01_大塩平八郎の乱
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 1837年、天保の大飢饉に対する大坂奉行所の対応に不満を持つ、元大坂町奉行与力大塩平八郎は門弟たちを集め武力蜂起をする。しかし反乱はわずか半日で鎮圧、大塩平八郎は自決する。幕府は、この反乱が幕府の最重要地域である大坂で起こったこと、起こしたのが元町奉行所の与力という重要な役割の人物であったことに衝撃を受けた。

 

大塩平八郎の乱

 

天保の大飢饉

 1836年から37年にかけて有名な大飢饉天保の飢饉が起こる。飢饉とは主に天候不順により農作物、特に米が不作になることで、特にこの天保の飢饉では米の収穫高が前年の半分程度にまで落ち込んでいた。当時、米食を中心としていた日本人は餓死者が続出、特に奥羽地方では10万人にも上る餓死者が出ていた。都市部である京都や大坂も例外ではなく、町は餓死者で溢れかえり、生活が出来なくなった近郊の庶民は大都市に流入、治安も急速に悪化していた。

 これに対して大坂町奉行は何ら対策をしない。しないどころではない。ただでさえ少ない米を江戸幕府の儀式費用のために江戸に送り続けた。さらに大坂の豪商はビジネスチャンスとばかりに米を買い占めていた。これにより米価は急騰、庶民は飢える一方であった。

 

大塩平八郎という漢

 ここに大塩平八郎という男がいる。大塩は大坂で生まれた大塩は14歳で大坂町奉行の与力見習、25歳で与力となる。与力とは補佐官のようなもので町奉行を補佐するのが仕事である。幕府の職制では将軍の下に実質的に政策を決定する頭脳集団としての老中がおり、その直下に町奉行が設置されている。江戸幕府にとって町奉行とはかなり重要な役職なのだ。補佐官とはいえ、この町奉行の補佐官といえば相当な官職であるといっていい。

 大塩は剛直な男であった。官僚時代には汚職の摘発、キリシタンの摘発などに力を発揮、相手が上位の人物であろうが構わずに摘発していった。学問にも精通、独学で陽明学を修めた。陽明学とは16世紀の中国の学者王陽明により生まれた儒教の一派で知識だけでなく実践することを重視する学問である。このため時に反権力的になることもあり、幕府からは警戒されていた。大塩の学問のレベルは相当なものであったようで、私塾を開き弟子を作るほどであった。

 正義を貫く剛直な性格がこの陽明学によって自身の哲学となった大塩平八郎にとってこの天保の大飢饉の惨状は決して許せるものではなかった。1837年5月1日(旧暦3月27日)、大塩は決起する。目的は当時の大阪町奉行を殺害し、米を買い占めている豪商の焼き討ちをすることである。蔵書を全て売り払い自費で武器弾薬を集め弟子たちに軍事訓練を行っての決起である。

 

決起

 決起した大塩とその門弟たちは檄文を撒き豪商の家を焼き討ちした。しかし密告で事前に情報が漏れていたこともあり、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまう。半日の反乱であったが、火災は大坂の20%の家屋を焼き、死者は270人以上、さらにこの騒乱に巻き込まれた15名が死亡した。大塩平八郎は逃亡、のちに潜伏先を包囲されて自決、門人たちは捕らえられほとんどが判決が出る前に獄中死している。

 この事件、当時の幕府に衝撃を与えた。この武力蜂起がおこったのが、幕府の直轄地である大坂であること、そして首謀者が幕府の元官僚であることからだ。幕府の最重要地域反乱を鎮圧する側にいた人間が反乱を起こした。それまで盤石であった江戸幕府の統治にほころびが出始めたのだった。この事件を境に全国で同様の一揆や乱が頻発する。江戸幕府が成立して200数十年、幕府は徐々に衰退に向かっていく。

 

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