01_隼鷹
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 隼鷹型は日本海軍の航空母艦で1番艦隼鷹は1942年5月3日竣工。排水量24,140トン、全長219m、最大速度25.5ノット、航続距離10,000海里、航空機53機を搭載できる。大型ではあったものの商船改造空母であったため航空機搭載能力、速力は低かった。同型艦は2隻でどちらも1942年に竣工している。飛鷹はマリアナ沖海戦で撃沈されたものの隼鷹は終戦まで生き残った。

 

航空母艦 隼鷹型

 

 

性能

 基準排水量 24,140トン
 全長 219.32m
 全幅 26.70m
 飛行甲板 210.30m x 27.30m
 エレベーター 2基
 機関出力 56,250馬力
 最大速力 25.5ノット
 航続距離 10,000海里 / 18ノット
 乗員 1,187名
 武装 40口径12,7cm高角砲連装6基
    25mm3連装機銃19基
    25mm連装機銃2基
    25mm単装機銃30挺
    12cm28連装噴進砲6基
 搭載機 常用48機、補用5機
 竣工(1番艦 隼鷹) 1942年5月3日
 竣工(2番艦 飛鷹) 1942年7月31日
 同型艦 2隻

 

開発経緯

 隼鷹型航空母艦は、1938年に制定された「大型優秀船舶建造助成施設」によって建造された船舶である。これは造船振興政策の一つで26,000トン以上、最高速度24ノット以上の客船2隻の建造費用の6割を助成する代わりに有事の際には3ヶ月以内に軍艦に改造するというものであった。これは元々英海軍の発想であったようで、これを重巡妙高の設計などで有名な平賀譲博士が日本に持ち帰った。

 この政策は最初から隼鷹型(建造時は橿原丸型貨客船)を前提としたものであったが、日本郵船は採算が取れないことを理由に躊躇したものの実質的には海軍の命令であったために断ることができず、1939年に日本郵船の大型貨客船橿原丸と出雲丸は起工することになった。しかし1941年には早速海軍が2隻を買収、橿原丸は隼鷹、出雲丸は飛鷹と命名、航空母艦へと改装された。

 

開発

 当初の計画ではアイランドを持たない平甲板型空母にされる予定であったが、設計中の空母大鳳の事前実験として外方傾斜煙突と一体化した形状のアイランドを備えた空母へと変更されている。機関出力は56,250馬力で最高速度は25.5ノット、搭載機数48機であった。問題となったのは最高速度で25.5ノットは客船としては高速であったが、空母としては低速であった。建造当時の航空機は小型であったため問題はなかったが太平洋戦争後期になり航空機が大型化するとこの問題は深刻になった。

 そもそも貨客船として起工した船であったため木製部分も多く他の空母に比べてゆったりとした艦であったと言われている。装甲も他の空母に比べて薄く、内火艇が衝突した際には外板が凹んでしまったというエピソードもある。但し、全くの軽装甲という訳ではない。隼鷹型は空母への改装を前提に設計された艦であったため重要区画は厳重に防御しており機関部艦底も二重に防御されていた。

 

他の空母と比べてみると

 大きさとしては中型空母に相当するであろう隼鷹型を同じ中型空母である飛龍蒼龍と比較してみる。排水量は隼鷹が24,140トンに対して飛龍が17,300トン、蒼龍は15,900トンで飛龍、蒼龍はかなり少ない。全長は隼鷹型219mに対して蒼龍、飛龍の約227mと8mほど隼鷹型より大きい。そして全幅は隼鷹27mに対して蒼龍26m、飛龍27mとほぼ同じである。因みに水線幅は隼鷹型が26.7m、蒼龍が21.3m、飛龍が22.0mとなっている。

 隼鷹型の船体は前後に短く幅が広い形状であることが分かる。これに対して飛龍、蒼龍は空母として設計された艦である故に高速を発揮するため船体は前後に長く幅が狭い形状であった。この結果、飛龍、蒼龍の最高速度が35ノット近く出るのに対して隼鷹型は25.5ノットと10ノット近く低速になってしまった。ここらへんが客船改造空母としての限界であったのだろう。

 艦載機数も飛龍、蒼龍の57機に対して48機と少ない。排水量こそはこれら2空母を上回ってはいるが航空母艦としての実力は飛龍、蒼龍には及ばないというのがカタログ上のデータである。

 

速度が遅い

 これらのデータのなかで航空母艦としては速度が遅いというのは致命的であった。航空母艦というのは合成風力を作って航空機を発艦させる。合成風力とは自然の風と空母が航行する際の風を合わせた風力であり、空母が風上に向かって全力で航行して航空機を短距離で発艦させることが出来る。この合成風力を作る際の10ノットの違いというのは致命的で隼鷹型は実戦で相当苦労したようだ。

 しかし最高速度こそは通常の空母よりも劣るものの、甲板面積や艦載機数など航空作戦能力は中型空母に匹敵するもので、特にミッドウェー海戦で主力の4空母を失った後は機動部隊の中核として活躍した。

 

戦歴

02_飛鷹
(画像はwikipediaより転載)

 

 隼鷹は1939年3月20日、飛鷹は1939年11月30日、それぞれ貨客船橿原丸、出雲丸として起工、1941年6月24日に飛鷹、26日には隼鷹が進水、1942年5月3日に隼鷹が特設航空母艦隼鷹として竣工した。特設航空母艦とは、民間船を海軍が徴用して海軍所属の艦艇としたものであったため他の航空母艦のように軍艦籍は持たなかった。このため軍艦の艦首に取り付けられる菊の御紋もなかった。竣工と同時に第四航空戦隊に編入された。

