(画像はwikipediaより転載)
要約
水上機母艦瑞穂は有事の際には甲標的母艦となることを前提に開発された水上機母艦であった。実際、甲標的母艦となることはなかったが、日中戦争から太平洋戦争初期に活躍、1942年に横須賀から瀬戸内海への回航途中に米潜水艦の雷撃により撃沈された。
瑞穂
性能
基準排水量 10,929トン
全長 192.5m
全幅 20.0m
吃水 7.08m
機関出力 15,200馬力
最大速力 22ノット
航続距離 8,000海里/16ノット
乗員 692名
武装 40口径12.7cm砲連装3基
60口径25mm連装機銃10基
搭載機 水上機24機+補用8機
甲標的12隻、水上機12機(計画)
竣工 1939年2月25日
同型艦 1隻
開発前史
ワシントン海軍軍縮条約により日本を含めた列強国の艦艇の保有上限が定められた。日本海軍は、この抜け道として条約制限外の艦艇を建造して有事の際には制限内の艦艇へと改装するという方針を採用した。当時の日本は仮想敵国である米国に正面戦力では対抗できないため謂わば「搦め手」として小型潜水艦である特殊潜航艇甲標的を開発していた。
この甲標的は二人乗りの小型潜水艦であったため作戦海域まで自力で進出することができない。このため作戦海域まで甲標的を輸送する母艦が必要となった。ワシントン条約を継承したロンドン海軍軍縮条約では10,000トン以下、速力20ノット以下の特務艦艇であれば条約制限外であったため平時は水上機母艦として建造して有事の際には改装して甲標的母艦とする計画で建造されたのが水上機母艦瑞穂である。
開発
水上機母艦瑞穂は1937年5月1日に起工、1938年5月16日に進水、1939年2月25日に竣工した。基準排水量は10,929トンで全長192.5m、全幅20.0mと千歳型水上機母艦と同寸法である。しかし機関は千歳型と異なりディーゼル機関のみで最高速力は22ノットを発揮する。22ノットとなると軍縮条約に違反してしまうことになるがどうも能力を制限することで対応するつもりであったようだ。
艦載機数は水上機24機、補用8機でカタパルトは4基、クレーンは1基である。1940年には艦尾にハイン式マットを装備していた。これはなだらかにした艦尾に海面まで至るマットを垂らすことでこれに水上機が自力で進みながら艦上に収容するというもので航行しながら水上機を収容することが可能であるが、運用してみると使い勝手は悪く、結局、ハイン式マットを装備したのは日本海軍では本艦と神威のみだけとなった。
兵装は12.7cm高角砲が3基、25mm連装機銃が10基装備されている。珍しいディーゼルエンジンだったものの故障が多く、最高速度は計画を大きく下回り18ノット程度しか発揮できなかった。このため開戦後の1942年3月から改修が行われ22ノットを出すことが可能となったものの直後に米潜水艦により撃沈された。因みに外観上の特徴は「大型煙突がない」ことである。
同型艦
瑞穂(起工1937年5月1日、1938年5月16日に進水、竣工1939年2月25日)
戦歴
1939年2月に竣工した瑞穂は第四艦隊第十二戦隊に編入、当時戦果が拡大していた北支方面に投入された。3月には第四艦隊旗艦となる。1940年2月には連合艦隊付属の予備艦に指定され横須賀に回航、9月にはトラック諸島に寄港、11月には水上機母艦千歳と共に第七航空戦隊を編成した。
1941年には第七航戦は第十一航戦に改称、11月末には呉を出撃、パラオ滞在中に開戦を迎えた。開戦後はレガスピー、カタンドアネス島爆撃、ラモン湾攻略作戦、1942年1月にはメナド、ケンダリー攻略作戦に従事する。この中で瑞穂搭載の零式観測機がメナドは落下傘降下をする予定の海軍落下傘部隊が搭乗する九六式輸送機1機を撃墜してしまうという事故が発生している。これにより搭乗員5名と落下傘部隊隊員12名が死亡した。
同月、アンボン攻略に参加、2月にはマカッサル攻略作戦、チモール島クーパン攻略、スラバヤ攻略などの支援戦闘を行った。3月には開戦後多くの作戦に参加したため船体の修理や懸念であったディーゼル機関の修理のために内地に帰還した。1942年4月、横須賀にて改修を受けようやく全力航行が可能となるも、5月1日、瀬戸内海への回航途中に米ガトー級潜水艦ドラムにより雷撃、翌2日0416に沈没した。5月20日除籍。
⇒艦船一覧へ戻る
amazonで水上機母艦瑞穂を探す
|
|
|
↓良かったらクリックして下さい。
ミリタリーランキング
コメント