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(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 烈風は諸外国の航空機と比べると性能はいまいち、さらに当時の日本は熟練パイロット不足、ガソリンの品質は悪いし航空機の稼働率は低いため大した活躍は出来ないだろう。

 

烈風が量産されていたら戦局の挽回はできた?

 

所詮は空想

 艦上戦闘機烈風とは太平洋戦争中に零式艦上戦闘機の後継機として三菱重工によって開発された戦闘機で設計主務者は零戦の設計者でもある堀越二郎が担当している。全幅14m、全長11mと艦上攻撃機並の大きさであったが、最高速度は628km/h、自動空戦フラップを装備しているため旋回性能も高かった。このため烈風の開発関係者からは「烈風が200機あれば戦局は変わっていた」とも言われたこともあった。

 今回はこの烈風が仮に200機あれば本当に戦局が挽回されていたのかということを考えてみたい。例によってこれは空想の話なのであまり深く考えず、読み進めて欲しい。私自身も「まあ、こんな感じじゃねーの?」的なテンションで書いているため、全ての可能性を検証している訳ではないのだ。これを読んで読者が自分で自分なりの検証をしてみるのも楽しいかもしれない。

 

開発おくれちゃった!(・ω<)てへ

 前述の通り、艦上戦闘機烈風は零戦の後継機として開発された機体だった。ここで簡単に烈風の概要について書いてみよう。烈風が完成したのは1944年10月、制式採用は1945年6月であったため量産されることなく終戦となってしまった悲劇の戦闘機である。零戦の後継機が4年後に初飛行をするというのは一見何でもないように見えるがこれは当時としては相当に遅いのだ。当時の航空機の進化は現在では想像できないくらい早かった。次々と新しい技術が開発されて2〜3年もすると新鋭機も旧式機となってしまうほどの早さだ。

 とくに戦争が始まってからは開発もさらにスピードアップすることになる。これは世界中同様だ。零戦でいえば1940年に制式採用された機体であれば、制式採用と同時に次期戦闘機の開発指示が下り設計がスタート、1942年か1943年頃には新型戦闘機が制式採用されるというのが当時の航空機の進化のスピードである。実際、米国でも1941年にグラマンF4Fワイルドキャットが制式採用されたが、1943年には新鋭機F6Fヘルキャットが実戦に投入されている。

 これは日本の航空機設計のリソースの問題であった。日本は陸海軍がそれぞれ多数の航空機の開発をメーカーに依頼していた。同じ様な戦闘機でも陸海軍は別々に設計を依頼、さらには様々な用途で使用する航空機を統一することなくそれぞれ発注していた。これに対してメーカーというのはそれほど多くはないし設計者も少ないのだ。

 これは零戦、烈風を設計した三菱重工も同様で零戦の後継機と並行して様々な航空機の開発、生産を行っていた。さらに設計者堀越二郎の体調不良もあり零戦の後継機の開発は遅れに遅れていたのだ。これは零戦の高性能に幻惑された用兵側が後継機の開発を軽視したということもあったようだ。

 

烈風の完成

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(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、烈風の開発計画は1939年に出ていたものの完成は遅れに遅れた。その上エンジンに関してもメーカーと海軍で意見が分かれてしまった。三菱重工は大型であるが自社製の高馬力エンジン金星を使用することを希望した。これに対して海軍は画期的なエンジンである誉エンジンの使用を強制したのだ。

 海軍の指示により誉エンジンを搭載した烈風試作機は最高速度も574km/hと零戦と大差なく極めて凡庸な戦闘機となってしまった。これに対して三菱重工は金星エンジンを搭載した機体の製作を希望、何とか製作することができた。これが最高速度628km/hを叩き出すと海軍も目の色を変え制式採用量産指示を出した。この変遷があるため烈風の評価は人によってまちまちであるのだ。1945年6月に制式採用されたものの量産される前に終戦となり烈風は実戦で使用されることはなかった。

