秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 日米の航空機は一見、互角であったと考えられる。しかし基礎技術、基礎工業力の貧弱な日本と諸外国では技術の水準に天と地ほどの差があった。これらは短期的に高めることができず、向上させるには長い期間が必要となる。

 

世界に伍する戦前戦中の日本空軍航空機

 

零戦01
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本は現在でこそ航空機、それも軍用機の開発はほとんど行っていないが、戦前戦中は世界屈指の航空機製造技術を持っていた。三菱重工の零戦、中島飛行機の一式戦闘機隼四式戦闘機疾風、川西飛行機の二式大型飛行艇、川崎航空機の三式戦闘機飛燕等、世界一流の航空機を製造していた。他の技術と同様、当初は模倣からスタートした日本の航空機開発であったが、早い段階で模倣から脱し、独自の設計の高性能機を世に送り出していった。

 特に有名なのは零戦と隼である。これらは日中戦争から太平洋戦争終戦まで連合軍相手に善戦を続けた。特に太平洋戦争初期の零戦の航空撃滅戦、ビルマの隼の活躍は有名である。ここで少し零戦と隼について説明してみよう。まずは零戦、零戦とは零式艦上戦闘機の略で零式とは皇紀2600年の末尾の「0」をとって零式と名付けられた。皇紀とは神武天皇が即位した紀元前660年を元年とする暦で明治時代に作られたものだ。

 皇紀2600年とは西暦1940年。計画から3年の歳月を経て完成した画期的な戦闘機であった。エンジンは中島製傑作エンジン栄、外装は超々ジュラルミン。軽量化に成功したため小型のエンジンで533km/hという高速を発揮、特に旋回性能に優れていた。陸軍が制式採用した隼も同様でエンジンにハ25発動機を採用、これは栄の陸軍名でどちらも同じエンジンを採用していたことになる。最高速度は495km/hと零戦には随分劣るものの旋回性能は零戦と互角の軽戦闘機であった。

 太平洋戦争が始まると当時の先進国である欧米の航空機と戦ったが連戦連勝、日本の航空技術のレベルが世界最高であることを世界に知らしめた。零戦に至っては「零戦を見たら逃げて良い」という命令が米軍から出ていたとかいなかったとか。隼も同様で飛行第64戦隊、通称「加藤隼戦闘隊」は終戦の年の1945年初頭までビルマで連合軍と互角の空戦を行っていた。

 その後も日本航空機界は新鋭機と次々に排出、三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風、百式司令部偵察機、二式大艇、艦上偵察機彩雲等を送り出した。四式戦闘機疾風は第二次世界大戦の万能機の一つに数えられ、彩雲は「我に追いつくグラマン無し」という電報が有名である。日本は連合軍には物量では負けたが航空機の性能では一歩も引けを取らなかった。

 

「日本の航空産業は10年以上遅れている」

 

F-15E
(画像はwikipediaより転載)

 

 実はそうではない。戦後、GHQによる航空機製造禁止が解禁された昭和30年代、当時の航空機設計者が渡米して米国の航空機製造過程を見学した結果、そのレベルの高さに舌を巻いたという。これらの話を訊いた当時の通産省航空機武器課課長赤沢氏は「日本の航空産業は10年以上遅れている」と思わざるを得なくなった。

 戦前、戦中の日本製航空機、空戦の結果を見れば互角に見えるかもしれない。確かに堀越二郎や土井武夫等天才的ともいえる航空機設計者は多くいた。彼らの設計は素晴らしく、これらの頭脳が日本の航空機界を支えていた。しかし問題はそこではないのだ。

 航空機を製造するというのは数人の天才がいれば済むという話ではない。航空機は多くの部品を使用する。特にエンジン。エンジンに関しては日本は弱かった。エンジンはトライ&エラーの世界、研究の蓄積がものをいう。新興国であった日本にはその蓄積がなかった。外国からエンジンを購入してライセンス生産、そして国産化したもののエンジンを作る部品の技術が弱い。ドイツから機銃を購入してもこれを製造するプレス加工の技術がない等、設計以前の基礎技術の面で日本は諸外国から大きく後れを取っていた。

 これは航空機に限らず、戦車にしても日本の戦車の砲は手動式。一応旋回させることが可能であったが当時の日本ではベアリングを製造する技術がなかった。故に砲を旋回させるにはものすごい腕力が必要であった。鋼鉄の製造技術も諸外国には遥かに及ばなかった。高性能機が製造されたとしてもそれを製造している機械は米国製等ということはザラである。

 零戦にしても設計は完全に日本人によるものであるが、零戦の高性能を支えたプロペラは米国ハミルトン社のライセンス品、20mm機銃はスイスのエリコン社ライセンス品、クルシー無線機等装置は米国フィアチャイルド社のライセンス品であった。その他製造工程や部品の精度も含めると諸外国との差は致命的なレベルであったとすらいえる。残念ながら日本には天才設計者の頭脳を実現化させる基礎工業力、基礎科学力という点では諸外国に大きく後れを取っていたといえる。

 

 

関係書籍

 

土井武夫ほか『軍用機開発物語』

 今では伝説となった名機の設計者が書き残した手記。三式戦闘機飛燕の設計者土井武夫、一式陸上攻撃機の設計者本庄季郎、零戦の設計に関わった曾根嘉年、零式観測機の佐野栄太郎、内藤子生、足立栄三郎等が手記を寄稿している。今では貴重な生の証言。

 

林磐男『戦後日本の戦車開発史』

 著者は軍人ではなくエンジニア。それも戦後、戦車や装甲車等の軍用車両を開発していたという珍しい経歴の持ち主である。まだ戦後と言われていた時代、著者は東大工学部を卒業後、三菱重工に就職する。そこで図らずも戦車の開発に携わることになる。戦車を操縦していたや戦車の乗員だったという人はそれなりにいるが、戦車を設計していたという人はまずいない。そう考えると本書はかなり貴重なものだ。

 

まとめ

 

 基礎技術、基礎研究の水準を高めるには数人の天才がいてもどうしようもない。その国の国民の基礎学力の高さ、知性の高さが必要になる。総体として水準が高くなければならないのである。当時の日本は急速に勃興してきたためこれらの基礎技術を高める時間的余裕がなかった。現在の日本にはそれがあるが、これらの技術や学術は戦前から何十年もかけて投資をして蓄積していったものであり、これが現在の日本製品の基礎力となっている。技術や学問の蓄積というのは今は出費でしかなくても数十年後には社会の基礎力となって人々の生活を支えるものなのである。

 

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