01_蒼龍
(画像は空母蒼龍 wikipediaより転載)

 

要約

 航空母艦蒼龍はワシントン海軍軍縮条約の枠内で計画がスタートしたがその後日本が条約を脱退したため通常の空母として設計されることとなった。それまでの事故を教訓とした結果、バランスの取れた中型高速空母となった。太平洋戦争では第一航空艦隊の基幹空母として活躍するがミッドウェー海戦で撃沈された。

 

航空母艦 蒼龍型

 

 

性能

 基準排水量 15,900トン
 全長 227.5m
 全幅 21.3m
 飛行甲板 216.9m x 26.0m
 エレベーター 3基
 機関出力 15,2000馬力
 最大速力 34.9ノット
 航続距離 7,680海里 / 18ノット
 乗員 1,103名
 武装 40口径12.7cm砲連装6基
    九六式25mm機銃連装14基
 搭載機 常用57機、補用16機  竣工(1番艦 蒼龍) 1937年12月29日
 竣工(2番艦 飛龍) 1939年11月5日
 同型艦 2隻(準同型艦飛龍

 

開発経緯

 1930年に締結されたロンドン海軍軍縮条約では、それまで制限対象外であった10,000トン以下の空母も制限対象内となったことにより、当時保有していた空母鳳翔赤城加賀、建造中であった龍驤を含めて条約制限のトン数を計算することになった。条約で日本に割り当てられた空母のトン数は81,000トンからこれらの空母の合計トン数を引くと残りは12,630トン、そこに実験艦的な位置づけで他の空母に比べて実用性の低い鳳翔を廃艦にするとさらに8,370トン。合計で21,000トンの枠が空いた。

 日本海軍はこの枠内で10,050トンの空母2隻の建造を計画した。この計画での空母は純粋な空母ではなく巡洋艦兼空母というようなもので搭載機70機に重巡洋艦並みの20cm砲6門を装備するという攻撃力を重視した空母であった。この空母は巡洋艦隊と行動を共にするという運用計画であったようだが、このような「全部乗せ」をわずか10,000トン内に収めるのは不可能であり、20cm砲の搭載は修正された。

 さらには、建造直前の1934年に友鶴事件が発生、この事件は少ないトン数に重装備を詰め込み過ぎたことが理由での復元力低下が原因であった。これにより蒼龍も設計を変更、純粋な空母として建造されることとなった。同時に日本は海軍軍縮条約からの脱退を決定。条約に縛られることがなくなったためトン数の制限がなくなりバランスの取れた実用的な空母として建造されることとなった。

 

飛龍との違い

 最大の違いは艦橋で蒼龍は飛行甲板上右側にアイランド型艦橋を設置しているが飛龍は左側に設置された。艦橋は蒼龍の方が若干小さく同時に飛行甲板も蒼龍の方が若干狭い。基本的な設計はほぼ同じであるが艦橋の位置以外は後発の飛龍の方が若干優れている。

 

戦歴

02_蒼龍
(画像は空母蒼龍 wikipediaより転載)

 

 このような経緯を経た空母蒼龍は、1934年11月20日に起工、1935年12月23日に進水、1937年12月29日に竣工している。完成した蒼龍は基準排水量15,900トン、全長227.5m、全幅21.3m、搭載機数は73機と少ないものの、機関出力は152,000馬力、最高速度は34.5ノットを発揮する中型高速空母であった。

 1937年12月29日に海軍へ引き渡された蒼龍は、1938年12月15日、第二航空戦隊に編入、1939年11月15日には準同型艦飛龍も二航戦に編入された。1941年4月10日には、二航戦は第一航空艦隊に編入、これにより一航艦は空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍、龍驤を擁する日本最大の機動部隊となった。

 太平洋戦争開戦後は、開戦劈頭の真珠湾攻撃に参加、1942年2月にはダーウィン空襲、4月のセイロン沖海戦にも参加したが、6月5日のミッドウェー海戦に参加、米艦隊より発進したTBDデバステーター雷撃機の撃退には成功したものの、TBDデバステーター迎撃のために零戦が低空に下がった隙を突き、上空からSBDドーントレス爆撃機の急降下爆撃を受け被弾。次々と誘爆を起こし沈没した。この際、艦長の柳本柳作艦長は艦と運命を共にしている。1942年8月10日除籍。

 

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