
(画像はwikipediaより転載)
要約
水上戦闘機にしては圧倒的に高性能であった水上戦闘機強風。そのフロートを外し陸上機化したのが紫電である。初飛行は1942年12月31日で零式艦上戦闘機以上の高性能を発揮したものの中翼による視界不良、二段階引込脚の不良、さらにはエンジン不良が続き目立った活躍は出来なかった。しかし紫電はこれらの点を改良され海軍最強の戦闘機紫電改へと生まれ変わる。
性能
全幅 11.99m
全長 8.89m
自重 2,897kg
最高速度 583km/h(高度5,900m)
上昇力 - mまで - 分 - 秒
上昇限度 12,500m
エンジン出力 1,990馬力(誉21型)
航続距離 2,545km(増槽装備時)
乗員 1名
武装 20mm機関砲2門(携行弾数各100発)、7.7mm機銃2挺(携行弾数各550発)
爆装 60kg爆弾4発または250kg爆弾2発
初飛行 1942年12月31日
総生産数 1,007機
設計・開発 菊原静男 / 川西航空機
開発
1941年暮れ、川西飛行機が製作中の新鋭水上戦闘機、十五試水戦の陸上機化が海軍によって許可された。十五試水戦とはのちの水上戦闘機強風で陸上機化された陸上戦闘機はのちに紫電と呼ばれることになる。紫電はその後改良が加えられ太平洋戦争末期の万能戦闘機となっていく。
当時、製作中であった十五試水戦を陸上機化する目的は時間と費用の節約であった。フロートを脚に変更するだけでそのまま陸上機として高性能を発揮するだろうという目論みであったが、強風を陸上機化するにあたり、強風が搭載していた火星13型エンジンを誉エンジンに変更することになり、結局は胴体の一部以外は再設計されることになった。
強風を陸上機化するにあたり、当然、脚を取り付ける必要があるが、強風は空気抵抗や水面から主翼を離す目的から胴体の中央部に主翼を取り付ける中翼になっていることから長い脚が必要であった。戦闘機以外であれば長い脚は主翼内に収納できるので長くても問題にはならないが、戦闘機の場合、翼内に機銃があるため脚を収納するスペースが取れない。
そこで考え出されたのが、二段階式引込脚であった。これは紫電の脚柱を伸縮する脚柱とし、脚柱が縮んだところで脚を翼内に収納するという方法であった。構造が複雑になったため、脚の収納には時間がかかるようになった。脚の収納時間は零戦が12秒、紫電の改良型である紫電改が9秒であるのに対して紫電は収納するまでに1〜2分かかった。後に20秒程度に短縮されたが、複雑な構造のために不具合が相次いだ。
生産
1942年4月15日、川西飛行機は紫電の試作機の製作に着手した。因みに、この時期は、母体である十五試水戦の1号機が完成直前の時期でもあった。紫電は、戦時中であったためか僅か8ヶ月で試作機を完成させ、1942年12月31日に脚を出した状態で初飛行。翌日の1943年1月1日には脚を引き込めて飛行することに成功した。
1943年7月には海軍に領収され審査が開始され、1943年8月10日試製紫電という名称が与えられた。最大速度は574kmと零戦よりは高速であったが、当初の想定の648kmは大幅に下回ってしまった。さらに左を向く癖、視界不良、工作不良、エンジン不調、前述の脚の故障の多発等、多くの問題を抱えていたが局地戦闘機の実用化を急いでいた海軍は生産しながら欠点を改修していくということで量産を開始した。
1944年10月、試製紫電は、紫電11型として制式採用された。試作機は、増加試作機合わせて8機が製造されている。エンジンは初期が誉11型(1,820馬力)、後期が誉21型(1,990馬力)であった。初期の型はオイルクーラーがカウリング内に収められていたが、後期の増加試作機ではカウリング前面下部にオイルクーラー用の空気取入口が設けられている。
武装は機首に7.7mm固定機銃、主翼下部ポッド内に20mm機銃(九九式1号3型。装弾数100発)が搭載されている。紫電11型にはいくつかのバリエーションがあるが基本的に兵装の違いだけである。まず、紫電11型であるが、紫電11型は誉21型エンジンを装備、推力式単排気管。空気取入口がカウリング前面下部に設けられていたが形は試作機と異なる。1944年8月には生産終了となった。
紫電11甲型(紫電甲)
