01_伴大納言絵詞
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 866年に起こった応天門の変、応天門を管理する伴善男はライバルの源信の放火と告発するが、その後自作自演と発覚流罪となった。無罪の源信も精神的ショックで立ち直れず、その空白を埋める形で事件を処理した藤原良房が臣下で初の摂政となった。

 

応天門の変

 

概要

  866年、平安京応天門に火の手が上がった。この応天門とは平安宮にある12の門の内の一つ、で正面に位置する門である。大伴氏が造営を担当していることから、かつては大伴門と呼ばれていたが平安時代の初め頃「オシャレな唐風の名前に変更したくな〜い?」と誰かが発案、決定となり、応天門となった。同様にかつて壬生氏が警備していた壬生門もオシャレに「美福門」、佐伯氏の佐伯門も「藻壁門」などとなった。

 応天門火災の原因は、伴善男の告発により、左大臣源信が応天門の造営主である伴氏(この頃、大伴氏は伴氏に改姓している)を呪うための放火であることが判明する。伴善男とは仁明天皇に気に入られて出世した貴族で事件時点では大納言まで昇進した有力者であった。この告発により、すぐに兵士が派遣され源信宅が包囲されるものの、あわやというところで、当時の太政大臣である藤原良房は清和天皇に対して源信を弁護、これにより源信は処罰されることはなかった。

 結局、出火の原因は山稜(偉い人のお墓)の木が伐採されたことによる祟りということになり一段落したと思いきや、今度は逆に伴善男の「自作自演」という話が上がってくる。つまりはライバルである源信を失脚させるために自分の造営した門に放火して源信のせいにしたというのだ。清和天皇の命令により伴善男一派の取り調べが開始すると、伴善男は自分が放火したとあっさり自白、伴善男は死罪となるところを減刑されて島流しとなった。

 結局、伴善男は失脚、源信は無実とされたものの精神的にすっかりまいってしまい自宅に引きこもってしまう。たまたま気分転換に出掛けた狩りで落馬して死亡してしまった。この事件で政治の中枢にいた重要人物が次々と消えてく中で清和天皇は太政大臣である藤原良房に天皇に代わって政務を行う摂政に任命した。これは臣下としては初めてのことであった。

 いわゆる応天門の変、最終的には藤原良房が臣下で初の摂政となり子々孫々栄華を極めることとなるのだ(藤原道長も藤原良房の子孫)。

 

 

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南條 範夫
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