(画像は南満州鉄道本社社屋 wikipediaより転載)
超要約
日露戦争後、日露関係は急速に改善、1907年に日露協約を結んだ。これは極東での両国の特殊権益を認め合うというもので双方にとってメリットのあるものであった。1916年に第4次日露協約が締結されたが、翌年のロシア革命によって成立したソビエト連邦政府によって破棄された。
日露協約とはなにか
そのまえの国際情勢
日露戦争が終わるとロシアは進出の矛先を満洲からバルカン半島に移すことになる。そしてロシアがドイツと緊張関係になると、ドイツに敵対している英国はロシアに接近する。1907年、ロシアは英国とは英露協商、日本とは日露協約を結ぶこととなった。これ以降、利害が一致したこの三国の関係は緊密になっていく。
第一次日露協約
日本とロシアの間で結ばれた日露協約は1907年から1916年まで合計4回に及ぶ。内容は主に両国の極東での特殊権益を相互に認めることで一貫している。まず最初の1907年の第一次日露協約では、日露間の条約と日露が清国との間に結んだ条約を尊重することが決められた。さらに清国の独立、門戸開放、機会均等等が決められた。「清国の独立」とは要するに清国はどこかの国の所有ではなく、みんなで美味しく頂きましょうということだ。決して清国の側に立ったものではない。
この第一次日露協約には秘密条約があった。それはロシアが持っている北満洲、外蒙古での特殊権益を認める代わりに日本の南満州、朝鮮半島での特殊権益も認めるというものだ。因みに「特殊権益」とは、簡単にいうと「戦争で奪い取った権益」のオブラートに包んだ言い方だ。
第二次日露協約
1910年に第二次日露協約が結ばれる。これは米国の国務長官ノックスによって提案された満洲の鉄道を全て清国に返還、その後、米・英・仏・露・清・日の六か国によって共同管理を使用という提案だ。中国市場に出遅れた米国はどうしても中国の権益が欲しかったのだが、米・清国以外には何のメリットもないためその他4ヶ国によって拒否されてしまった。
第二次日露協約とはこの提案を拒否することを日露両国が確認したものである。
第三次日露協約
1912年、第三次日露協約が結ばれる。これは同年に中国で起こった辛亥革命に対応するためのもので、内蒙古の西部をロシア、東部を日本が利益を分割するということを取り決めたもの。
第四次日露協約
1916年に結ばれた最後の日露協約。第一次世界大戦中の協約で日露の関係強化と第三国の中国支配阻止、そしていつも通りの極東における両国の特殊権益の擁護を再確認したものだ。第一次世界大戦でドイツ・オーストラリア、イタリアの三国同盟に対抗したのは、主に英・仏・露・日である。英・仏・露は前述の英露協商にフランスが加わった三国協商、さらに日露協約という協約によって成り立っている。それを再確認したかったのだ。因みに露仏は1894年に露仏同盟、英仏は1904年に英仏同盟、日本と英は1902年に日英同盟を結んでいる。ガチガチの同盟関係をさらに確認したことになる。
しかし1917年にとんでもないことが起こる。ロシア革命だ。ロシア革命により帝政ロシアは滅亡してしまった。新しく権力を握ったソビエト連邦政府は日露協約を破棄。10年近く続いた日露の同盟関係は終わりを告げた。
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