(画像はwikipediaより転載)
要約
雷電は三菱重工業が開発した日本海軍初の局地戦闘機である。初飛行は1942年10月で最高速度は596km/hであったが、大型の火星エンジンを装備したため前方視認性が悪く「殺人機」とまで呼ばれパイロットには不評であった。しかし米軍からは相当な脅威であったようで米軍の公式評価をして「大型爆撃機に対してすべての日本軍戦闘機の中で最強」と言わしめた戦闘機でもあった。
局地戦闘機雷電 〜概要〜
性能(21型)
全幅 10.8m
全長 9.7m
全高 3.9m
自重 2,539kg
最大速度 596km/h(高度5,450m)
上昇力 6,000mまで5分38秒
上昇限度 11,700m
エンジン出力 1,800馬力(火星23甲型エンジン)
航続距離 2,519km(増槽装備時)
乗員 1名
武装 20mm機関砲4門(携行弾数各190発2門、210発2門)
爆装 60kg爆弾2発
初飛行 1942年10月13日
総生産数 621機
設計・開発 堀越二郎 / 三菱重工業
開発
(画像はwikipediaより転載)
日本海軍は日中戦争の戦訓から対大型機迎撃用の戦闘機である局地戦闘機の必要性を痛感した。このため開発されたのが局地戦闘機雷電である。局地戦闘機の開発計画は太平洋戦争前から始まった。1939年9月、海軍は、十四試局地戦闘機の計画要求書を内示。内示は三菱と中島飛行に対して行われたが、中島飛行機は、のちの夜間戦闘機月光や深山開発で忙殺されていたため辞退。三菱が受けることとなった。
海軍からの内示を受けた三菱重工は堀越二郎を設計主務者として開発を開始、海軍の要求が高速戦闘機であったことから当時、日本では最強の航空機用エンジンであった火星エンジンを使用することが決定する。しかし、大型の火星13型エンジンを採用したため胴体は紡錘形になり、抵抗を減らすため風防も胴体上面にそのままつながる形式のものが採用された。
そして胴体を紡錘形にしたためエンジンとプロペラの距離を離した延長軸を採用する。これがのちの振動問題につながっていく。雷電では新しい試みとして、生産性の向上を考慮して分割構造を採用。溶接部品を減らし工作の簡易化と部品点数の減少を図ったりもしている。
延長に次ぐ延長
1940年12月第一次実大模型審査が行われ、さらに1941年1月第二次実大模型審査が行われた。順調に行けば、試作1号機の完成は1940年末の予定であったが、その後、何度か予定が延長され、結局、試作機が完成したのは、1942年2月であった。
1942年3月21日、十四試局戦初飛行。1942年6月〜7月にかけて官試乗。周防元成大尉が担当している。周防大尉は海兵62期出身で15機を撃墜した実戦派である。試乗の結果、安定性、操縦性には全く問題はなかったが、視界不良や上昇力の不足、さらに予定していた速度が時速594kmであったのに対し、574kmしか出なかったりと海軍側の期待に応えるものではなかった。
十四試局戦改計画へ移行
その結果を受けて、十四試局戦開発計画は、十四試局戦改計画に移行された。この十四試局戦改計画とは、十四試局戦のエンジンを水メタノール噴射式の火星23甲型に換装するというもので、十四試局戦の性能向上型として1941年7月に開発が決定していた計画であった。
水メタノール噴射式とは、高オクタン価のガソリン入手が難しい日本の国情に合わせたもので、エンジンに水とメタノールの混合液を噴射することによってエンジンの出力を20〜30%増大させることを狙ったものであった。
試製雷電完成
十四試局戦改は、1942年10月に完成。試製雷電と呼ばれた。そして1942年10月13日初飛行したが、激しく黒煙が吹き上がることや振動が激しいなどの不調を修正するのに時間がかかってしまい、雷電11型として生産が開始されたのは1943年9月であった。
雷電11型は、155機生産されたが生産開始後翼内タンクに自動消火装置が設置された他、中期後期型からは翼内銃の角度を3.5〜4.5度上向きに取り付けられた。生産開始後約1年の1944年10月に制式採用される。試作機は8機製作されている。
雷電21型
総生産数は621機であるが、雷電には多くのバリエーションが存在する。まず、雷電21型であるが、1942年10月十四試局戦改一、または試製雷電改として開発が開始され、1943年10月12日1号機初飛行。胴体の7.7mm機銃を廃し翼内銃をベルト給弾式九九式1号4型(装弾数190発)2挺と九九式2号4型2挺(装弾数210発)に強化。胴体内タンクをゴム被覆防弾タンクに改良。風防前面に厚さ50mmの防弾ガラスが追加された。
最大速度594km、上昇力は6,000mまで5分50秒から6分14秒。三菱で280機、厚木の高座海軍工廠で数十機製作された。この21型の機銃を4挺ともに九九式2号4型に変更、爆弾4発搭載可能としたのが、21甲型である。
雷電23型
23型は21型の発動機を火星26型に換装したもの。武装は21型と同じ。この23型の武装を21甲型と同じにしたものが23甲型で、21型の風防の高さを50cm、幅を80cm増やし風防前方の胴体上面の両側が削られた視界改善対策実施型が31型である。武装は21型と同じ。最大速度590kmで数十機が生産された。31型の武装を21甲型と同じくしたのが31甲型。
