01_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 日中戦争により対大型機迎撃の必要性を痛感した海軍は迎撃専門戦闘機の開発を開始した。これが局地戦闘機である。初の局地戦闘機は雷電で1944年10月に制式採用された。さらに閃電、秋水、天雷、震電と続くがいずれも試作のみに終わっている。これらとは別系統に局地戦闘機として採用された紫電、紫電改があり、こちらは制空戦闘機として戦争後期に活躍した。

 

局地戦闘機

 

局地戦闘機のはじまり

 1937年7月7日、日中戦争が始まると海軍航空隊も中国大陸に進出、航空作戦を行うこととなるが、中国空軍も米国、ソビエト連邦からの援助を受けた航空機による反撃を行った。一般に日中戦争は日本側が戦力で圧倒していたという見方が強いが実際にはそう簡単ではない。

 中国空軍も日本空軍に対して反撃、爆撃機による攻撃を敢行した。レーダーを持たない当時の防空システムといえば目視による監視程度でしかなく中国空軍の航空攻撃に対して海軍航空隊の戦闘機が迎撃するが、速度不足のために間に合わないことが多かった。

 このため海軍基地の損害も大きく、前線部隊からは対爆撃機迎撃に適した高速、重武装の戦闘機が要望されていた。この戦闘機は海軍では局地的な防衛を目的とすることから局地戦闘機と呼ばれ、1939年に初めて計画がスタートした。これによって帝国海軍航空隊には航空母艦への発着艦が可能な艦上戦闘機と陸上基地でのみ運用することを想定した局地戦闘機という2種類の戦闘機が存在することになる。

 

雷電

02_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 この計画によって開発が開始されたのが海軍初の局地戦闘機雷電である。設計主務者は零式艦上戦闘機の設計で有名な堀越二郎技師、メーカーは三菱重工である。しかし機体の不調、設計者の体の不調等が重なり開発は遅れた。結局、制式採用されたのは日中戦争どころか太平洋戦争も終盤に差し掛かった1944年10月である。レイテ沖海戦が行われた月であるといえばどれだけ遅れたのかが分かるだろう。

 実戦部隊に配備されたのが1943年1月、つまりは制式採用よりも一年前であったが、空中分解事故が起こる等、実戦での運用に不安が残るため実戦では使用されていない。1944年9月頃になると雷電も一応不具合もなくなり実戦に使用されるようになり、以降終戦まで対大型機の迎撃に活躍した。しかし高速重武装である代わりに運動性能の低い雷電のパイロットからの評価は非常に悪く、巨大なエンジンで前方(特に前下方)の視界が悪いため離着陸が難しいことも相まって「殺人機」とまで呼ばれ毛嫌いされていた。太平洋戦争のトップエース岩本徹三中尉も雷電に対して低評価を下している。

 但し、全てのパイロットがそのように低評価を下した訳ではなく、日中戦争以前からのベテラン中のベテランパイロットで27機撃墜(本人曰く350機撃墜)のエースである赤松貞明中尉は雷電を非常に高く評価している。実際、米軍からの評価では対大型機戦闘において日本空軍の全戦闘機中雷電が最強であったとしている。

 

閃電

 閃電は1942年に計画された雷電の後継機である。設計主務者は零式観測機の設計で有名な佐野栄太郎技師でメーカーは雷電同様三菱重工であった。機体は単発双胴推進式という独特の形状であった。これは中央胴体後部に後ろ向きにプロペラを配置、左右翼からは「双胴」が伸び、後部で双胴の間に水平尾翼を張るというものであった。

 この構造はエンジンが後方にあるために胴体の設計にエンジンの大きさの制約を受けることがなく、機首に機銃を集中させることができる反面、エンジンの冷却を始め技術的に困難であることであった。閃電は開発を開始したもののやはり技術的な壁に突き当たり、1944年10月には開発中止となった。試作機を含め完成した機体はない。

 

秋水

03_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 閃電が開発中止となる2ヶ月前、局地戦闘機秋水の開発が三菱重工に指示された。この秋水とは日本初のロケット戦闘機でドイツ空軍のMe163を参考に開発された機体である。1944年3月、日本海軍はドイツ航空省にMe163の技術譲渡を依頼、これによりドイツ側から日本海軍にその時点で可能な限りの図面が日本海軍に引き渡された。可能な限りとは、この時点ではMe163も開発中であったからだ。

 開発は海軍名秋水、陸軍名キ200となり、陸海軍の共同開発ということとなった。技術的な困難を乗り越え1945年7月7日には初飛行が行われるが上昇中にエンジンが停止して墜落、パイロットは死亡してしまった。試作機が2機製造されたが完成する前に終戦となった。

 

紫電

04_紫電一一甲型
(画像はwikipediaより転載)

 

 ここまでが一応、局地戦闘機の「正統な流れ」であるが、これ以外にも局地戦闘機は存在する。1941年、飛行艇メーカーとして名高い川西飛行機が開発していた十五試水戦(のちの強風)が非常に高性能であることから陸上機化の案が出て来る。これはメーカーからの提案であったが、この提案を海軍が許可、十五試水戦の水上機化が開始される。

