
(画像はwikipediaより転載)
要約
青葉型は古鷹型の改良型である。1927年9月20日竣工、排水量9,000トン、全長185m、最大速度33ノット、航続距離8,223海里、主砲20.3cm連装砲3基、日本海軍初の水上機カタパルトを装備している。その後一度の近代化改修を受け太平洋戦争開戦を迎える。太平洋戦争では開戦当初より攻略作戦支援に活躍する。1942年10月のサボ島沖海戦で青葉が大破、11月は第三次ソロモン海戦で衣笠が撃沈された。青葉は1943年に修理が完了して再びソロモン方面に進出、進出早々B-17の爆撃により大破、修理完了後の1944年には潜水艦の雷撃により大破、1945年には米艦載機の空襲により大破している。毎年大破され続けたが、終戦時には大破着底した状態で残存。1946年に解体された。
重巡洋艦 青葉型
性能(改装後)
通常排水量 9,000トン
全長 185.17m
全幅 17.56m
吃水 5.66m
機関出力 102,000馬力
最大速力 33.43ノット
航続距離 8,223海里/14ノット
乗員 657名
武装 50口径20cm砲連装3基
45口径12cm砲単装4基
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
61cm連装魚雷発射管2基
装甲 舷側 76mm
甲板 32-35mm
主砲 25mm
竣工(1番艦 青葉) 1924年9月20日
竣工(2番艦 衣笠) 1924年9月30日
同型艦 2隻
開発前史
ワシントン海軍軍縮条約によって重巡洋艦は排水量10,000トン以内、主砲の口径は20.3cm以内という制限が課せられた。この制限内ギリギリで重巡洋艦を建造するために前級の古鷹型重巡洋艦をベースに欠点の改良と火力の強化を目論んだ新型重巡洋艦が開発されることとなった。
開発
青葉型の建造は1924年から始まったが、前級の古鷹型重巡洋艦の主砲は20cm単装砲6門で装填方式が半人力式であり速射性に劣っていた。このため青葉型では主砲を軍縮条約制限ギリギリの20.3cm砲として古鷹型の単装砲6基から連装砲3基に変更した。青葉型は連装砲にしたことにより主砲の散布界が広がるという問題が新たに判明、連装砲の発射のタイミングを0.3秒ずらすことでこの問題を解消している。
魚雷発射管は中甲板に12門、高角砲は12cm単装高角砲4門が装備されている。主機関はオールギアード・タービン4基4軸で出力は102,000馬力で最高速度は36ノット、航続距離は14ノットで7,000海里である。当初から水上機用のカタパルトが装備されているが、これは日本海軍初で注目すべき点である。名称は1番艦が京都府と福井県の境にある青葉山から命名、2番艦の衣笠は諸説あるものの神奈川県の衣笠山、徳島県の衣笠山に因んだという説がある他、艦内神社に京都市の平野神社が分社されているが平野神社の近くには衣笠山がある。
近代化改修
1937〜1940年に近代化改修を行っている。この改修では主砲の口径を20cmから20.3cmに変更、中甲板に設置されていた魚雷発射管は上甲板に設置、発射管も九二式四連装発射管一型2基に変更された。魚雷は九三式酸素魚雷で16本搭載されている。
さらに当初7.7mm機銃2挺と貧弱だった機銃も25mm連装機銃4基、13mm連装機銃2基がそれぞれ2番煙突周囲、艦橋前に設置された。因みに終戦まで生き残った青葉はその後機銃が増設されていたと推測される。その他カタパルト等が変更されている。
 
同型艦
1番艦 青葉(起工1924年2月4日、進水1926年9月25日、竣工1927年9月20日)
2番艦 衣笠(起工1924年1月23日、進水1926年10月24日、竣工1927年9月30日)
戦歴

(画像はwikipediaより転載)
青葉型就役