雷電32型
32型は排気タービン過給機を装備したものでカウリング前面の開口部が広げられている。武装は翼内銃2挺として風防後方に20mm斜め銃2挺が追加された。1944年1月に開発が指示され三菱と空技廠で2機ずつ、第21空技廠でも製作された。
三菱製のものは1944年8月4日に完成、9月24日初飛行。最高速度が583kmと期待したほどではなかったため製作は打ち切られ三菱と空技廠の計4機は厚木の302空に引き渡された。この他、1944年末から20年初めにかけて第21空技廠で十数機の雷電が排気タービン過給機装着型として352空に供給されたが実用には至らなかったという。
雷電33型
33型はエンジンを火星26型、または26甲型に変更したもの。31型同様の視界向上策を施した。先行試作機は11型の2機をベースに製作され1944年5月20日に初飛行した。最大速度が614kmと海軍戦闘機の最高性能を記録、武装は21型と同じ。21甲型と同じ武装にした33甲型も製造された。生産数は30数機。その他試験的に2式30mm機銃を2挺搭載したものや部隊で改造された斜め銃が装備されたものなどがある。どちらも302空で使用された。
雷電バリエーションまとめ
雷電はあまりにもバリエーションが多く、複雑であるが、簡単に分類すると試作機が2種類、十四試局戦、十四試局戦改があり、量産機としては、11型、21型、23型、31型、32型、33型の6種類があり、さらに量産機では、32型以外の5機種には武装強化型の甲型が存在する。
生産数
最終生産数は三菱が470機で他にも高座工廠や日本建鉄でも少数が製造された。合計621機。ほとんどが21型である。
戦歴
(画像はwikipediaより転載)
局地戦闘機雷電を運用する部隊として1943年10月1日、381空が編成された。同月中には新鋭機雷電が装備されたもののその配備数は月末に至っても5〜6機という有様であった。1944年1月、381空はボルネオ島バリクパパンに進出するが、同月、雷電が空中分解事故を起こしたため零戦隊のみが進出、雷電隊の進出は見送られた。
この381空は4月には、零戦隊を戦闘311飛行隊、雷電隊が戦闘602飛行隊、月光隊が戦闘902飛行隊の3個飛行隊編成に変更、雷電装備の戦闘602飛行隊の外地への初進出は1944年9月頃で、セレベス島ケンダリー基地に9機の雷電が配備、実戦にも参加している。
1943年11月5日には、横須賀で301空が編成、12月中には雷電が配備されたが機数はわずか4機で内、3機が十四試局戦改であった。1944年3月4日には301空も零戦隊は戦闘306飛行隊、雷電隊が線t脳601飛行隊に変更されている。この301空は編成完了後、最前線ラバウルに進出することが予定されていたが結局間に合わず、戦闘601飛行隊も機種を零戦に変更したため301空は実戦で雷電を使用することはなかった。
本土空襲と雷電
戦略爆撃機の本土空襲の可能性が現実味を帯びるようになった1944年3月1日、首都防空を主任務とした302空が木更津で開隊、8月1日には岩国で呉防空を目的とした332空が開隊した。8月10日には佐世保、大村、長崎地区の防空を担当する352空が開隊、この部隊での雷電の実戦参加は、10月25日の大村地区空襲での迎撃戦で8機の雷電が出撃している。
一方、本拠地を厚木に移動した302空は3分隊で編成、1、2分隊が雷電装備、3分隊が零戦という構成であった。配備されていた雷電は合計40機にも達したが11月に至っても可動機はわずか10機に過ぎなかった。この時期には米空軍第21コマンドによる東京空襲も開始、302空雷電隊も12月3日には迎撃戦に参加、初戦果を記録している。
当初はB-29単独での空襲であったが、1945年2月以降は戦闘機が随伴、さらには米海軍第58任務部隊による本土空襲作戦であるジャンボリー作戦の開始と合わせて雷電による小型機の迎撃戦も行われることとなった。4月には沖縄航空戦の拠点となっている九州地区への空襲が激化、これに対応するため302空、332空、352空の雷電隊が同方面に集結、「竜巻部隊」を自称するこれら雷電隊が防空任務に当たっている。
その他、輸送部隊である1001空、210空、上海方面では256空(後に951空に吸収)でも少数の雷電が配備されている。
まとめ
日中戦争の戦訓により開発された局地戦闘機雷電は、振動問題の解決等に時間がかかり活躍するのは太平洋戦争後半になってしまった。実戦配備後も視界の悪さや離着陸の難しさから殺人機という不名誉なあだ名を付けられるにいたった。しかし高速、重武装の雷電は連合国軍からは恐れられた。米軍の公式評価では雷電は大型機に対した全ての日本軍機の中で最強であったとされている。
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コメント
コメント一覧 (1)
むしろ陸軍の鍾馗そのまま採用でも出来たらとか
機銃も陸海軍で別々に開発とかの無駄が無ければとか
ただでさえ少ないリソースの分散
ピエール隊長
がしました