片翼帰還
(画像はwikipediaより転載)

 

判明している片翼帰還一覧

 

  1. 樫村寛一少尉
  2. 南義美大尉
  3. 森田勝二二飛曹
  4. ネゲヴ空中衝突事故
  5. F-16空中衝突事故
  6. おまけA-10片翼飛行

 

樫村寛一少尉

 1937年12月9日、南昌攻撃の際の空戦で中国機と衝突、左翼の1/3を失いながらも卓越した操縦技術で帰還。帰還の際の映像は動画として現存している。航空機は九六式艦上戦闘機。樫村少尉は海軍操縦練習生24期出身、同期には山本旭氏、日高初男氏等がいる。樫村少尉その後横須賀航空隊に配属され、さらに582空に配属、1943年3月6日、ルッセル島上空で戦死する(秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』)。

 後輩への樫村氏の指導の厳しさは苛烈であったと言われる。横空時代に樫村氏の指導を受けている零戦搭乗員の宮崎勇氏は後年、インタビューにおいてその指導の厳しさを語っているが(神立尚紀『零戦最後の証言』)、角田和男氏によると訓練以外では優しい人柄だったそうだ(角田和男『零戦特攻』)。因みに樫村少尉戦死の現場は本田稔が目撃している(本田稔『私はラバウルの撃墜王だった』。

 

南義美大尉

 1938年5月3日、漢口攻撃の際、中国機に体当たりを決行、翼の日の丸部分から先を失ったにもかかわらず帰路につき、揚子江畔に不時着救助される。航空機は九六艦戦。南大尉は操縦練習生30期で内地帰還後は、海軍のエリートと言われる母艦搭乗員として太平洋戦争後期まで活躍したが、1944年11月25日、神風特別攻撃隊員として戦死した(秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』)。

 

森田勝二二飛曹

 1942年1月21日、ケンダリー基地攻撃の際、対空砲火により左主翼、ピトー管より先を吹き飛ばされた。予科練終了後わずか4ヶ月でありながら森田二飛曹は巧みに片翼機を操り3時間飛行したのち、メナド基地に帰還した。航空機は零戦二一型。1942年2月3日、スラバヤ攻撃に出撃し未帰還となった(押尾一彦・野原茂『日本陸海軍航空英雄列伝』)。

 

 

ネゲヴ空中衝突事故

 1983年5月1日、イスラエル南部のネゲヴ砂漠上空においてイスラエル空軍のF-15イーグルと同A-4スカイホークが空中戦訓練を行っていた際、誤って衝突した。その際、F-15パイロットZiv Nedivi氏は右翼が完全になくなったF-15を巧みに操縦して約15km離れたラモン空軍基地に着陸することに成功した(wikipedia「ネゲヴ空中衝突事故 (1983年)」)。

 

 

F-16空中衝突事故

 2014年10月20日、ネバダ州空軍所属のF-16戦闘機が空戦訓練中に接触。飛行時間106時間に満たない飛行学生が右翼先端から約5フィート(約1.5m)を失った状態で飛行。無事基地に着陸した(「Air Force fighter jet safely lands after losing half a wing in $22.5M mid-air collision」)。

 

おまけA-10片翼飛行

 

 航空力学や飛行について全くど素人の私が思うに、片翼飛行が行われた日本海軍機の九六艦戦や零戦は非常に翼面荷重の低い機体であった。翼面荷重とは機体重量を翼面積で割ったものでよく航空機の運動性能を測るための指標として使われる数字である。

 基本的には重量が軽く、翼の面積が大きければ速度は遅くなるが運動性能は高くなる(翼面荷重は低い)。逆に機体が重く翼の面積が小さければ速度は速くなるが運動性能は低くなる(翼面荷重が高い)。翼面荷重は、九六艦戦で78kg、零戦では108kgであった。そして、片翼が全損していないことも片翼飛行が可能となった理由であろう。

 参考までにスピットファイアの翼面荷重は158kg、メッサーシュミットBf109は173kg、F-104に至っては514kg。ついでにF-16は296kg、A-10は316kgである。F-15は調査チームの調査の結果、エンジンの推力でロケットのように飛行していたと推定されている。

 航空機の性能の高さが片翼飛行を可能にしたのであるが、何よりも搭乗員の冷静さや高い技量が可能にした奇跡であったといっていい。私が調べて分かったのはこれくらい。世界にはまだ片翼飛行、片翼帰還の事例がいっぱいあるはず。世界で飛行機を持っているのは日本海軍とイスラエル空軍、ネバダ州空軍だけじゃないもんね。

 他にも事例があったら教えてね!

 




 

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