
(画像はwikipediaより転載)
要約
二式水上戦闘機は、中島飛行機が零式艦上戦闘機をベースに開発した水上戦闘機である。初飛行は1941年12月8日で最高速度は437km/h、航続距離1,150kmと大幅に低下したものの運動性能は良好であった。当初は整備等で工場に戻された零戦を改造する方針であったが手間がかかるために新造されることとなった。総生産数は327機で1942年5月から前線に投入されしばしば戦果を挙げた。終戦時には24機が残存していたが現存機はない。
二式水上戦闘機
性能
全幅 12.50m
全長 10.24m
全高 4.305m
自重 1,922kg
最大速度 437km/h(高度4,300m)
上昇力 5,000mまで6分49秒
上昇限度 10,500m
エンジン出力 940馬力(栄12型エンジン)
航続距離 1,150km
乗員 1名
武装 20mm機関砲2門、7.7mm機銃2挺
爆装 60kg爆弾2発
初飛行 1941年12月8日
総生産数 327機
設計・開発 三竹忍 / 中島飛行機
背景から開発まで
二式水上戦闘機、略して二式水戦は世界で最初に量産された水上戦闘機である。後継機として強風が量産されるがこの二機種のみが人類史上量産された水上戦闘機である。つまりは水上戦闘機を量産したのは世界で日本のみだ。この背景には計画当時、将来に南方侵攻作戦が予想されていたことがある。南方の飛行場の無い地域でも作戦可能なことから水上機が有用と考えられ、さらに日中戦争で水上機がしばしば敵戦闘機、攻撃機を撃墜している実績があったことから水上戦闘機の生産が決定された。
この計画によって開発が決まったのが十五試水上戦闘機のちの強風である。しかし計画は始まったものの、この十五試水上戦闘機が近々開始が予想される南方侵攻作戦に間に合う可能性は皆無に近かった。そこで考え出されたのが新鋭戦闘機である零式艦上戦闘機を水上戦闘機化するという案であった。三菱製である零戦の水上機化ということであれば、本来なら三菱に設計を依頼するのが当然であるが、三菱は零戦や一式陸上攻撃機の生産に忙殺されており余力がなかった。そこで小型水上機開発の経験が豊富な中島飛行機に命じて零戦11型をベースに水上戦闘機化させたのが二式水上戦闘機である。
開発
以上の経緯から1941年初頭に仮称一号水上戦闘機として中島飛行機に試作が命ぜられた。中島飛行機では三竹忍技師を設計主務者として作業を開始。1941年12月に試作1号機を完成させた。零戦からの主な改良点は主脚、尾輪、着艦フックとこれらに関係する装置の廃止、同時に各収納穴を廃止して平滑に整形した。さらに胴体下面に全金属製のフロートを取り付け、両翼端下面に補助フロートを取り付けた。フロートの影響により尾部を再設計し、垂直尾翼の大型化、方向舵下方に安定鰭を追加した。
これにより全長が8.1cm増大し10.131mとなり、全高が4.305m(零戦は3.509m)となった。自重は226kg増大したが脚や着艦フック関係の装備を廃止したために増大量は比較的少なかった。1941年12月8日に初飛行に成功。すでに正式採用されている機体がベースとなっているためテストは順調に進められた。水上機化したため最高速度が零戦11型の533kmから435km、航続距離が2,222kmから1,150kmと大幅に低下したが、巡航速度、上昇力共に零戦と大きくは異ならなかった。
1942年7月6日、二式水上戦闘機として正式採用され、1943年9月に生産が終了するまで327機が製作された。当初は重整備のために還納されてくる零戦を改造する方針であったが水上機として設計されていない零戦の機体は開口部が多く無理であることが判明したために新造することになったという。
実戦参加
二式水戦の実用化のめどがついたことにより、1942年5月下旬、海軍初の飛行艇専門部隊横浜航空隊に水戦隊が編成された。さらに東港空の水戦隊が7月9日に編制され、8月には特設水上機母艦神川丸水戦隊、14空水戦隊が編成された。
編成を終えた横浜空水戦隊12機は1942年5月26日、特設水上機母艦聖川丸で横須賀を出港、6月3日にラバウルに到着した。水戦隊の初の実戦は6月5日のラバウル上空哨戒である。初の戦闘は1942年6月10日、5機の二式水戦が5機の敵機と空戦になったが戦果は不明である。
7月4日、佐藤理一郎大尉に率いられた先遣隊7機がツラギに進出、23日さらに4機が進出した。先遣隊7機は、7月10日に来襲したB-24を迎撃、1機を撃墜、水戦隊の初戦果を記録するが、最近の研究によると実際はこの地域にB-24は進出していなかったようだ。
生産数
その後も二式水戦は北方、中部太平洋、本土防空に活躍し続ける。前述のように総生産数は327機であるが、終戦時に残存していた二式水戦は合計24機のみである。内訳は、河和に11機、天草に3機、香取に2機、ペナンに2機、鹿島、北浦、館山、大津、今宿、佐世保に各1機であった。現存する機体はない。
まとめ
二式水上戦闘機は世界で初めて量産され実戦で使用された水上戦闘機である。速力こそ零戦に及ばなかったものの、低速になった分、空戦性能はオリジナルの零戦すら上回ったという。中には38機を撃墜したという河口猛飛曹長というエースパイロットもいたというが詳しくは分からない。水上戦闘機という特殊な機種は、島嶼の奪還戦となった太平洋戦争では日本軍の飛行場設営能力の不足と相まって重宝された。しかし新鋭の連合国軍戦闘機と互する性能はなかった。二式水戦は、零戦以上に日本の限界を可視化した機体であったのかもしれない。
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