(画像はwikipediaより転載)
要約
九五式水上偵察機とは三竹忍技師を設計主務者として中島飛行機が開発した水上偵察機である。初飛行は1934年で目新しいアイデア等は無かったが、安定性、操縦性に優れた傑作機であった。九六式艦上戦闘機並みと言われた運動性能によって戦闘機代わりに使用された他、爆撃や哨戒とあらゆる任務をこなした。太平洋戦争開戦後も使用され続けインド洋海戦では英空母ハーミスを発見する等殊勲を挙げた。零式水上観測機にその役割を譲った後も哨戒や練習機として終戦まで活躍した。
九五式水上偵察機
性能
全幅 10.98m
全長 8.81m
全高 3.84m
自重 1,370kg
最大速度 299km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで6分31秒
上昇限度 7,270m
エンジン出力 630馬力(寿2型改2)1基
航続距離 898km(増槽装備時)
乗員 2名
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 30kg爆弾2発
初飛行 1934年
総生産数 757機
設計・開発 三竹忍 / 中島飛行機
背景から開発まで
国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一日本のみが量産化された水上戦闘機である二式水上戦闘機、強風、水上攻撃機晴嵐、急降下爆撃可能な水上爆撃機瑞雲等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。
零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。
開発
1933年、現用機である九〇式二号水偵の後継機にあたる八試水上偵察機の開発が愛知時計電機、川西飛行機、中島飛行機の3社に指示された。これを受けて中島飛行機は三竹忍技師を設計主務者として開発を開始、1934年3月に試作1号機が完成した。これは同社製九〇式2号水偵をベースとして全体を再設計したもので全幅、全長もほとんど変わらないが空気力学的にはより洗練された機体となった。武装は機首に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺を装備、爆弾は30kg爆弾2発が装備可能であった。
胴体は木金混製で前半部分が金属張り、後半部分が羽布張りで、エンジンは九〇式水偵と同じ寿2型改1(580馬力)を装備していたが、最高速度は九〇式水偵の最高速度232km/hを67km/hも上回っている他、上昇性能、操縦性、安定性とあらゆる面で性能が向上していた。八試水偵の比較審査では、愛知、川西製も性能では伯仲していたが、総合的に優れていた中島製が他2社を破り1935年9月17日、九五式水上偵察機として制式採用された。1938年10月には、エンジンが寿2型改2(630馬力)に変更されたため、改1の機体を九五式1号水偵、改2を九五式2号水偵と呼称された。
実戦部隊でも九五式水偵の評価は高く、運動性能に関しては九六式艦戦にも匹敵するとまで言われた。このため戦闘機の代用として使用されたり、哨戒、爆撃とマルチに活躍した水上機であった。この九五式水偵の活躍が水上戦闘機開発のきっかけになったとも言われている。太平洋戦争開戦後も使用され続け、戦艦榛名搭載の九五式水偵は、インド洋海戦で空母ハーミスを発見するという殊勲も挙げている。1942年頃からは後継機にあたる零式水上観測機と交代して第一線からは姿を消したが、哨戒、連絡、訓練等で終戦まで活躍した。
生産数
生産は1942年まで続けられ、中島飛行機で試作機2機、増加試作機7機、生産機700機の合計709機、川西航空機で48機の合計757機生産された。太平洋戦争終戦時には50機が残存していた。
まとめ
九五式水偵は、戦艦や巡洋艦の艦載機、水上機母艦、基地航空隊に配備されたが、戦闘機との空中戦、爆撃等あらゆる任務に活躍した。操縦性、安定性も良いためドイツ海軍でも1機が使用された他、タイ王国海軍でも制式採用された。この成功体験が海軍に水上機に対する過剰な期待を持たせることとなり、太平洋戦争開戦後、水上機部隊は、低性能の水上機で米軍の新鋭機と空戦を行わなければならなくなってしまった。九五式水偵は傑作機であると同時に罪深い機体でもある。
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