(画像はwikipediaより転載)
要約
戦闘303飛行隊とは、太平洋戦争後期に編成された特設飛行隊で、開隊から終戦まで隊長は実力人望共に豊かなベテラン指揮官岡嶋清熊少佐である。1944年に厚木で開隊した戦闘303飛行隊は、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦等に活躍、最初の特攻隊である敷島隊の援護も行った。本土防空戦では最前線の九州に展開、特攻隊が数多く出撃する中、制空部隊として終戦まで活躍した。海軍のエースとして著名な岩本徹三少尉、西澤廣義飛曹長、谷水竹雄上飛曹等も所属していた。
海軍の「エース部隊」
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旧日本海軍の最強戦闘機隊といえば何だろうか?著名な零戦搭乗員である坂井三郎氏が所属した台南空、知名度は低いものの実は部隊練度では台南空を上回っていた3空、最前線のラバウルで米軍の攻撃を防ぎ続けた204空等がある。但し、戦争初期から中期にかけては海軍の戦闘機隊は高い練度を誇っていた。つまりはどの部隊も「エース部隊」であったのだ。陸軍も含めた日本空軍の練度の高さは尋常ではない。それは日本空軍の教育が、厳しい試験を勝ち抜いた少数の優秀な搭乗員に対して「職人技」とも言われる高度な技量を教え込む少数精鋭教育であったことが理由である。
しかし、太平洋戦争は物量と物量のぶつかり合いであった。航空機搭乗員は次々と戦死していく。米軍の場合はパイロットの保護が非常に重視されていたためパイロットの生還率は非常に高いが、日本軍、特に日本海軍は決戦主義であったため搭乗員の人命を第一に考えるという発想はなかった。つまりは搭乗員は全員戦死してしまっても次の決戦までに育成すればよいからだ。
その発想で突入した太平洋戦争は前述の通り物量のぶつかり合いであったため搭乗員は大変な勢いで失われていく。そして戦争後期になるとそれまで「消耗品」として扱われていた搭乗員は「宝石よりも貴重」とまで言われるようになった。このため離島に孤立した熟練搭乗員をわざわざ潜水艦で救出するというような戦争初期では考えられなかったようなことも行われるようになった。
戦争後期になると状況は一変
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このような状況になった戦争後期、構成する搭乗員によって部隊の練度は大きく異なるようになった。つまりは部隊間の実力差が大きくなってきたのだ。この戦争後期で優秀な搭乗員を多く集めたことで有名なのは、局地戦闘機紫電改で編成された「剣」部隊343空であると一般には言われている。これは司令官の源田実大佐の政治力の賜物で、海軍では唯一といっていい最新の米軍機に対抗できる戦闘機紫電改を自分の部隊に集中運用させ、優秀な搭乗員を優先してヘッドハンティングしたと言われている。
しかし実際はそうともいえない。343空に優秀な搭乗員が多く配属されたのは事実ではあるが、それはあくまで基幹搭乗員であって、優秀な搭乗員を引き抜くという評判が立った理由は、操縦が難しく「殺人機」とまで言われた局地戦闘機雷電の操縦が出来た若年搭乗員達を大量に343空に引き抜いたためだと言われている。実際には熟練搭乗員の比率は他の部隊とそれほど変わらなかったようだ。
これに対して知名度は低いが343空以上の練度を誇ったのが芙蓉部隊である。これは美濃部正少佐率いる夜間攻撃専門部隊で、当時比較的熟練者の多かった水上機からの転科者が多く、さらに工夫した訓練法で練度を増した独特な部隊だ。
しかしその芙蓉部隊も海軍最強ではない。当時、海軍には部隊の練度を評価する基準があった。搭乗員の練度を測定するものだった。搭乗員はAランクから順に区分されていた。その基準で当時、最もAランクの搭乗員を擁していたのが今日紹介する戦闘303飛行隊なのだ。
