
(画像はwikipediaより転載)
要約
YB-49はノースロップ社が開発したレシプロ全翼爆撃機YB-35のエンジンをジェットに換装した機体である。全幅52.43m、自重40,117kg、最大速度は793km/h、航続距離6,400kmであった。武装は12.7mm機関砲4門で最大7,260kgの爆弾を搭載できる。ジェット化により最高速度は増加したものの航続距離は激減した。失速気味になると機首が上向く癖があり失速試験の際にこの欠陥により機体が空中分解して搭乗員全員が死亡している。予算が膨大にかかることや克服する必要のある技術的問題が多く、核爆弾の搭載もできない上に政治的な問題もからみ計画は中止された。総生産数5機。
ノースロップ YB-49
性能
全長 16.18m
全幅 52.43m
全高 4.62m
自重 40,117kg
全備重量 133,569kg
最大離陸重量 87,969kg
最大速度 793km/h
上昇力 19.23m / 秒
上昇限度 13,900m
エンジン出力 推力1,816kg(アリソン J35-A-15 ターボジェットエンジン)8基
推力重量比 0.23
航続距離 6,400km
乗員 6名
武装 12.7mm機関砲4門
爆装 最大7,260kg
初飛行 1947年10月21日
総生産数 5機(YB-49 2機 YRB-49A3機)
設計・開発 ノースロップ社
開発前史
航空機設計者であるジャック・ノースロップの夢は全翼機を開発することであった。全翼機とは翼のみの飛行機のことで、この形状は理論上、通常の形態の航空機に比べより効率的であると考えられていた。1939年、ジャック・ノースロップは航空機メーカーノースロップ社を設立、P-61ブラックウィドウ等の航空機を世に送り出した。
1941年、米軍は米本土から直接ドイツを攻撃する爆撃機開発計画を策定する。10,000(16,000km)マイルを飛行して10,000ポンド(4,540kg)の爆弾で攻撃できる爆撃機、いわゆるテンテンボマーの開発を航空機メーカー各社に要求した。これに対してノースロップ社はここぞとばかりに全翼機の開発を提案する。
この爆撃機は米軍より試作機の開発が許可され、XB-35として試作機が製作された。初の全翼機として本来であれば1943年11月には実戦配備される予定であったものの技術的な問題が多く、初飛行は第二次世界大戦終戦後の1946年となってしまった。
XB-35は飛行特性などに将来性があったものの、エンジンの不具合等の問題が多かったこと、そして何よりも初飛行時の航空機界の潮流はジェット機へと移行しつつあった。このためXB-35のジェット機化が行われることとなった。
開発
YB-35(XB-35の試作機)のジェットエンジン化モデルは試作機YB-49とされ、既存のXB-35から2機がYB-49改造された。機体構造は基本的にXB-35と同じであるが、ジェット化に伴い小さな垂直尾翼がエンジンの左右上下に追加された。エンジンはアリソンJ35-A-5エンジン(のちJ35-A-15)8基で機体左右に4基が一列に配置、ジェットエンジン化により爆弾倉が8区画から6区画に縮小、機銃も後部の12.7mm機銃4連装1基のみとなった。
初飛行→性能速度欠点など
初飛行は1947年10月21日で34分間飛行したのちに無事着陸した。飛行性能はおおむね良好で2号機も1948年1月13日には初飛行の準備が完了している。以降、2機によりテストが行われ最高速度は793km/h、巡航速度587km/hを発揮、高度13,900mまで上昇が可能であった。ジェット化したため航続距離は6,400kmとXB-35の13,120kmと比べて半分以下となってしまった。しかし4時間20分かけて北米大陸を横断したり、非公式ではあるが高度12,200m以上の高度で6時間も飛行する等の成果も残している。
これを同時期のジェット爆撃機B-45トーネード、B-47ストラトジェットと比較してみたい。B-45の初飛行は1947年3月17日で最大速度は917km/h、爆弾搭載量は10,000kgで核爆弾が搭載可能である。B-47は最大速度977km/hで爆弾搭載量が11,340kgとなっており、どちらもスペック的にはYB-49よりも遥かに上を行っている。但し、航続距離はB-47の7,479kmには及ばないもののB-45の2,213kmには圧倒している。
試作機YB-49の性能試験が行われている最中の1948年6月5日、2号機が失速テストで空中分解し搭乗員全員が死亡するという事故が起こった。そもそもYB-49は失速気味になると機首が上向くという傾向があり、失速テストでも機体が上向き過度なGが機体にかかったためエンジンの付け根部分から破断して墜落したと考えられている。
この問題が同じ全翼機であるXB-35で起こらなかったのはプロペラが一種の安定板として機能しており、本来ならばエンジンをジェット化した際に主翼の再設計を行う必要があったとのちの研究では言われている。/p>
戦歴
2号機の空中分解事故ののちの1948年6月には米空軍により偵察機型のRB-49Aが発注されたものの翌年の1月には中止が決定、その後も試験は継続されていたが1950年初頭にはレシプロ機のYB-35の廃棄が決定、たった1機残っていたYB-49による飛行試験が続けられていたが3月15日には計画の中止が決定する。奇しくも計画の中止が決定した3月15日に最後に残ったYB-49が地上滑走試験中に大破している。
偵察機型のRB-49Aは1950年5月4日に初飛行に成功したもののわずか13回飛行したのみで1951年4月26日には計画が中止、唯一残った全翼機はノースロップ社の空港に2年以上放置され、1953年12月1日に廃棄が命じられた。
計画中止の理由
この計画が中止となった翌年、失意のジャック・ノースロップはノースロップ社を退職、以降、ノースロップ社とは関係を持っていない。1979年、ジャック・ノースロップはインタビューにおいて、この計画中止の理由は米空軍がノースロップ社とコンベア社の合併を望んで、それをノースロップ社がそれを断ったためであると語っている。
この提案は恐らく事実でこの背景には第二次世界大戦後に米国航空機業界が過剰な生産能力を持ってしまったという背景がある。ただYB-49の計画は膨大な予算が必要になる上に技術的に克服しなければならない問題も多かった。さらに戦略的な問題としてはYB-49の爆弾倉の構造上、核爆弾能力がなかったことがある。これらの問題が解決されるにはコンピューター技術が進歩するまで待たなければならなかった。
1976年、全翼機の可能性を信じているジャック・ノースロップは全翼機のアイデアをNASAに伝える。NASAからは肯定的な返事をもらったもののジャック・ノースロップの体は様々な病気に侵され晩年には歩くことも話すことも出来なくなった。このジャック・ノースロップに当時開発中であった極秘爆撃機の模型がプレゼントされた。
これはのちにB-2スピリット爆撃機と呼ばれる全翼機型爆撃機であった。これは軍の機密であったが、この爆撃機の存在を知ったノースロップは紙に「なぜ神が私を25年間も生かし続けてくれたのかが分かった」と記し、震える手でこの模型を握っていたという。ジャック・ノースロップはその10ヶ月後の1981年2月18日に他界する。享年85歳。
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