(画像は零戦21型 wikipediaより転載)
要約
零式艦上戦闘機、通称零戦は、堀越二郎技師の設計による三菱製の艦上戦闘機で1939年4月に初飛行、1940年9月13日に初空戦を行った。特徴は圧倒的な運動性能と20mm機銃という強力な火力で日中戦争から太平洋戦争初期には威力を発揮した。太平洋戦争開戦以降も幾度か改良が行われつつ終戦まで使用され続けた。生産は中島飛行機でも行われ、総生産数は10,000機以上にも上る。これは日本の航空機生産史上最高である。
零式艦上戦闘機
性能(五二型)
全幅 11.0m
全長 9.121m
全高 3.57m
自重 1,876kg
全備重量 2.733kg
最大速度 565m/h(高度6,000m)
上昇力 6,000mまで7分01秒
上昇限度 11,740m
航続距離 全力30分+2,560km(増槽装備時)
エンジン出力 1,130馬力(栄21型エンジン)1基
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺
初飛行 1939年4月(十二試艦戦)
総生産数 10,430機(全型合計)
設計・開発 堀越二郎 / 三菱重工業
背景から開発まで
1937年10月5日、三菱と中島飛行機に海軍の次期艦上戦闘機計画要求書が交付された。この要求書では次期艦上戦闘機は格闘戦性能は九六戦と同等にして速度、上昇力、航続距離を大幅に向上させるという不可能に近い要求であった。このため中島飛行機は試作を断念。三菱のみが十二年試作艦上戦闘機製作を行うこととなった。
開発
当時、設計するにあたって使用できるエンジンは三菱製の780馬力瑞星と1,000馬力の金星の2基しか存在しなかった。瑞星はコンパクトではあったが馬力が弱く、逆に金星は大型であったが高馬力であった。これらを選考した結果、非力ではあるが、コンパクトな瑞星が選定された。
エンジンの馬力が弱いことから設計には特に重量軽減と空気抵抗を極力少なくすることに注意が払われた。このため軽量で強度の高い超々ジュラルミン、沈頭鋲の採用、海軍戦闘機初の引込脚や世界初の水滴型増槽も採用された。
これらの斬新な技術を取り入れた十二試艦戦は1939年3月に試作1号機が完成、同年4月に初飛行が行われた。1939年9月海軍に領収され、2号機も翌月に領収されている。これら2機の試作機のエンジンは瑞星であったが、1939年中頃に中島飛行機において瑞星よりも軽量小型である栄エンジンが完成したことからエンジンを栄エンジンに換装することとなった。
栄への換装は増加試作機1号機である通算3号機から行われた。換装の結果、最高速度が533km/hに達する等高性能を発揮したが、1940年3月11日、奥山益美工手(操練21期)が操縦する試作2号機が空中分解事故を起こしてしまう。これは急降下時におけるフラッター異常であり、早速改修工事が行われた。この事故の約3ヶ月後の7月21日、前線からの要望により制式採用前の十二試艦戦15機が前線に送られた。同月24日、零式一号艦上戦闘機一型として制式採用された。
零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)
1939年3月16日、零戦試作1号機が完成した。同年4月1日、初飛行。これが世界初の零戦で量産型と異なりエンジンが瑞星という780馬力という非力なエンジンであった。量産型に比べて胴体が30センチほど短い。この2機の内、2号機は事故で失われている。エンジンを940馬力栄12型に換装した11型は1939年12月28日に初飛行、1940年7月24日正式採用された。この11型は総数64機(wikipediaでは60機)生産されており、太平洋戦争初期まで使用されていたようだ。着艦フックは付いているものと付いていないものがあった。
零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)
この11型を改良したものが零戦21型で1940年12月4日正式採用された。この型は11型の翼端を折り畳めるようにしたもので三菱で740機、中島飛行機で2628機生産された。21型は1944年春まで中島飛行機によって生産が続けられ、太平洋戦争初期から終戦まで使用し続けられた。エースパイロットの坂井三郎氏曰く、21型こそが最高の零戦であるという。
零戦32型
(画像は零戦32型 wikipediaより転載)
この21型のエンジンを二速過給機付栄21型エンジンに換装し翼端の折畳部分を切断し角型に整形したのが32型でエンジンの換装により馬力が1130馬力に最高速度が541kmに増加したが発動機の燃料消費量の増大と燃料搭載量の減少で航続距離が減少した。さらに20mm機銃が99式1号2型に変更されて装弾数が60発から100発に増加した。1941年7月14日に初飛行、1942年春に実戦配備された。生産は三菱のみで行われ試作3機とは別に343機が生産された。これは前期型と後期型に分かれ後期型は燃料タンクが大型化されている。前期型が188機、後期型が152機生産されている。