1927年9月20日、日本海軍の青葉型重巡洋艦のネームシップ巡洋艦青葉、10日後に2番艦衣笠が就役した。起工したのは衣笠の方が早かったが進水、竣工で遅れが出たため1番艦が青葉となった。就役した青葉型は古鷹型2隻の合計4隻で第五戦隊を編成している。旗艦は衣笠である。
1930年に衣笠が予備艦となり、1931年には青葉も予備艦となったが翌年の1932年には両艦ともに現役に復帰、青葉型2隻と加古で再び第五戦隊を編成している(古鷹は予備艦)。1933年にはこのままの艦で第六戦隊を編成、1935年には青葉型2隻で第七戦隊が編成された。1936年には青葉と衣笠が衝突事故を起こしている。
1937年から1940年にかけて両艦ともに近代化改修。1940年には両艦ともに第六戦隊に編入された。第六戦隊は青葉、衣笠、古鷹、加古で司令官は五藤在知少将である。この編成で両艦は太平洋戦争開戦を迎える。
太平洋戦争開戦
1941年、太平洋戦争が開戦すると青葉型はグアム島攻略、ウェーク島攻略に活躍する。1942年4月にはポートモレスビー攻略作戦に参加した。6月上旬衣笠のみ日本本土に帰還するが再びソロモン方面に出撃、青葉と合流している。8月には第一次ソロモン海戦に参加する。この海戦では青葉は小火災が発生した程度であったが、海戦後に潜水艦によって「ほぼ姉妹艦」の加古が撃沈されてしまう。
衣笠撃沈、青葉大破
1942年10月には五藤在知少将指揮の下、第六戦隊の旗艦となり、僚艦衣笠、古鷹と共にサボ島沖海戦に参加する。サボ島沖海戦では米艦隊を味方艦隊と誤認、「ワレアオバ」の信号を米艦隊に対して送り続けた。その直後、米艦隊が発射した初弾が青葉艦橋に命中する。
この攻撃により五藤存知少将を含む79名が戦死する。因みに五藤少将は山内一豊の重臣五藤吉兵衛の子孫である。大河ドラマ『功名が辻』では武田鉄矢氏が演じていた。艦橋以外にも砲弾が命中して青葉は大破する。辛うじて撃沈は免れたが、「ほぼ姉妹艦」の古鷹は撃沈されてしまう。
満身創痍の青葉はトラック泊地に帰投する。トラック泊地には、8月に工作艦明石が進出しているので明石による応急修理を受けたのであろう。10月下旬には内地帰投。呉海軍工廠で本格的な修理と改修を受ける。この青葉が内地で修理中にも衣笠はソロモン方面で活躍していたが、11月10日、衣笠は第三次ソロモン海戦で撃沈された。
1943年カビエン進出直後に爆撃で大破
1943年2月、青葉は修理が完了し再びトラック泊地に進出。さらに4月にはカビエンに進出するがそこでB-17の投下した爆弾が青葉に命中。青葉は大破し曳航されてトラック泊地に戻ることになる。そこでまたまた工作艦明石の応急修理を受けたのち、1943年8月呉に到着。12月、修理が完了した青葉はシンガポールに進出し輸送任務に従事、1944年2月からインド洋での通商破壊戦に参加する。
1944年潜水艦の攻撃で大破、1945年空襲で大破
1944年6月には渾作戦に参加するが、ここで潜水艦の雷撃により大破。マニラで応急修理を受けて5ノットの速力で辛うじて呉軍港に帰投する。呉に戻ったが損害があまりにも大きいために修理を諦め放置される。そして1945年7月の呉軍港空襲にて大破着底したまま終戦を迎え、翌年11月解体された。
まとめ
青葉型は1920年代に建造された重巡洋艦であった。一度の近代化改修受けて太平洋戦争開戦を迎えた。1942年10月、サボ島沖海戦で青葉が大破。11月には衣笠が撃沈された。生き残った青葉は1943年4月、B-17の爆撃で大破。1944年6月、潜水艦の雷撃で大破。1945年7月、呉軍港空襲で大破と太平洋戦争開戦以来、毎年一回、定例行事のように大破した。しかし青葉はとうとう太平洋戦争を生き抜いた。これを幸運艦と言っていいのかは微妙である。
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コメント
コメント一覧 (2)
平賀設計は、他の物理法則全無視の机上最強設計。
(平賀設計艦は命中率が頗る悪い)
ダメコンに配慮もされてないのに、青葉はよくぞ生き残ったものだ。
とりねこ
が
しました