 これによって開発されたのが局地戦闘機紫電であるが、これは局地戦闘機というよりもむしろ制空戦闘機といえるものであった。局地戦闘機という名称が付いたのは、当初は局地戦闘機として設計したからなのか海軍の分類上他に名称がなく「艦上戦闘機以外」という意味で消去法的に局地戦闘機となったのかは定かではない。

 完成した紫電は強風同様、中翼(正面から見ると翼が機体中央に位置している)であったため低翼機に比べて脚を長くする必要性が生じた。このため二段階引込脚という方式を採用したのだが構造が複雑で不具合が相次いだ。故障が多い上に脚の収納に時間がかかり、当初は2分ほど、のちには短縮されたが20秒程度かかっている。

 初飛行は1942年12月31日で、当時雷電は開発中、実は海軍の局地戦闘機の中では一番最初に初飛行を行った機体であった。しかしエンジンの不調を始め、様々な不調が相次ぎ制式採用されたのは雷電と同じ1944年10月であった。実戦配備は制式採用以前の1944年1月であったが、最高速度が583km/hと零戦に比べれば快足であったもののその差は20km/h程度でしかなく故障が多発したため大幅な改良が加えられることとなった。

 

紫電改

05_紫電改
(画像はwikipediaより転載)

 

 この紫電の改良はかなり大掛かりで主翼もそれまでの中翼から零戦等と同様の低翼に変更、機銃も紫電の20mm2挺、7.7mm2挺から20mm機銃4挺と重武装化した。この改良はかなりの成功で最高速度は高度6,000mで600km/h以上となり、自動空戦フラップの採用により空戦性能も高かった。これが有名な局地戦闘機紫電改である。設計主務者は二式大型飛行艇の設計で有名な菊原静男技師で初飛行は1944年1月1日、終戦までに約420機が製造された。

 この紫電改は真珠湾攻撃時の航空参謀源田実大佐の強烈な政治力の結果、源田大佐自身が司令官となった343空通称剣部隊に集中配備されることとなり「伝説」となった。初空戦は初飛行から1年以上も経過した1945年3月19日で撃墜54機だか何だかの撃墜戦果を挙げた。戦後の調査によると、実際に撃墜したのは10機でこの空戦で紫電改が12機撃墜されているので実は「負け」なのだがこの時期においては大戦果であると言って良い。

 

 

震電

06_震電
(画像はwikipediaより転載)

 

 1943年、B-29爆撃機での本土空襲が現実味を帯びる中、局地戦闘機の実用化を焦る海軍は一八試局地戦闘機震電の開発を計画する。この震電の開発に選ばれたのはそれまで実用機の開発経験のほとんどないメーカーである九州飛行機であった。1944年6月、海軍と九州飛行機の間で計画要求書が決定、震電の開発が開始される。

 機体は前例のないエンテ式と呼ばれるプロペラが後部にある単胴単発戦闘機であった。この方式は胴体を空力上理想的な形状に設計できることや機首に武装を集中させることができる等メリットがあるが閃電同様、技術的な問題も多かった。しかし1945年7月に初飛行に成功、8月に2回目の飛行を行うがそこで終戦となった。

 最高速度は750km/hが計画されており、独特の形状から飛行機ファン、軍事オタクからは人気のある機体で、荒巻義雄『紺碧の艦隊』では「蒼らい(すごい難しい字なので平仮名で書く)」という名前で大活躍をしているが、仮に量産されていたとしても当時、米軍ではすでにジェット戦闘機が実戦配備されており(1945年にはP-80シューティングスターはフィリピンに配備されていた)、それほど活躍できたとも思えない。ここらへんは「【もしも】震電が完成していたら戦局は変わったか」に書いたので参考にして欲しい。

 

天雷

07_天雷
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年、海軍は中島飛行機に対して戦闘爆撃機という新しいジャンルの戦闘機の開発を命じる。これは爆撃機に随伴することが可能な航続距離を持ち、強行偵察や爆撃も可能ないわば万能戦闘機というもので海軍が好きそうな機種である。要するに夜間戦闘機月光が開発された時と同じようなコンセプトである。

 しかし計画中の1942年、前線ではB-17爆撃機の撃墜に手を焼いており、さらにはB-29の開発の情報も入ってきたことから計画を変更、双発の局地戦闘機として開発が開始される。初飛行は1944年7月8日であったが、性能は計画値の663km/hを大幅に下回った596km/hでそれ以外の性能も当初の目論見とは異なったものになった。しかしB-29の来襲が濃厚であったため開発は継続、試作機6機が製作されたものの実用化には至らなかった。

 

まとめ

 局地戦闘機は純粋な対大型機用として雷電、閃電、秋水、震電、天雷が開発された他、制空戦闘機として紫電、紫電改が開発された。この中で実際に制式採用されたのが雷電、紫電、紫電改の3機種。さらに対大型機用に活躍したのは雷電のみである。雷電は対大型機戦ではそれなりの戦果を挙げたものの、そもそも何で海軍が陸上基地防衛用の戦闘機を開発しているのかという根本的な疑問はある。これはむしろ陸軍の領分ではないのかな???なんてね。

 

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