この戦闘303飛行隊というのは、私の感覚では戦史ファンや戦闘機ファンにはあまり知られていない部隊ではないかと思う。使用機は普通の零戦で戦争末期には九州地区での制空任務に活躍した部隊で、日本海軍のトップエースといわれる岩本徹三、西澤廣義、谷水竹雄等、歴戦の搭乗員が在籍していた部隊だ。
戦闘303飛行隊の戦い
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戦闘303飛行隊は、1944年3月1日、特設飛行隊制度発足によって203空隷下部隊として厚木に誕生した。当時の飛行隊長は海兵63期の岡嶋清熊少佐。搭乗員には当初から日本のトップエースの一人である西澤廣義、操練35期のベテラン長田延義、同54期の倉田信高、丙飛4期の本多慎吾、丙飛3期の加藤好一郎等の熟練搭乗員が名を連ねていた。
1944年3月30日(4月末とも)、千歳基地に展開する(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』)。それはそうと、4月末にさらに幌筵島武蔵基地に移動する(安倍氏前著では5月中旬)。これは武蔵基地に展開していた281空が転出したためだ。その後、1944年8月11日に美幌基地へ移動。9月2日に一時的に百里原基地に展開するが9月14日にはまた美幌基地に戻る。9月18日にT部隊編入が下令され茂原に移動、さらに鹿児島の鴨池基地へ移動待機する。その後、台湾沖航空戦に参加したのち、10月24日フィリピンに到着する。
10月27日、レイテ沖海戦の一環として特攻作戦が開始された。この特攻機を援護するために海軍でも指折りの実戦経験を持つ西澤廣義飛曹長が任命され、特攻掩護に就く。関行男大尉率いる特攻隊、敷島隊は体当たりに成功、米護衛空母部隊に大損害を与えた。西澤飛曹長は戦果確認後、零戦を現地部隊に引き渡し輸送機によって帰還するが、その帰還途中に米軍機に襲撃され撃墜されてしまう。
開隊以来の熟練搭乗員西澤廣義飛曹長を失った戦闘303飛行隊は、翌11月15日に本隊は鹿児島へ撤収したようだ。所属航空隊も201空やら221空やらに変わったようであるが、正直、ここら辺はよく分からない。諸説あるものの、本隊がここら辺で内地に帰還したのは間違いないようだ。
台湾沖航空戦、フィリピンの戦闘でかなりの消耗をした戦闘303飛行隊であったが、1945年から隊員を増強し始める。まず、3月15日に零戦虎徹こと岩本徹三少尉がヘッドハンティングされる。この時点での部隊規模は機材が32機、搭乗員57名であった。3月26日にラバウル帰りのベテラン谷水上飛曹、操練27期の大ベテラン近藤政市少尉が着任している。
これだけ見ると何か数人のベテラン搭乗員だけしかいないような印象があるが、この戦闘303飛行隊の練度は全海軍中トップクラスであった。因みに谷水上飛曹が有名な撃墜マークを描いたのも戦闘303飛行隊にいた時だ。戦闘303飛行隊は九州に展開する宇垣纒中将指揮下の第五航空艦隊第203空の一隊として以後、終戦まで唯一の制空部隊として本土防衛にまい進する。
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戦闘303飛行隊が無名な理由
これまで見てきたように戦闘303飛行隊はベテラン搭乗員を集めた当時海軍でも随一の部隊であった。しかし同時期に誕生した343航空隊に比べて知名度は今ひとつ。。。というより壊滅的に知られていない。これは恐らく343空が紫電改という新鋭機を集中運用してエースを終結させたという「物語」があるからであろう。
これに対して戦闘303飛行隊は旧来の零戦を使用しており政治力の強い隊長(源田実大佐)のような人もいなかった。このため戦闘303飛行隊は練度が高く戦争末期には最前線である九州の防空で中心的な役割を担いながらも歴史の中に埋もれてしまったのではないかと考えている。
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