(画像は九六式陸攻 wikipediaより転載)
要約
大攻とは、日本海軍の航空機種別で大型攻撃機の略である。一式陸上攻撃機等中型攻撃機とは主要目的は同じであるが、爆弾搭載量、航続距離に大きな違いがある。日本初の大型攻撃機、略して大攻は、1933年に完成した九五式陸攻で、1933年5月に初飛行、最高速度245km/h、全幅31.68m、全長20.15m、爆弾搭載量1,600kgの巨人機であった。
九五式陸上攻撃機〜概要
<性能>
全幅 31.68m
全長 20.15m
全高 - m
全備重量 11,000t
最高速度 244.5km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで9分30秒
上昇限度 5,130m
エンジン出力 1,180馬力(広廠94式1型 液冷W型エンジン)2基
航続距離 2,883km
乗員 7名
武装 7.7mm機銃4挺、爆弾搭載量1,600kg
爆装 最大1,600kg
初飛行 1933年5月
総生産数 10機
設計・開発 岡村純 / 広海軍工廠
<概要>
1932年、当時、海軍航空本部技術部長であった山本五十六少将の発案により生まれた機体で、1932年、七試特殊攻撃機として計画がスタート、1933年3月、試作1号機が完成、11月制式作用された。機体は全金属製の双発でエンジンは当時最も強力であった広工廠製の九四式1型(900馬力)2基を装備していた。引込脚は採用しておらず、乗員は正副操縦員、偵察、爆撃、射撃担当が2名、通信、射撃担当が1名、発動機、射撃担当が1名の計7名であった。武装は7.7mm機銃が胴体前面に1挺、後上方に2挺、胴体後下方に1挺の合計4挺で爆弾は250kg爆弾6発または400kg爆弾4発、1トン魚雷2本を装備することができた。
初飛行は1933年5月で、山本五十六少将立ち合いの下行われた。飛行は順調に行われたが、エンジンの不調、補助翼のフラッター等のトラブルが発生した。初飛行時かどうかは不明であるが、飛行実験中にこの補助翼フラッターにより1機が東京湾に墜落する事故が起こった。それでも1936年6月2日制式採用となり、九五式陸上攻撃機と命名された。しかし総重量11トンにも達する本機に対して900馬力エンジン2基とはあまりにも非力であり、速度性能、上昇性能等の飛行性能は想定していた程ではなかったことや同時に採用された九六陸攻が予想以上の傑作であったため、陸攻は九六式陸攻1本に絞られることになり生産は打ち切られた。
運用
1936年4月1日、木更津に大攻隊が開隊する。定数は常用8機、補用4機であった。1936年9月に北海事変が発生、大攻隊は中攻隊と共に第11航空隊を編成し、台湾に展開したが、進出の際、事故により1機を失う。日中戦争が始まると大攻隊にも出動命令が下る。1937年9月14日、大攻隊は済州島に進出、9月30日、1機が江湾鎮、2機が南翔鎮を爆撃する。これが大攻隊初の実戦であった。以降、出撃を繰り返すが、10月24日、飛行場での事故により一挙に5機を失ってしまった。
その後も攻撃は残った1機によって続けられ、さらに内地から2機が追加され1937年末まで作戦に参加した。1938年1月大攻隊は内地に帰還する。大攻はのちに連山、深山と製作されるが、戦闘に参加した大攻は、この九五式陸攻のみである。
生産数
生産は広海軍工廠で6機、その後1936年に三菱で2機の合計8機が製造されたというのが定説である。しかし九五式大攻が配備された木更津空では日中戦争開始時点で6機を保有していたが、これ以前に2機を事故で失っている。さらに日中戦争開戦後に事故で5機を消耗、その後2機が補充されていることから総生産数は10機であろうと推測する説もある。
まとめ
九五式陸攻は九六式陸攻の陰に隠れてあまり知れることのない機種であるが、全幅31m、九六式陸攻よりも6mも大きい巨人機であり、3ヶ月間とはいえ多くの戦闘に参加した。その間に事故で大半を失ってしまうが、戦闘で撃墜された機体は存在しない。以降、大型攻撃機は企画されるが戦闘に参加することはなく、故に九五式陸攻が大攻として唯一戦闘を経験した機種となる。
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