生になるコース、そして15〜16歳の少年からパイロットを養成する予科練の3つのコースがあった。本間氏はその9期。同期には台南空の撃墜王として著名な羽藤一志がいる。

 予科練の訓練は時期により変わるが本間氏の時代では約4年。まず海軍軍人としての基礎や数学などの基礎科目を学び航空隊員として成長していく。当時の搭乗員には操縦する操縦員と航法、偵察を専門に行う偵察員に分けられる。当然、訓練生のほとんどは操縦員、特に華やかな戦闘機搭乗員を目指していた。

 

高度な専門性が必要な偵察員

 本間氏は飛行艇偵察員。著者はこの配置に対する感想を書いていない。飛行艇偵察員とは操縦員に匹敵する非常に高度な知識を経験を必要とする職種である。当時の航空機は無論GPSなどなく、偵察員と呼ばれる航法専門の搭乗員が測量する。測量には天体航法、地文航法、推測航法の3種類の航法がある。

 天体航法とは星の位置から現在地を割り出す方法、地文航法とは地形の形から現在地を割り出す方法である。これらの中で最も難易度が高いのが推測航法であった。航法とは基本的には速度と距離、方角で現在地を割り出す。しかし航空機の場合、風に流されるのでその偏差を修正しなければならない。推測航法とは地形や天測を行わずこれらの数値だけで位置を測定する方法である。

 この推測航法の難易度の高さは尋常ではない。このため偵察員の間では1,000回航法をやって初めて一人前と言われていた。1,000回航法をやるということは1,000回偵察員として航空機に搭乗するということである。毎日乗っても3年弱かかるがもちろん毎日乗ることなどできない。3日に1回乗ったとしても10年、それほど高い練度を必要とする技術なのである。

 

実戦部隊配属、南方の最前線へ

02_九七式大艇
(画像は九七式大艇 wikipediaより転載)

 

 これら高度な技術を身に付けた本間氏が最初に配属されたのは飛行艇部隊のメッカ横浜航空隊である。当時の横浜航空隊は九七式大型飛行艇、通称九七式大艇である。この九七式大艇は全幅40mの巨人機であった。航続距離は6,771kmという凄まじいものだった。しかし武装となると20mm機銃1挺に7.7mm機銃4挺と貧弱な上、装甲は無きに等しかった。

 飛行艇は通常、戦闘任務ではなく偵察、輸送、人命救助などの支援任務に就く。しかし当時の海軍航空隊は飛行艇での雷撃も行った程で横浜航空隊も後方とは程遠いマーシャル諸島に派遣され最前線での活動となった。このため「消耗品」と呼ばれた搭乗員の負担は激しく、精神的な疲労と共に戦友達の多くは冥界に旅立ってしまった。本間氏はソロモン方面含め数々の修羅場を体験していく。この間に乗機は「空中巡洋艦」と称された二式大型飛行艇に変更された。

 

 

重巡利根水偵隊へ転属

03_重巡利根
(画像は重巡洋艦利根 wikipediaより転載)

 

 1944年2月、本間氏に内地での教員配置が命ぜられる。平和な空気を満喫したのもつかの間、半年後には重巡洋艦利根搭載水上機の搭乗員を命ぜられる。乗機は三座水偵で、1940年に制式採用された愛知飛行機製零式水上偵察機である。最高速度367km/hと低速ではあるが、太平洋戦争初戦期には活躍した機体であった。

 当時の戦艦や巡洋艦に搭載されていた水上機の搭乗員は実戦に出る機会が少なく比較的練度の高い搭乗員が多く在籍していた。本間氏の操縦員松本良治少尉も下士官から士官に昇進した特務士官であり本間氏の上を行く熟練搭乗員であった。

 

高速偵察機「彩雲」搭乗員として

04_彩雲
(画像は偵察機彩雲 wikipediaより転載)

 

 このペア(同乗している搭乗員をそう呼ぶ)で本間氏はあのレイテ沖海戦に参加することになる。その結果は周知の通り惨敗。大型艦の出番が無くなったため艦載水偵隊は解散することとなる。解散した熟練者揃いの水偵隊の搭乗員は陸上機に転科することになるが、低速水偵で苦い思いをした水偵隊員達の一番人気は高速艦上偵察機彩雲であった。

 水偵隊が陸上機に転科する時、ペアはそのまま維持される。本間氏のペアも彩雲を希望した結果、希望が通り水偵時代そのままのペアで偵察機彩雲で最後の戦場に出るのだった。

 

まとめ

 

 本間猛『予科練の空』は、あまり注目されない飛行艇偵察員の戦記である。熟練搭乗員であった本間氏は太平洋戦争初戦から終戦まで最前線で戦い続ける。登場した航空機も九七式大型飛行艇、二式大型飛行艇、零式水上機、彩雲と多彩である。搭乗員から見た航空機という視点は重要である。地獄の戦場を体験することは多くの人にとってはないだろう。本書はその経験を凄まじい臨場感を以って伝えてくれる。夢中になって読んでしまった。

 

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