ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

福本繁夫の経歴

 

 撃墜72機といわれる謎の多い撃墜王である。

生年月日不明である。1920年前後生まれ。乙種予科練7期生なので、1936年6月予科練7期生として海軍に入隊したと推定される(但し、1935年とする資料もあり)。1939年3月飛練課程修了。開戦前は美幌航空隊に所属していたようだ。その後千歳航空隊に転属しマーシャル諸島で開戦を迎える。

 台南航空隊に配属されラバウル航空戦に参加、同僚からは「坂井と肩を並べるベテラン」と言われていたようだ。千歳航空隊以来、どうも同期で日本海軍のトップエースの一人である西澤廣義と一緒に転属していたようだ。1943年11月、乙飛7期出身者は飛曹長に昇進しているので恐らく福本もこの時期に飛曹長に昇進したと思われる。

 1943年12月に253空には転属する。岩本徹三小町定らと共に連日の戦闘に参加。第一中隊長岩本徹三、第二中隊長福本というような編成もあり253空の基幹搭乗員として活躍していた。川戸正治郎氏の著書『体当たり空戦記』によると福本飛曹長が新人である川戸二飛曹の危機を救ったこともあったようだ。1944年2月、岩本達253空本隊はトラック島に後退するが福本は残留している。

 この253空後退後のラバウル253空についてであるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』253空の項には「ラバウルには福本繁夫飛曹長の指揮する零式艦上戦闘機9機のみが残留した。」とあり、福本飛曹長と共に零戦9機も残留したことになっているが、碇義朗『最後のゼロファイター』にはラバウルには958空の零式三座水上偵察機8〜9機のみとある。どちらが正しいのかは不明であるが、その後の経緯から考えても零式三座水偵が残った可能性が高そうだ。

 ともかくも福本飛曹長は何らかの事情でラバウルに残留している。どうして福本ほどの熟練者が本隊から離れたのかは不明だが、同時期にラバウルに残留した零戦搭乗員川戸正治郎氏の回想録によると零戦隊ラバウル撤収時の残留搭乗員はマラリアの重症患者と負傷者の7〜8名だったとあり(川戸正治郎「零戦ラバウルに在り」『炎の翼』)、福本飛曹長も重症又は負傷していたのかもしれない。

 残留した福本は、現地で製作された零戦を駆って指揮官として戦った。現地制作の零戦は、253空撤収後、まず2機修復され、さらに1944年2月末までにさらに5機完成した。1944年3月3日、福本飛曹長を指揮官とする現地製作された零戦隊7機はアメリカ海兵隊第223戦闘中隊と空戦に入る。米軍側記録によると米軍機に損害無し、零戦を1機撃墜、1機不確実とあるが、日本側記録では米軍機5機を撃墜したとある。

 3日後の3月6日にも空戦が行われているがこの戦闘に福本が参加していたのかは不明。3月13日には列機3機を率いて、グリーン島の攻撃に参加しているが列機は集合できず、福本のみが攻撃し帰投している。3月23〜24日の深夜に第17軍突撃掩護のため零戦3機が出撃したが、滑走中の事故で3機とも損傷。掩護を行うことが出来なかった。福本は自身が出撃しなかったことを理由に苛立った司令から暴行を受けた。

 そして1944年4月25日、ラバウル108航空廠で廃機から製作された夜間戦闘機月光2機を護衛するためラバウルからトラック島に向かう。その後、潜水艦で日本に戻った(『最後のゼロファイター』)。日本に戻った日は不明だが、1945年2〜3月頃のようだ。1945年5月頃から首都防空のエース302空に配属された。5月25、26日の京阪地区防空戦では零夜戦を駆って敵機1機を撃墜したようである(『首都防衛三〇二空』)。その後、302空で終戦を迎えた。

 1945年12月、酒気帯び運転による自動車事故により死亡した(『最後のゼロファイター』)。撃墜72機を自称し、当時の搭乗員の記録にもほとんど登場しないが石川清治氏によれば「フクチャン」の愛称で呼ばれ、にこやかな茶目っ気たっぷりの人柄だったという。

 

福本繁夫関連書籍

 

ヘンリーサカイダ・碇義朗『最後のゼロファイター』

ヘンリーサカイダ・碇義朗 著
光人社 (1995/7/1)

 幾多の撃墜王を生んだラバウル航空隊は1944年2月にトラック島に後退する。ここで太平洋戦争の中心は中部太平洋から比島、本土へと移っていくのだが、忘れ去れたラバウル航空隊では、廃棄された零戦や隼、九七式艦上攻撃機などの部品を組み合わせて「ラバウル製航空機」を生産し始めた。海軍は105基地航空隊として偵察、輸送、攻撃の任務に就いた。ほとんど知られることが無かった「その後のラバウル」の出来事を克明に記している。パイロットの多くは他の戦場に移動するが、ラバウルに残留したパイロットに乙7期予科練出身というベテラン搭乗員福本繁夫飛曹長がいた。

 

川戸正治郎『体当たり空戦記』

 丙種予科練12期という戦中派中の戦中派、川戸正治郎上飛曹の戦い。満足な訓練も受けられず、「搭乗員の墓場」といわれたラバウルに派遣される。ラバウル航空戦では5回も撃墜されながらも19機を撃墜する。航空隊が撤退した後もラバウルに残留して空戦を行った。福本飛曹長についての記載もある。因みに本書は大手出版社による本ではないので購入できるうちに買っておいた方がいい。この手の本が再販される可能性は低い。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 

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