 5月19日、零式艦上戦闘機を受領するが、実は隼鷹には当初は九六式艦上戦闘機が搭載される予定であったが、志賀淑雄少佐が強引に零戦に代えてしまったという。5月20日には四航戦はアリューシャン作戦のために第二機動部隊に編入、5月22日には四航戦は内地を出撃した。この出撃の際に隼鷹のマストの上に鷹が止まったというエピソードがある。

 このエピソードは目撃者も多く、恐らく事実であったのだろう。北太平洋の陸地から離れた場所での出来事であったため目撃者は驚いたという。目撃者は隼鷹という鷹の名を冠された空母に鷹が止まるということを吉兆と捉えたようある。この後隼鷹は多くの海戦に参加、商船改造空母であるにもかかわらず終戦まで生き残っている。初戦期に竣工して終戦まで生き残った空母は隼鷹のみであった。

 

1942年以降

 アリューシャン作戦終了後、内地に帰投した隼鷹は7月14日、正式に軍艦籍に加入、同時にそれまで四航戦を編成していた空母龍驤と共に第二航空戦隊に編入される。7月31日には飛鷹が竣工、こちらも二航戦に編入、二航戦は隼鷹、飛鷹、龍驤の3隻となった。

 10月4日、二航戦の空母隼鷹、飛鷹(龍驤は一航戦に編入)は内地を出発してトラック泊地に進出、20日、飛鷹は機関室の故障のために戦線離脱、10月26日には隼鷹のみ一航戦と共に南太平洋海戦に参加した。1943年1月にはガダルカナル島からの撤退作戦であるケ号作戦に参加、2月には内地に帰投したが、3月には修理が完了した飛鷹と共に再びトラック泊地に進出、航空隊のみい号作戦に参加している。

 4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将が戦死すると遺骨を載せた戦艦武蔵を護衛するために飛鷹は内地に帰還した。6月10日、マーシャル諸島へ進出することになった飛鷹は日本近海でガトー級潜水艦トリガーの雷撃により被雷、自力航行が不能となったため軽巡洋艦五十鈴に曳航され横須賀に帰投した。

 これに対して隼鷹は6月、航空隊のみをルオット島、さらにラバウルに派遣、航空隊を持たない隼鷹は7月25日呉に到着、以降シンガポール、トラック泊地への輸送任務に活躍する。11月には修理が完了した飛鷹は龍鳳と共に航空機輸送任務に就いた。これに対して隼鷹は、11月5日にはガトー級潜水艦ハリバットの雷撃により被弾、重巡利根に曳航されて呉へ帰投した。この時期に隼鷹、飛鷹では艦内の可燃物の除去が行われている。

 

マリアナ沖海戦、そして終戦

 1944年5月、久々に隼鷹、飛鷹が揃った二航戦はタウイタウイ泊地へ到着、6月にはマリアナ沖海戦に参加、飛鷹は航空攻撃を受け大破、曳航中に潜水艦の雷撃により撃沈した。これに対して隼鷹は直撃弾および至近弾を受けているものの撃沈には至らず内地に帰投した。

 7月10日には二航戦が解隊、隼鷹は航空戦艦伊勢日向と共に四航戦に編入されたものの航空隊は転用されてしまったため捷号作戦では駆逐艦に対するタンカーの役割が与えられた。以降、隼鷹はマニラ、シンガポールなどへの輸送任務を行ったが、12月9日、バラオ級潜水艦シーデビル、レッドフィッシュ、プライスに襲撃され魚雷2本が命中、右舷機械室は壊滅するが沈没は免れた。

 1945年3月末、船体の修理は完了するが機関室の修理はなされず出渠、すでに大型艦が作戦を行う時期は過ぎており、4月20日には他の大型艦と共に予備艦となった。佐世保に係留されたが、偽装がよほどうまかったようで終戦まで一度も航空攻撃で被弾することはなかった。

 終戦後、隼鷹は機関部が故障しているため復員船とはならず解体、1946年8月には解体完了した。

 

 

隼鷹は奇跡の幸運艦?

 隼鷹は1942年5月に竣工、翌月のアリューシャン作戦が初陣となった。前述のようにこの出撃で北太平洋を航行中の隼鷹のマストに鷹が止まったというのはあまりにも有名なエピソードだ。艦名にもなっている鷹がそれも太平洋の真ん中でマストに止まるというのは、あまりにも出来過ぎているように思われるかもしれないが多くの人に目撃されている事実である。

 隼鷹はその後南太平洋海戦、マリアナ沖海戦という大きな海戦に参加しつつも終戦まで生き残った。航空母艦といえば第一攻撃目標にされている艦種である。敗戦国のそれも圧倒的な物量を誇る米軍を相手に開戦当初に就役した空母が終戦まで生き残ったというのは米国のエンタープライズ以上の「幸運」艦であるといえる。

 だが、ここで大切なのはこれが「幸運」によるものなのかということだ。隼鷹は1943年11月5日に米ガトー級潜水艦ハリバットの雷撃を受けており、さらにマリアナ沖海戦でも損傷、1944年12月9日には再び米潜の雷撃を受けている。決して1発も爆弾や魚雷が命中しなかったという訳ではない。

 駆逐艦雪風、重巡洋艦青葉、伊号第36潜水艦など多くの戦いに参加しながら終戦まで生き残った艦は多いが、これらの艦も隼鷹と同様に被弾した際、または事故、トラブルに遭った際に乗組員の応急処置素早さによって撃沈を免れているのだ。決して鷹が止まったから助かった、運が良かったから助かったという訳ではない。隼鷹が幸運艦たりえたのは何よりも乗員の練度の高さがあったからだといえる。

 

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