超要約
奈良時代から平安時代の初期にかけて日本の軍事制度の基本は軍団制であった。一般成人男子から徴兵された徴兵軍で古代中国の制度を参考にした軍隊で最大1,000人の軍団を編成、全国に配置されたものの、全国に配置する必要性もなくなり維持費も高いことから平安時代初期に廃止された。以降は健児と呼ばれる弓馬に巧みな者が採用されて地域の治安維持にあたった。
軍団
豪族に率いられた私兵集団
現在の日本の軍事制度は周知のように自衛隊を中心とするものだ。それ以前は帝国陸海軍が存在した。さらにその前は江戸幕府、戦国時代とずーっと飛ばして古代の軍事制度とはどんなものだったのだろうか。古代の軍事制度とは意外と知られていないと言いたいが、むしろ意外ではなく普通は知らないものだ。まあ「防人とかあったよねぇ〜」という程度だろう。古代といっても範囲は広い、今回の範囲は主に律令が発布されてから奈良時代、平安時代初期位までだ。
それ以前の日本の軍事制度は制度と呼べるようなしっかりしたものではなく、国造軍など、地方の豪族が私兵を率いてはせ参じるというようなものであった。しかし激動の東アジア情勢、中国大陸に隋帝国が成立、さらに唐が成立するとにわかに緊張が走るようになる。日本列島内部の戦いにおいてはそれで良かったかもしれないが、対外戦を考えるともっと中央集権の統一指揮可能な軍事力が必要となってくる。地方豪族が私兵を率いるという軍隊はやはり集団戦の訓練を受けた統制された軍隊に対しては弱いのだ。
事実、663年の白村江の戦では唐・新羅連合軍の前に惨敗してしまう。朝鮮半島南部の海上で行われたこの戦いは豪族に率いられ、遮二無二突撃する日本水軍に対して、唐・新羅連合軍は左右から包囲殲滅してしまった。集団戦闘に長けた大陸・半島の軍隊の前に豪族中心の日本軍は無残な敗退を強いられたのだった。
軍団の編成
白村江の戦の直後、日本はすぐに逆撃体制を構築、対馬、九州北部から瀬戸内海に至る地域に山城を構築、防人と呼ばれる強力な兵団による防御体制が構築された。さらに九州北部には水城と呼ばれる1.2kmにも及ぶ長大な防壁に護られた大宰府と呼ばれる拠点を設置した。この大宰府、最近の調査では大宰府北部に構築された水城だけでなく、南部にも城壁、さらにその周辺には山城が存在したという。古代の要塞地帯であった。
防御体制と共に軍隊もそれまでの豪族が率いる私兵集団から中央集権化された強力な軍隊の存在が求められるようになってくる。7世紀後半に戸籍によって日本全国の人口が中央政府によって掌握されたことにより、中央集権の大規模な軍隊が編成できるようになった。この軍隊は、編成も中国の軍隊の編成を参考に現代と同じ様に合理的に編成されたもので「軍団」と呼ばれた。
軍団は、一般成人男性を一定の割合で徴兵した徴兵軍で最小単位は10人の「火」と呼ばれる部隊で火長と呼ばれる指揮官によって統率された。さらにその火が5個(50人)集まると「隊」と呼ばれる単位になる。これは隊正と呼ばれる指揮官に統率される。この隊が2個(100人)集まったものを旅帥が統率、旅帥が統率する2個部隊(200人)を統率するのが校尉となる。この旅帥率いる100人編成の部隊、校尉率いる200人の部隊が組み合わされて軍団が編成されたようだ。
軍団はおよそ500人から1,000人で編成され、毅と呼ばれる指揮官に統率された。これらの軍団は人数によって大団、中団、小団と分けられ大団では大毅と呼ばれる指揮官に小毅2人が補佐した。これら歩兵部隊とは別に騎兵隊も編成されており、これは乗馬や弓の技術に長けた者が選抜されて配属された。武装は弓、刀の他に弩と呼ばれる機械式の強力な弓、さらに集団戦闘の際の指揮道具である太鼓やほら貝等が装備された。
ということで廃止
この軍団の中で運がいいのか悪いのか、選抜された兵士が防人や衛士として辺境や都の警備にあたる。衛士は一年で帰ることができるからまだ良いが、防人は辺境まで行きそこで三年間服務することが決められている。平時の軍団兵士は一応、軍事訓練や設備の修繕等を行うことになっているが、結構、雑用にこき使われていたようだ。
この軍団、対外戦争のために動員されると総指揮官として大将が任命される。大将は天皇より節刀を受け部下の処刑まで含めたかなりの権限を委譲される。節刀とは刀で恐らくは権限の象徴だったのだろう。動員される軍の規模によって副将が配置される他、軍監、軍曹(多分中級指揮官)、さらに録事(多分事務官)が配置される。
軍団兵士は全国で推定20万人とも言われ、当時の日本の人口が400〜800万人であったことを考えると相当な規模である。現在の自衛隊の隊員数が25万人程度であることを考えるとどれだけのものだったのかが分かるというものだ。これだけの規模の軍隊を維持するための維持費は尋常なものではない。さらにその軍団兵士というのは同時に税を納める百姓であることも忘れてはならない。軍団に労働力を提供している間は農地の耕作などはできない。軍団の規模が大きければそれだけ税収は減るのだ。
んで、実際に軍団が役に立ったのかというと微妙なところだ。東北での侵攻作戦では軍団は活躍したものの、唐や新羅が攻め込んでくることもないし、日本から攻めることもなかった。この状況で全国津々浦々まで軍団を維持しておく必要はあまりない。ということで平安時代初期に軍団は一部地域(東北など)を除き廃止してしまう。
但し、地域の治安維持も担っていた軍団、廃止後は健児と呼ばれる豪族の子弟の中で乗馬や弓が得意な者を選抜して治安維持を行うことにした。しかし人数は極端に減り、大きい国でも数十人程度の規模になってしまった。
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