01_米国代表団
(以下画像はwikipediaより転載)

 

 

要約

 ワシントン条約で対象外となっていた巡洋艦以下の艦艇の保有を制限するための条約で、この条約によりワシントン条約の5年間の延長と巡洋艦以下の艦艇の保有の制限が合意された。参加国は英・米・日の三国であるためフランス・イタリア・ドイツは制限外である。続く第二次条約では日本が条約の締結を拒否したため建艦競争が再燃する。

 

ロンドン海軍軍縮条約

 

背景

 過熱する建艦競争を抑制するために1922年にワシントン海軍軍縮条約が締結された。この条約により主力艦の保有比率が制限され、英米5、日本3、仏伊1.67という比率となった。以降、新造艦の建造も中止されたが主力艦以外の艦艇は制限外であり、主力艦の不足を補うために建艦競争は激しさを増した。そこで1927年にジュネーブで巡洋艦以下の艦艇の制限を求める軍縮会議が開かれたが条約を締結するまでには至らなかった。

 

第一次ロンドン海軍軍縮条約

 1930年になると今度はロンドンで軍縮条約が開かれた。ジュネーブでは植民地防衛のために軽巡洋艦を重視する英国と決戦兵力として重巡洋艦を重視する米国が対立したがロンドン条約では妥協が成立した。日本はワシントン条約で主力艦の比率が対米6割になってしまったので今回は決死の覚悟で対米7割を主張した。この結果、補助艦艇に関しては対米7割が成立する。

 この条約では10,000トン以下の航空母艦も全条約の規定の範囲内としたうえで巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、その他補助艦艇の保有比率が決められた他、ワシントン条約で決定された主力艦をさらに削減することが決定、英国5隻、米国3隻、日本1隻が廃棄された。日本で廃棄された戦艦は金剛級巡洋戦艦比叡であるが、これは練習艦とすることで解体は免れた。

 さらにワシントン条約で決定した主力艦の建造制限はさらに5年間延長、1936年まで建造は禁止された他、艦齢20年を過ぎた艦の代艦建造規定も廃止された。このため日本では新造艦艇を条約の制限内に収めるために無理な設計が行われた結果、友鶴事件、第四艦隊事件が起こった。

 尚、この条約ではフランス、イタリアは内容に不満を持ったため調印しておらず、ドイツは条約に参加していない。あくまでも英・米・日の三か国の間の条約である。つまりはフランス、イタリア、ドイツ等非条約締結国は補助艦艇の保有の制限を受けないのと同時に仏伊は主力艦の建造制限も延長されない(ワシントン条約では10年間の建造禁止)。

 

統帥権干犯問題

 日本では、軍隊は天皇によって統帥するという大日本帝国憲法の規定があったが、この条約の結果に不満を持った勢力(犬養毅、鳩山一郎、伊藤巳代治、金子堅太郎やその他軍人)がロンドン条約において政治家が兵力量を決定したのは統帥権干犯であるとして干犯問題を提起した。

 結局、国会で条約を可決して天皇の裁可を得て条約批准にこぎ着けたものの、以降、内閣や国会は統帥権を主張する軍部の独走を抑えられなくなる。

 

第二次ロンドン海軍軍縮条約

 1922年以降、新規の戦艦の建造は行われず、いわゆる「海軍の休日(Naval Holiday)」と呼ばれる時代が続いた。1936年12月に再びロンドンで軍縮会議が開かれた。この会議では新造戦艦の建造は認めたものの排水量は35,000トン以下、主砲は35.6cm(16インチ)を上限とすることになっていた。

 しかし日本とイタリアは条約締結を拒んだため、ロンドン条約の期限が切れる1936年末までに日・伊が条約に参加しない場合は、加盟国の戦艦、空母の保有枠の増大、主砲の上限を排水量45,000トン以下、主砲を41cm砲以下に拡大することができるというエスカレーター条項が付けられていた。この条約には英・米・仏が調印している。

 

その後

 第一次ロンドン海軍軍縮条約の期限を迎えた1936年末、日本は戦艦大和の建造を開始する。これに対して英米もエスカレーター条項を発動して戦艦の建造を開始する。

 

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