(画像はwikipediaより転載)
要約
秋津洲は飛行艇の長大な航続距離を活かした攻撃を行うための拠点として建造された飛行艇の補給、整備のための専用艦である。3隻の建造が計画されたが完成したのは秋津洲1隻のみであった。戦争後半では飛行艇の支援よりも輸送任務で活躍している。1944年に工作艦に改造されたが同年9月24日に撃沈されている。
飛行艇母艦秋津洲 〜概要〜
性能(竣工時)
通常排水量 5,000トン
最大排水量 -トン
全長 114.8m
全幅 15.8m
吃水 5.4m
機関出力 8,000馬力
最大速力 19ノット
航続距離 8,000海里/14ノット
乗員 338名
搭載能力 航空燃料689トン
航空魚雷36本
爆弾800kg30個、500kg15個、250kg100個、60kg100個
最終時のみ魚雷艇5隻
武装 40口径12.7cm高角砲連装2基
25mm連装機銃2基
九四式爆雷投射機1基
竣工 1942年4月29日
同型艦 1隻
開発前史
太平洋戦争開戦の数年前から日本帝国海軍は来るべき日米開戦に際して航空機による真珠湾攻撃を検討していた。その攻撃は航空母艦艦載機による攻撃と並んで飛行艇による攻撃も計画されており、その飛行艇攻撃において飛行艇に洋上補給を行うための専用艦として建造されたのが飛行艇母艦秋津洲である。計画では2,500トンから最大30,000トンまで様々な大きさが検討されたが5,000トン級で開発が開始された。同型艦は3隻建造予定であり、以降も多くの飛行艇母艦の建造が計画されたが、完成したのは秋津洲のみである。
開発
秋津洲は1940年10月29日に神戸川崎重工で起工、1941年6月30日に秋津洲の艦名が与えられると同時に艦艇類別を水上機母艦とした。1942年4月29日竣工する。全長114.8m、全幅15.8m、排水量4,650トンで当初は船尾にスローブを設けて艦上に飛行艇を収容する計画であったが技術的に困難であることが分かり艦尾35トンの大型クレーンを装備する方法に変更された。このクレーンによって飛行艇を艦上に上げて整備、補給を行うことが出来る。但し、この状態で航行することは想定されていないため飛行艇の整備は停船した状態で行う。
艦内には燃料、弾薬の他、工作室もあった。搭載能力は航空燃料689トン、航空魚雷36本、爆弾は800kg爆弾30個、500kg爆弾15個、250kg爆弾、60kg爆弾各100個を搭載することができる。戦時中は飛行艇整備用の広い甲板を利用して魚雷艇の輸送も行っている。艦には独特の迷彩塗装が施されているが、これは初代艦長黛治夫大佐の影響があったと言われており、独特の迷彩塗装で攻撃力の不足を補うという秋津洲のせめてもの防御策であった。
同型艦
秋津洲(起工1940年10月29日、進水1941年7月25日、竣工1942年4月29日、1944年9月沈没)
戦歴
太平洋戦争開戦後の1942年4月に竣工、第11航空艦隊第25航空戦隊に編入された。5月15日、秋津洲は輸送船と哨戒艇2隻と共に横須賀を出航、24日にはラバウルに進出した。同戦域には飛行艇部隊の横浜航空隊が展開しており、横浜空への支援任務に活躍した。8月には、米軍のガダルカナル島上陸のため前線に近いショートランド島に進出。この地に進出している飛行艇部隊の支援を行う。12月には本土に帰還、艦長は黛治夫大佐から高尾儀六大佐に交代、秋津洲は横須賀で整備を受けた。
1943年1月には再びショートランド島に進出、2月からはマーシャル諸島、ギルバート諸島などで活動した。6月には千島列島の幌筵島に移動、キスカ島撤退作戦の支援にあたる。9月3日には連合艦隊附属に編入、トラック島への輸送を行った。1944年2月にはトラック泊地で米機動部隊のトラック島空襲に遭遇するが損害を受けることなくメレヨン島に向い、パラオからサイパンを経由して横須賀に帰投した。1944年8月には工作艦不足から工作艦に改造されたのちシンガポールへの輸送を敢行するが9月24日米艦載機の攻撃により撃沈された。11月10日除籍。
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