(画像はwikipediaより転載)
要約
紫電改は零式艦上戦闘機と並んで戦後最も有名な戦闘機と言っていいだろう。当時、最高のエンジンである誉エンジンを使用した海軍の万能機は同エンジン搭載の陸軍四式戦闘機疾風と並んで日本軍用機史に有終の美を飾った。
紫電改
性能
全幅 11.99m
全長 9.38m
全高 3.96m
自重 2,657kg
最大速度 610km/h(高度6,000m)
上昇力 - mまで - 分 - 秒
上昇限度 12,500m
エンジン出力 1,990馬力(誉21型エンジン)
航続距離 2,392km(増槽装備時)
乗員 1名
武装 20mm機関砲4門(携行弾各200発2門、250発2門)
爆装 60kg爆弾4発または
250kg爆弾2発
初飛行 1944年1月1日
総生産数 420機
設計・開発 菊原静男 / 川西航空機
開発
太平洋戦争時の戦闘機で零戦と並んで知名度の高いのがこの紫電改である。紫電改は紫電11型をベースにしたことから紫電改と呼ばれているが、主翼以外はほぼ新規の設計である。太平洋戦争末期に完成し343空で集中運用したことから有名になった。
紫電を紫電改に改良するという計画は、1943年1月5日、仮称一号局戦兵装強化第三案としてスタートした。紫電の初飛行が1942年12月31日、脚を収納しての初飛行が1943年1月1日なので紫電完成直後に紫電改計画はスタートしたことになる。
初飛行まで
2ヶ月後の1943年3月15日には、仮称一号局地戦闘機改として試作命令が出され、1943年8月1日、試作機の製作開始。この時期に「試製紫電改」と名称を改める。1943年12月31日に試製紫電改が完成、1944年1月1日に初飛行する。やはり母体があったことが作業の省略を可能にしたのだろう。試作命令が出てから初飛行まではわずか9ヶ月である。
紫電の視界不良を改良
主な改良点であるが、まず、中翼から低翼に変更される。胴体は再設計された。胴体の幅は紫電に比べ切り詰められ長さは40cm延長された上、胴体断面形が丸型からおむすび型に変更された。これにより低翼と合わせて視界不良が解消された。
この視界不良というのはパイロットがコックピットから下方を見た時を想像したもらいたい。中翼であることによって視界不良になるというのは容易に想像できるが、丸型の胴体も同様に下方の視界を妨害しているのだ。コックピットを頂点とする滑らかな三角形にすることで下方の視界を確保した。
コックピットでいえば、キャノピーは上面の縦通材が廃止されている。脚は低翼化に伴って二段階式引込脚から普通の引込脚に変更。さらに脚の長さが短縮された。これによって100kg以上の重量軽減になった。その他垂直尾翼、水平尾翼にも変更が加えられているが、主翼はほぼ紫電のままである。
その他変更点
武装は20mm機銃4機(九九式2号4型)で4挺とも翼内に収納された。装弾数は内側銃が200発、外側銃が250発である。機首の7.7mm機銃が廃止されたことによって機首の機銃口も廃止された。爆弾搭載量は60kgまたは250kg爆弾2発である。
主翼はほぼそのまま紫電のものが使用されたのは前述の通りであるが、他にも、紫電や紫電の母体となった水上戦闘機強風で評判の良かった自動空戦フラップや腕比変更装置などはそのまま受け継がれた。部品点数は紫電に比べて大幅に減少しており、部品総数が紫電66,000個に対して紫電改は43,000個と65%に減少している。これにより生産性の向上が図られた。
生産
(画像はwikipediaより転載)
1944年4月4日、試製紫電改1号機が海軍に引き渡され、1944年7月には量産機の生産を開始している。紫電21型として制式採用されたのが1945年1月なので、紫電改は制式採用前に生産が開始されたことになる。
生産数と各型の特徴であるが、紫電改は試作機が8機製作されている。量産された機体の内、29号機までは試製紫電改と全く同一である。30号機(51号機説もあり)以降99号機までの70機は20mm機銃が3度上向きに取り付けられている。
紫電21型
初期の生産型。試作機を含み99機が生産された。
紫電21甲型
1945年2月頃から紫電21甲型が生産される。紫電21甲型は爆撃兵装を改修しており、60kg爆弾4発または250kg爆弾2発搭載可能である。101号機からは垂直尾翼が縮小された。これが200機製造された。100号機のみは試製紫電改と同型の垂直尾翼である。
紫電31型(紫電改一)
