01_P-38_Lightning
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 P-38ライトニングはクラレンス・レオナルド・ジョンソンが設計、ロッキード社が生産した戦闘機である。三胴という特殊な形状をしていたが最高速度667km/h、航続距離1,770kmと非常に高性能であった。初飛行は1939年1月27日で総生産数は10,037機である。1942年5月に実戦投入され同年8月に初戦果を挙げている。P-38を使用してエースとなったパイロットも多い。米国の第二次世界大戦参戦前から終戦まで生産された稀有な機体である。

 

P-38ライトニング

 

 

性能

全幅 15.85m
全長 11.53m
全高 3.00m
自重 5,800kg
最大速度 667km/h(高度7,620m)
上昇力 1,448m / 分
上昇限度 13,400m
エンジン出力 1,475馬力(アリソンV-1710-111/113液冷エンジン)
航続距離 1,770km
翼面荷重 261kg / 立方メートル
乗員 1名
武装 20mm機関砲1門(弾数150発)、12.7mm機銃4挺(弾数各500発)
爆装 2,000ポンド(908kg)爆弾2発または
   500ポンド(227kg)爆弾4発または
   ロケットランチャー4基、5連装HVAR2基
初飛行 1939年1月27日
総生産数 10,037機
設計・開発 クラレンス・レオナルド・ジョンソン / ロッキード社

 

開発

 1937年2月、米陸軍はドイツや日本の戦闘機に対抗できるような高速戦闘機の開発を各航空メーカーに命じた。これに対してベル・エアクラフト社はB-4(のちのP-39エアラコブラ)、当時、旅客機専門メーカーであったロッキード社はモデル22を設計した。これがのちのXP-38である。

 この機体は高速を発揮するために双発、さらには双胴で双胴の中央に胴体がまた一つ入る三胴という特殊な形態をしていた。パイロットは中央の胴体前部に搭乗、左右の胴体は後方で昇降舵で繋がっていた。垂直尾翼は2枚である。エンジンは1,150馬力液冷式V型12気筒アリソンV-1710-29/17エンジンでトルクを打ち消すために左右反転するように設計されており、さらに高高度での戦闘用に排気タービン過給器を装備していた。

 形態上、プロペラに邪魔されることなく、コックピット前方に武装を集中できるため武装は強力で、25mm(23mm)機関砲1門、12.7mm機関銃4挺が搭載予定であった。設計はわずか1年半で完成、1939年1月27日に初飛行に成功した。細部に問題はあったものの性能は素晴らしく、米陸軍が要求した最高速度640km/hを35km/h上回る675km/hを達成した。これに満足した陸軍は同年9月にP-38として制式採用した。この際に武装は37mm機関砲1門、12.7mm機関銃4挺に変更されている。

 

 

類稀なる高性能機

 対ドイツ戦では爆撃機の護衛や戦闘爆撃機として使用され、双胴の悪魔と呼ばれていた。対日本戦でも初期の段階から投入され、外観的な特徴から「メザシ」または「ペロ八」等というあだ名が付けられていた。「ペロ八」というのは「ペロ(ペロ)っと食べられる(撃墜できる)P-38(八)」という意味である。

 P-38は翼面荷重が261kg/立方メートルと重く、零式艦上戦闘機の108kg/立方メートルの2.5倍であった。このため格闘戦に持ち込まれると弱く、日本のパイロットに簡単に撃墜されてしまった。このためペロ八と呼ばれていたのだが、これはP-38が太平洋戦域に投入された初期の話で中期以降は格闘戦を避け、一撃離脱戦法に変えたため日本軍にとって脅威となった。

 このP-38はもっとも多くの日本機を撃墜したと言われており、事実、米軍のトップエースであるリチャード・ボング少佐(40機撃墜)、二位のマクガイア少佐(38機撃墜)等はどちらもP-38を使用している。航続距離も長大であり、この航続距離を生かして山本五十六連合艦隊司令長官の乗機を撃墜したこともあった。

 このように高性能機であったため、英空軍からも購入希望があったが、軍事機密である排気タービン過給器を取り外し、プロペラも左右同方向に回転するというかなり性能を落としたモンキーモデルを渡したため、結局、受取りを拒否されている。

 

戦歴

 1942年5月29日のアリューシャン列島で初めて運用が開始。初戦果は同年8月9日の九七式大型飛行艇の撃墜である。しかし以降P-38は太平洋戦域よりもヨーロッパ戦線に優先的に配備されており、1942年8月からヨーロッパ戦線に配備されたのに対して、本機が太平洋戦域に配備されたのは同年末であった。例外としては写真偵察用に改修されたP-38 4機が1942年4月4日にオーストラリア空軍第8写真飛行隊に配備はされているが作戦には参加していない。

 ヨーロッパ戦線には1942年8月頃より配備が進んだ。中低高度での運動性能が劣るために当該高度での空戦に引き込まれ当初は苦戦を強いられたものの米軍パイロットが経験を積むにしたがって損害は少なくなった。アフリカ戦線、イタリア戦線でも活躍した他、長大な航続距離を生かしてドイツ本土への戦略爆撃機の護衛任務にも活躍している。

 戦闘機としても高性能であったが、偵察機、夜間戦闘機としても優秀であり、ヨーロッパでの航空写真の90%がP-38写真偵察機型によるものである。

 太平洋戦線では1942年末より実戦配備されており、格闘戦に持ち込まれて苦戦することはあったが高速を利用した一撃離脱戦法に徹してからは日本機が軽装甲であったことと相まって圧倒的な性能を発揮した。P-38は爆弾搭載量も多かったため爆撃機としても能力を発揮、日本軍の輸送船や駆逐艦を多数撃沈している。

 太平洋戦線でのP-38の最大の活躍は1943年4月18日の山本五十六連合艦隊司令長官撃墜で16機のP-38G型が山本長官搭乗の一式陸上攻撃機を待ち伏せして撃墜することに成功した。この空戦で1機が撃墜されている。

 P-47P-51が実戦配備されると徐々に第一線から引退していったものの太平洋戦線では終戦まで活躍している。P-38は当初はエンジントラブルや急降下での振動等の問題が起こったもののエンジンの改良、プロペラの回転方向を外向きに変更することで徐々に信頼性の高い機体となっていった。第二次世界大戦のほぼ全期間で活躍、総生産数は10,037機である。

 

対戦したパイロットの評価

 対戦したパイロットの評価はチョロかったというものと強敵であったという二つに分かれる。ドイツの220機撃墜のエースであるハインリヒ・ベア中佐、112機撃墜のエースであるクルト・ビューリゲン中佐、104機撃墜のエース、アドルフ・ガーランド大将からの評価は低かった。日本のパイロットからはペロ八と呼ばれていたのは前述の通りである。

 これに対して178機撃墜のエースであるヨハネス・シュタインホフ大将、28機撃墜のエースフランツ・スティグラー中尉は強敵であったとしており、米軍のトップエースであるリチャード・ボング少佐(40機)、第二位トーマス・カクガイア少佐(38機)が共にP-38で撃墜戦果を挙げていることからも低評価とすべきではない。

 

戦後

 米陸軍では1949年で全機退役、イタリア空軍、ホンジュラス、ドミニカ共和国、中国等で運用された。最後まで運用していたのはホンジュラス空軍で1965年に最後のP-38が退役している。このようにP-38は米国参戦前の1941年9月から生産が始まり、終戦の年である1945年まで生産され続けた稀有な機体である。総生産数は10,037機。

 

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