紫雲
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 紫雲は川西航空機が開発した水上偵察機である。初飛行は1941年12月5日で全幅14m、最大速度468km/h、航続距離3,371km、潜水艦隊旗艦用巡洋艦として建造された大淀に搭載するために製作された機体でフロートは緊急時には投棄可能であった。生産数はわずか15機のみで二重反転プロペラを始めとする画期的な技術を採用しており、当時の水上機では最高レベルの性能を持っていた機体であったが、戦局は紫雲を必要としない方向に推移し、紫雲は目立った活躍をすることなく消えていった。総生産数15機。

 

水上偵察機 紫雲

 

性能

全幅 14.0m
全長 11.5m
全高 4.95m
自重 3,165kg
最大速度 468km/h(高度5,700m)
上昇力 6,000mまで10分
上昇限度 9,830m
エンジン出力 1,680馬力(火星24型)
航続距離 3,371km(過荷重)
乗員 2名
武装 7.7mm機銃1挺
爆装 60kg爆弾2発
初飛行 1941年12月5日
総生産数 15機
設計・開発 川西航空機

 

背景から開発まで

 潜水艦隊旗艦用巡洋艦搭載用の高速水偵として計画された。 この巡洋艦は丙型巡洋艦と呼ばれ、索敵により敵艦隊の位置を把握して指揮下の潜水艦を的確に所用海域に向かわせることが使命であった。海軍の要求は、二座水偵であること、カタパルトによる射出が可能であること、自動操縦装置、写真機装置の装備、そして何よりも敵艦隊付近での強行偵察という目的であったため、最高速度が高度4,000mで555km/h以上という戦闘機並みの高速を要求するという非現実的な要求であった。

 

開発

 1939年7月1日、川西航空機に開発が指示された。これを受け川西航空機では設計を開始、この非現実的な要求に対応するため、エンジンは当時最強力であった火星エンジン(二式大型飛行艇一式陸上攻撃機に使用されている)を採用、トルクによる影響をなくすため二重反転プロペラとし、フロートは少しでも空気抵抗を減らすため補助フロートは半引込式、単フロートは緊急時には投下可能とすることが決定した。

 1941年12月5日初飛行。試作機5機、さらに増加試作機10機が発注されたが、1号機は転覆事故を起こすなどトラブルが続出、1942年10月に海軍に領収されるが、トラブル続きのため、領収は順調にはいかず、以降、15機全てが領収されたのは1944年2月であった。1943年8月10日には水上偵察機紫雲11型として制式採用されたものの量産化はされず試作機のみ。 エンジンは川西の資料では火星14型(1,500馬力)であるが、海軍の資料では火星24型(1,850馬力)となっている。開発途中で変更された可能性が高い。

 水偵としては当時最高性能であったが、海軍側の要求値には達しておらず、計画から完成までの間にレーダーの出現など海戦様式が大きく変化した関係もあり紫雲の大淀搭載は中止となり、大淀は連合艦隊旗艦に改装された。

 

 

悲運の紫雲

 1944年4月、横須賀で紫雲隊が編成、5月28日以降3機がパラオに進出(最終的には6機)、第12偵察隊として第一航空艦隊第五基地航空部隊第41西空襲部隊に配属された。翌月には「あ」号作戦に参加したが、出動した機はいずれも敵戦闘機の追撃を受けたとき主フロートが落下せず撃墜されたといわれている(異論あり)。 主フロートは投下可能であったが実機による試験は行っていなかった。

 

生産数

 試作機5機、増加試作機10機の合計15機のみ。

 

まとめ

 

 大戦中、日本陸海軍は少ない資源を使って多くの試作機を製作した。本機もそれら試作機の一つであった。レーダーの開発により存在意義を無くした機体であったが実戦でも使用された。実戦ではフロートが落下せず多くが撃墜されたようだ。仮にフロートが落下したとしても、フロートを投下するということは生還したとしても危険な胴体着水する他ない。日中戦争時に計画された航空機であったが、戦争の様相が変わった太平洋戦争において紫雲はもはや活躍の場はなかった。それでも開発を中止させることなく航空機開発の貴重なリソースを使い続けた上に投下式フロートという人命軽視の思想。ある意味日本海軍を象徴した航空機と言えるかもしれない。

 

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