続いて紫電11甲型(紫電甲)は機首の7.7mm機銃が撤去され、20mm機銃4挺に増加。ポッド内に2挺、翼内に2挺九九式2号3型装弾数100発)となる。機種の7.7mm機銃口はのそまま残された。紫電11甲型は、1944年9〜11月まで製造された。
紫電11乙型(紫電乙)
紫電11乙型(紫電乙)は1944年12月から生産が開始された改良型で、20mm機銃4挺(99式2号3型ベルト給弾式)をすべて翼内に収納した。装弾数は内側銃が100発。外側銃が200発となった。照準器もこれまでの九八式射爆照準器に代わって4式射爆照準器が搭載された。さらに250kg爆弾が搭載できるようになり、機体も水平尾翼翼端を角型に整形した。
紫電11丙型(紫電丙)
紫電11丙型(紫電丙)は、戦闘爆撃機として使用するための実験機で九七式爆弾懸吊鈎改一を4個取り付けたもの。60kg爆弾4発、または250kg爆弾2発搭載可能。珍しいものとしては、紫電マルJ型というのがある。これは、11丙型の胴体下面に500kg跳飛爆弾懸吊装置と火薬ロケット推進装置を取り付けたもので、火薬ロケットで加速した上で超高速で跳飛爆撃を行おうというものだったが試作のみに終わった。
生産数
総生産数は1,007機。各型ごとの生産数は不明だが、ほとんどが11甲型と11乙型であった。終戦時の残存機数も不明。数機が試験のためアメリカに持って行かれた。現存機はなし。
戦歴
最初に紫電が装備されたのは1943年に開隊した341空であるが、紫電の供給が遅れたため実際に紫電を受領したのは1944年1月18日であった。その後は徐々に紫電の配備が進み、7月10日には戦闘401飛行隊、戦闘402飛行隊の二個飛行隊編成となった。続いて紫電装備予定部隊として343空が開隊したが、紫電の生産が間に合わずわずか1機を受領したのみであった。その他紫電を装備していた部隊は横須賀で編成された戦闘701飛行隊がある。
唯一紫電を装備した航空隊であった341空は1944年8月には台湾に進出、戦闘401、402飛行隊合わせた保有数は定数を上回る119機に達したものの可動機はわずか65機であった。紫電の実戦参加は10月12日の台湾沖航空戦であった。台湾高雄基地に進出していた紫電隊は上空哨戒中に米戦闘機群と遭遇、10機撃墜を報告するも紫電隊も14機を失う大打撃を受けた。その2日後の14日には戦闘402飛行隊の紫電が制空隊として米機動部隊攻撃に参加している。
10月23日には、341空は紫電36機を以って比島に進出したものの翌24日の空戦で11機を失い、未帰還機、被弾機を除いた戦力はわずか4機に減少してしまった。11月に入ると同じく紫電を装備している戦闘701飛行隊が341空に編入、戦闘701飛行隊は比較的練度の高い隊員で編成されていたこともあり活躍したものの12月中旬には可動機4機となってしまった。その後13機が補充されたものの米空軍機の銃撃で全滅、修理した紫電4機を以って攻撃を行ったものの数日で全機を失った。
内地では新たに343空が編成、戦闘301飛行隊に紫電3〜4機が配備されている他、210空が紫電を装備、名古屋に襲来したB-29を迎撃している。さらに210空は徳島基地に進出、関西方面での迎撃戦に活躍した。一方、343空には戦闘407飛行隊、戦闘701飛行隊が編入、これらの部隊にも紫電が供給されている。
1945年3月に入ると紫電を装備する210空紫電隊も九州出水に進出、601空指揮下に入り、601空に配備された紫電と共に防空戦に参加している。変わったところでは偵察11飛行隊にも8機の紫電が配備されておりその俊足を生かした強行偵察や戦果確認、索敵等に活躍している。
関東では、横空、横空審査部、空技廠、筑波空、谷田部空にも紫電が配備されており、筑波空、谷田部空、210空の紫電を統合、戦闘403飛行隊が編成されており、しばしば迎撃戦に参加している。
まとめ
紫電は海軍期待の新鋭機として登場した。零戦に比べ高性能なものの二段階引込脚の不調に悩まされた。さらには中翼であったために前下方の視界不良もあり目立った活躍をすることは無かった。厳しい表現をすれば紫電は失敗作であったと言っていいかもしれない。しかし上記の欠点を改良されて完成した紫電二一型、通称紫電改は海軍戦闘機中、最高の性能を発揮した。紫電は紫電改への橋渡し役であったといっていい。
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