201号機以降は紫電31型(紫電改一)に代わる。31型は、機種に三式13mm固定機銃4型を2挺追加。爆弾懸吊装備も電気投下式に変更された。これらの改造によって重心が変わってしまったため発動機架を前方に150mm延長されている。
紫電31型(紫電改二)
この紫電31型は艦上戦闘機化もされた(紫電改二)。この紫電改二は、1944年11月中旬に空母信濃で着艦テストが行われている。
紫電32型(紫電改三)
紫電31型のエンジンを低圧燃料噴射式の誉23型に変更したのが紫電32型(紫電改三)である。2機のみ生産された。これも艦上機化されている(紫電改四)。艦上機型はどちらも2機程度生産されたようだ。
紫電25型(紫電改五)
紫電21甲型のエンジンを2200馬力のハ43・11型に変更したのが紫電25型(紫電改五)で、大型化したため機首の13mm機銃は廃止された。生産数は不明。複座型も製作された。これは、紫電21型を複座にしたもので仮称紫電練習戦闘機と呼ばれた。複座になった以外は21型と変更点はない。その他計画のみであるが、エンジンを二段三速過給機付きの誉44型に換装する計画や鋼製化計画もあった。
生産数
生産数は川西飛行機鳴尾工場で362機、同姫路工場で44機、さらに昭和飛行機2機、愛知2機、佐世保の21航空廠で1機、三菱で9機が生産された。合計420機(試作機8機が含まれているかは不明)。戦後3機が米国に輸送された。この3機と1978年に海底から引き揚げられた21型1機の計4機が現存している。
戦歴
真珠湾攻撃時の航空参謀源田實大佐は太平洋戦争末期、最新鋭戦闘機紫電改を配備した精鋭部隊を編成することで制空権を奪回するという構想を抱いていた。この構想により内地では紫電改を集中配備することを予定した部隊343空の編成が始まっていた。のちに「剣」部隊と言われた343空の最初の部隊である戦闘301飛行隊が横須賀で訓練を開始したのは1944年11月下旬であった。
当初は紫電で訓練を続けていた戦闘301飛行隊であったが、まもなく紫電改が1機到着、訓練を開始した。紫電改の初陣は1944年12月10日で、偵察に現れたB-29を戦闘301飛行隊に配備されたたった1機の紫電改が迎撃したものの、B-29を捕捉することは出来なかった。12月10日には、343空に戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊が加えられ松山基地で343空が誕生した。
紫電改はこの時期、343空以外にも横空、横空審査部、空技廠、筑波空にも少数が配備されている。1945年2月16、17日の米機動部隊艦載機による関東空襲の際、これらの紫電改が空戦に参加、特に17日の空戦では海軍のエースパイロット武藤金義少尉がオレンジ塗装の試作機の紫電改で迎撃、衆目の中、12機編隊に単機で突入、内4機を撃墜するという戦果を挙げている。
1945年2月に入ると343空も紫電改への改編が進み、戦闘301、戦闘701、戦闘403の順で紫電改が配備されていった。この結果、3月1日には3隊合わせて83機の紫電改を装備するに至ったものの可動機は21機に過ぎなかった。343空の初陣は3月13日で、この日会敵することはなかったものの、3月19日には米艦載機の呉方面空襲に際して54機が出撃、敵機撃墜52機を報告した(実際は10機)。これに対して紫電改は12機が被撃墜、4機が大破した。
4月になると米軍の沖縄上陸が開始されたため、343空も沖縄航空戦に参加するため鹿屋に進出、さらに第一国分基地から松山、大村と進出して制空、迎撃戦に活躍した。5月、6月になると紫電改の消耗に対して機材の補充が間に合わず、出撃を抑制する兵力温存方針が採られるようになった。その後もたびたび出撃したものの、8月に入り終戦となった。
まとめ
紫電改の活躍で最も有名なのが、源田實大佐指揮の343空が行った1945年3月19日の空戦であろう。この空戦で敵機52機撃墜(諸説あり)という偉業を達成するが、後年の調査によれば実際に撃墜したのは戦闘機10機のみである。
これに対して343空の損害は戦闘機16機であり、空戦の結果としては負けているのだが、この時期としては大戦果と言って良かった。その後は紫電改を集中運用した343空も次第に戦力を消耗していく。戦後、紫電改の知名度が高かったのは、この343空での集中運用が理由であろう。だからといって紫電改自体も決して性能が悪かった訳ではない。陸軍の四式戦闘機と並んで第二次世界大戦中の万能戦闘機の一つに数えられている名機である。
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