(以下画像はwikipediaより転載)
要約
当時の最新鋭戦艦である敷島型戦艦は日英同盟締結前に日本に売却された。これはロシアの南下を恐れる日本と英国の利害が一致したためである。その後日本海軍が装備した敷島型戦艦は日露戦争で主力として活躍、3番艦初瀬は撃沈されてしまうが他3艦は戦後長く活躍した。4番艦三笠は記念艦として現在も横須賀にある。
新鋭戦艦が同じ海洋国家日本に提供される
戦艦とは1890年代に誕生した重装甲、大火力を持つ戦闘艦のことで航空機のない19世紀においては最大最強の兵器であり、当時は戦艦の保有数がその国の国力を表すバロメーターでもあった。その戦艦の中で当時最新鋭であったのが敷島型戦艦である。敷島型は1900年から1902年にかけて英国で竣工、主砲は40口径30.5cm連装砲2基で舷側装甲の最厚部は229mmに達する強力な戦艦で日露戦争では主力として活躍している。
敷島型が英国で製造、日本に売却された時期はまだ日英同盟は締結されておらず英国が栄光ある孤立を堅守していた時代である。そんな時代になぜ英国は将来的に敵ともなり得る日本に新型戦艦を装備させたのだろうか。その時代背景についてみてみたい。
清国が植民地獲得競争の標的になる
1800年代中盤。当時の中国清王朝は末期の様相を呈していた。当時欧米は植民地獲得競争真っただ中。この清国に目を付けた英国は1940年代に清国に対してアヘン戦争を仕掛けて不平等条約である南京条約、さらに1850年代にアロー戦争により天津条約、さらに難癖をつけて北京条約の締結に成功する。これに対して南下を狙うロシアは1858年にアイグン条約を結び黒竜江以北を清国から割譲、さらに1881年のイリ条約でも有利な国境線を引くことに成功する。いよいよ清国への列強の浸食が始まったのだ。
ここに新参国家である日本が登場する。日本は開国後急速に国力をつけて日清戦争でまさかの清国に勝利してしまう。しかしこれを良しとしないロシアはフランス、ドイツと共に三国干渉を行い日清戦争で日本が獲得した遼東半島を清国に返還させた。そして何とロシアは遼東半島の南部を租借した。これに合わせてドイツは膠州湾、フランスは広州湾を租借した。英国、ロシア、ドイツ、フランスの四か国がどんどん清国を浸食していった時代だ。
利害の一致
この状況、英国としてみれば面白くない。ロシア、ドイツ、フランス、特にロシアの南下は英国の権益に対して結構な脅威となった。しかし世界中に植民地を持つ英国は中国に戦力を割く訳にはいかない。そこで目を付けたのが当時ロシアに対して戦う気満々の日本であった。そこで英国は日本に対して新鋭戦艦を販売してさらに2年後には日英同盟を結びロシアに対抗したのだ。
1904年には日露戦争が勃発、この新鋭敷島型戦艦は日本海軍の主力戦艦として活躍する。敷島型4隻のうち1隻は旅順港外で撃沈してしまうものの3隻は日本海海戦に参加、特に4番艦三笠は連合艦隊旗艦として日本海軍の勝利を決定づける活躍をした。
戦後の敷島型戦艦
日露戦争後、1番艦敷島は1921年に海防艦に類別変更される。当時の海防艦とはのちの海防艦とは異なり沿岸防衛用の二線級軍艦を意味する。さすがの敷島型も建造後20年も経って旧式化したのだ。そして1923年には軍艦籍を除籍されて練習艦となり太平洋戦争終戦まで佐世保に定繋され戦後に解体された。2番艦朝日も1923年に軍艦籍を除籍されて練習艦となるが1937年に工作艦に改装され1940年に連合艦隊所属となるが1942年3月に米潜水艦の雷撃により撃沈された。
4番艦三笠はシベリア出兵等で活躍したが1921年に海防艦に類別変更されたが1923年の関東大震災により大破着底した。そのまま解体されるハズであったが日本海海戦時の旗艦なので記念艦として保存しようということになり横須賀に記念艦として保存されることとなった。三笠は現在では博物館となっており見学することができるが、構造物のほとんどは復元されたものであるので注意。機関部とかもないので『第七の空母』のようにイスラエルに派遣することはできない。
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