零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)
32型の航続距離の短さが問題となり改良されたのが22型で1942年に1号機完成、1943年1月29日に正式採用された。エンジンは栄21型を使用しているが燃料タンクは増設された。翼端も21型と同様の12mに戻される。この22型には甲という武装が変更されたモデルが存在する。甲型は99式1号の銃身を長くした99式2号3型に変更されている。22型はソロモン方面で活躍した。これも三菱製のみで560機が生産されている。
零戦52型
(画像は零戦52型 wikipediaより転載)
零戦52型は1943年8月23日正式採用された。翼幅は32型と同様に11mに縮小したが、翼端は32型と異なり円形に整形された。発動機は栄21型であるが、排気管をロケット式排気管に変更したため馬力が1300馬力に増加。武装は22型甲と同様に99式2号3型で三菱でエンジンに消火装置の無い前期型と消火装置装備の後期型に分かれる。三菱で747機製造された。前期型が370機、後期型は377機である。同時に中島飛行機でも生産された生産数は3573機と言われている。52型の武装を変更したのが甲型で99式2号3型からベルト給弾式の4型に変更した。これによって携行弾数が125発になった。三菱で391機生産されている。中島製は不明。さらに甲型の右胴体銃を3式13mm固定機銃に変更した乙型が存在する。装弾数230発。三菱で470機生産された。中島製は不明。さらに両翼に13mm機銃増設、防弾強化をした重武装型の丙型がある。三菱184機(推定)、wikipeidaでは341機となっている。最高速度541km。
零戦53型、62/63型
この52型丙のエンジンを栄31型に換装したのが53型丙で試作機のみ製作された。さらに戦闘爆撃機型の62型、63型も生産されている。最高速度543km。機体強度を強化、爆弾投下装置新設。栄31型エンジンを装備している機体と栄21型を装備している機体がある。 紆余曲折があったため呼び方が混乱している。三菱両社で約490機が生産されたと推定される。
零戦54/64型
最後に製作されたのが零戦54/64型で試作機が2機のみ製作された。エンジンを1,500馬力金星エンジンに換装。最高速度は海軍側資料では572km。三菱側資料では563km。胴体銃は廃止され、翼内の20mm機銃、13mm機銃各2門となった。最後であり最強の零戦。
零式練戦11型
その他、零式練戦11型が日立航空機272、21空廠で243機生産された。零式練戦は練習用の零戦で1943年に試作一号機が完成、1944年3月17日に正式採用された。複座式、翼端折畳廃止、固定武双は7.7mm機銃のみで20mm機銃はない。零式練戦22型も試作されたが、試作2機のみ。
配属部隊
1940年7月、当時まだ制式採用前であった十二試艦戦15機が第12航空隊に配属されたのが最初である。その後11型として制式採用、9月13日には重慶上空で初空戦を行っている。同月14空にも零戦9機が配属、北部仏印進駐としてハノイに進出した。両航空隊は1941年9月に解隊するが、その間に対空砲火によって3機の零戦が撃墜されている。
太平洋戦争開戦時に零戦を装備していた部隊は実験部隊でもある横空を除くと、空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴の戦闘機隊が126機、開戦と同時に比島攻撃を予定していた台南空と3空が各45機の合計90機、さらに22航戦司令部戦闘機隊が27機装備していた。1942年2月になるとラバウルに進出した4空が9機(10機とも)の零戦を受領、同月より運用を開始、6空(のちの204空)と空母隼鷹、龍驤の戦闘機隊にも零戦が配備された。この空母に搭載された零戦は隼鷹戦闘機隊隊長の志賀淑雄少佐が半ば強引に配備させたものと言われている。1942年8月には二号零戦(のちの32型)がラバウルに進出した2空に配備されており、以降、零戦は各部隊に順次配備されていった。
まとめ
同時期に同じく栄エンジン(陸軍名「ハ-25」)を使用した戦闘機一式戦闘機隼は愛称「隼」として当時から国民に親しまれていたが、実は零戦は戦中ほとんど国民には存在は知られていなかった。この零戦が一躍「ゼロ戦」として有名になるのは、戦後、零戦は著名なエースパイロット坂井三郎『大空のサムライ』のヒットによる。一躍有名になった「ゼロ戦」は現在でも知らない人はほとんどいない名機中の名機である。
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