 「烈風200機あれば戦局を挽回できた」というのは確か烈風のテストパイロットをやっていた小福田租中佐の言葉だったと思うが、では、この通りに烈風が200機生産されていたら戦局を挽回することは出来たのだろうか。と設問してみたが、もう結論から書こう。烈風が200機程度生産されたところで戦局の挽回は不可能である。

 

全機が可動する訳じゃない

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(画像はwikipediaより転載)

 

 当時の航空機というのはとにかく大量生産である。現在の航空自衛隊が配備している戦闘機の数は300機程度だったはずだが、当時は1航空隊に50機、60機と配備され、さらに数十個の航空隊があった。このため航空機の生産数も数千機規模だ。零戦の生産数は一万機を超えているし、陸軍の一式戦闘機隼四式戦闘機疾風も数千機規模の生産が行われている。

 この状況の中で200機というのは少量生産といえる。実戦で消耗した分の補填まで考えると1航空隊での運用が限界である。ほぼ1航空隊で集中運用された局地戦闘機紫電改ですら400機が生産されているのだ。定数60機程度の中規模の航空隊での運用が限界であろう。当然、この程度の数ではどんな高性能機でも戦局の挽回は不可能である。

 と、そこで終わってしまっては面白くない。では烈風が一度に200機完成、その後も生産を続けるという設定にしてみよう。定数60機の3個航空隊が編成されたとする。しかし問題がある。パイロットがいないのだ。当時の日本、特に海軍の航空機は防弾性能をかなり軽視していた。さらに捕虜になるなら自決せよという風潮もあった。このため太平洋戦争中盤にはすでに熟練パイロットはかなり枯渇していたのだ。

 それも戦争末期になると絶望的な状態になる。200機の烈風を操縦する200名のパイロットの多くは実戦経験を持たないと考えるのが自然だ。さらに稼働率の問題もある。当時の航空機というのは実戦配備されたら全機が飛べる訳ではない。特に日本では技術力の不足から故障が多い。稼働率は良くて70〜80%といったところか。さらに修理や定期整備なども考えると運用できるのは100機程度かもしれない。

 

まあ無理っすね

 100機というとそれなりの数に思えるかもしれないが前述の通り当時の航空機は規模が違う。米軍のエセックス級航空母艦は1隻で100機の航空機を搭載することができる。烈風100機といっても考えようによっては空母1隻分の戦力が追加されたに過ぎないのだ。

 数が少なくとも性能が圧倒的であればまた話は違ってくるが、その性能も実はそれほど圧倒的とは言えない。米軍のF6Fに比べてば最高速度で20km/h程度は速いが、F4Uコルセアは671km/h、実戦で使用される前に終戦になったF8Fベアキャットは689km/h、P-51マスタングに至っては763km/hを発揮する。さらに言えば1945年当時フィリピンにはジェット戦闘機P-80の部隊が進出しており、このP-80は最高速度900km/h超である。これらの新鋭機に対して烈風は運動性能では辛うじて勝っているが速度や上昇力、防弾性能等、その他カタログスペックでは烈風が完全に負けている。

 もちろん、当時の日本はオクタン価の低いガソリンを使用していたから外国製の高品質のガソリンを使用すればもっと良い数値が出たかもしれないが、それは考えても仕方がない。当時高品質ガソリンを米国から輸入できるはずもなく、あくまでも烈風は当時の日本のガソリンで飛ぶ以外にはないのだ。何なら代用燃料の松根油かもしれない。

 そして致命的なのは生産数である。F4Uの総生産数は13,000機、P-51が17,000機、F8Fでも1,300機が生産されている。数が少ない上にパイロットの技量も未熟、その上機体の性能自体も対戦国と比べると決して高いとは言えない烈風。さらに戦争末期の航空機の粗悪乱造状態を考えると量産機は試作機ほどの高性能を発揮できるのかも疑問だ。200機どころかその10倍の2,000機があったとしても戦局の挽回は難しかったであろう。

 

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