(画像はwikipediaより転載)
要約
二式大型飛行艇は川西飛行機が開発した大型飛行艇である。初飛行は1940年12月30日で最高速度は470km/h、全長28m、全幅38mの巨人機であった。日本軍の大型機としては武装も比較的強力で爆装は航空魚雷2本または爆弾2,000kgを搭載可能と爆撃機並であった。離水する際にポーポイズ現象が発生してしまうという問題はあったが、速度、航続距離などどれをとっても世界最高の飛行艇であった。
二式大型飛行艇
性能(12型)
全長 28.13m
全幅 38m
全高 9.15m
全備重量 24,500kg
最大速度 454km/h(高度 - m)
上昇力 - mまで - 分 - / 秒
上昇限度 - m
エンジン出力 1,850馬力(火星22型エンジン)4基
航続距離 8,223km
乗員 13名
武装 20mm機銃5挺、7.7mm機銃1挺
初飛行 1940年12月30日
総生産数 131機(その他晴空36機)
設計・開発 菊原静男 / 川西飛行機
開発
二式大型飛行艇は、九七式大型飛行艇の後継機として1938年8月21日、海軍によって試作が発令される。川西飛行機は、菊原静男技師を設計主務者として設計を開始、1940年12月末1号機を完成。12月30日初飛行に成功する。離水時には若干の問題があったが、飛行性能は良好であり、年度末の1941年3月26日、軍に領収された。
そして1942年2月5日、二式飛行艇11型として制式採用された。試作は、試作機1機、増加試作機4機が製造された。増加試作機の4機は量産型同様11型と呼ばれる。武装は機首部、中央上面、尾部、左右側方、下方の6ヶ所に設けられており、機首と中央上面、尾部は20mm機銃で動力式、中央上面銃座は一式大型動力銃架21型、尾部は一式動力銃架31型である。
側方銃座は水滴形風防を取り外し7.7mm機銃1挺を出す。射界は広く確保できていた。下方銃座は7.7mm機銃1挺を装備しており、これらとは別に4ヶ所予備銃座があった。さらに4ヶ所に機銃取付設備がある。指揮官の指示によってこれらの銃座に7名の射手が配置についた。
雷爆撃兵器は、魚雷であれば、800kg航空魚雷1本、爆弾であれば、最大搭載量2,000kgで、800kg爆弾なら2発、250kg爆弾なら8発、60kg爆弾なら16発を搭載できる。
11型
試作機を改良して2号機以降5号機まで増加試作機が製作された。これらは艇首が1.3m延長され、1,530馬力火星12型エンジンに変更。同時に排気管が集合式から推力単排気管に変更。垂直尾翼が段違いになっていたものを普通の形に改めた。上部銃座の風防が水滴形から球形に変更された。6号機以降の量産型とともに11型と呼ばれる。最高速度433km/h。
実施部隊に配属された後、離水滑走時、機体が縦揺れを起こす現象であるポーポイズ現象を起こしやすいことが判明したが、研究により、艇体を水面5度の角度に保つことによってポーポイズ現象を防げることが判明したため、ピトー管と風防前面にマークを入れこの二つのマークが重なるようにすれば5度の姿勢が保てるようにした。
12型
1943年6月26日には、エンジンを1850馬力火星22型し、機体を若干修正した12型が制式採用された。この型の武装は機首20mm機銃が完全に電動式に改められ、側方の7.7mm機銃も20mm機銃に換装された。後期の12型は側方銃座の形も変更された。最高速度454km/h、12型は112機製作された。
22・23型
この他、実験的に二式飛行艇22型、23型が製作された。 22型は12型の翼端フロートを外側へ引き上げられるようにした他、フラップをファウラー式に改め装甲も強化された。この22型は1942年に2機のみ製作された。のちにエンジンを火星25乙型に変更し23型となった。つまりは2機の22型が2機とも23型に改造されたので製作数は2機である。23型は801空へ配属された。
晴空32型
輸送機型も計画され、1943年初め海軍より川西飛行機に指示された。二式大艇1号機を輸送機に改造41名分の座席が設置された。エンジンは火星11型のままであったが、排気管は推力式単排気管に変更、銃座は撤去された。この機体は1943年11月軍に納入、のち横須賀鎮守府に配属された。
さらに1943年11月、12型の輸送機型である晴空32型が完成した。晴空32型は、中央上面銃座、側方銃座が撤去され、艇内には個人用ソファー29名分、またはベンチで64名分の乗客を乗せることが出来た。最高速度420km/h。総生産数は改造機を含めて36機。
戦歴
1942年3月、制式採用されて間もない二式大艇は第二次ハワイ攻撃を敢行する。この作戦に参加した二式大艇は2機でどちらも実用実験も完了していない試作機であった。マーシャル諸島から発進した二式大艇はフレンチフリゲート環礁で潜水艦より燃料補給を受けた後、真珠湾上空で250kg爆弾を投弾、戦果は不明ながら無事に帰還しているものの翌日ミッドウェー島の偵察を命じられた1機は米戦闘機により撃墜されている。これが二式大艇最初の被撃墜であった。
この頃飛行艇部隊である801空、802空、851空は相次いでソロモン方面に進出、新鋭機二式大艇もソロモン方面で偵察、爆撃任務に活躍した。インド洋では根拠地の東港に帰還した851空がスラバヤ島に進出、オーストラリア、インド南部のセイロン島、インド等の偵察に活躍した。戦局の逼迫した1944年になると二式大艇は離島やへき地に取り残された搭乗員の救出に活躍、3月には連合艦隊司令長官の輸送も行うが悪天候により失敗、乗員の一部はゲリラの捕虜となってしまう(海軍乙事件)。
この間にも二式大艇は少しずつ消耗していったため802空、851空は解隊、801空のみとなってしまうが、1945年になっても二式大艇は哨戒に活躍、3月には梓特別攻撃隊の嚮導機の役目を果たしている。4月には801空は陸攻隊となったため残存二式大艇は詫間空に集結、終戦まで各種任務に活躍した。この他にも大日本航空で使用された晴空も戦時徴傭輸送隊として輸送任務に活躍している。
生産数
二式大艇の生産は、1940年に1機、41年に3機、42年に13機、43年に80機、44年に33機、45年に1機で総計131機。型別では11型が16機、12型が112機、22・23型が2機製造された。晴空32型は、1943年に11機、44年24機、45年1機。改造型も含め合計36機である。
長峯五郎『二式大艇空戦記』
二式大艇空戦記―海軍八〇一空搭乗員の死闘 (光人社NF文庫)
二式大艇下士官操縦員の手記。予科練乙飛12期という戦中派ながら熟練した技量のみならず、圧倒的な統率力で幾多の危機を乗り越える描写は圧巻。二式大艇の信頼性の高さと同時に操縦の難しさが良く分かる。本書のレビューはこちら。
日辻常雄『最後の飛行艇』
最後の飛行艇―海軍飛行艇栄光の記録 (光人社NF文庫)
海軍飛行艇部隊では著名な搭乗員の日辻氏の著書。日辻氏は海軍飛行艇隊士官として開戦当初から空戦に参加、飛行艇による魚雷攻撃も行った猛者だ。搭乗員の墓場と言われた南方にも進出し、B-17フライングフォートレスと空中戦を行ったという稀有な経験を持っている。
まとめ
終戦時、二式大艇5機、晴空6機が残存していたが、連合軍から機体の引き渡しが要求された時には3機に減少していた。現存しているのは米国に引き渡された1機のみ。1978年に船の科学館が引き取り、現在は海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に野外展示されている。
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