(画像は浅間 wikipediaより転載)
はじめに
装甲巡洋艦とは、巡洋艦が重軽に分類される前に存在していた区分で、戦艦に比べて軽量、高速である巡洋艦をある程度重装甲とした艦種である。妙にふわっとしているが、艦種分類はその時代と国によって異なっており、明確に定義することは難しい。大雑把に書くと、戦艦には及ばないにしても格下の艦相手には十分な装甲を持ち、速力も戦艦よりも若干上回るというようなもので、要するに準戦艦と考えて良い。
日本海軍では、1899年から1911年まで12隻の装甲巡洋艦が建造されており、この内、8隻が日露戦争に参加した。当然のことながら、これらの艦艇の存在がなければ日露戦争で日本海軍が歴史的勝利を収めることはなかった。そしてこれらの装甲巡洋艦たちは、日露戦争後も多くの任務に就き、中には太平洋戦争終戦まで戦った艦もあった。今回は、この日露戦争に参加した装甲巡洋艦8隻の戦歴とその後について簡単にみてみたい。
春日型装甲巡洋艦
春日(第1艦隊第1戦隊)
※以下カッコ内は日露戦争時の所属
(画像は春日 wikipediaより転載)
装甲巡洋艦春日は、1902年3月、イタリア国アンサルド社にてアルゼンチン海軍装甲巡洋艦リッヴァダヴィダとして起工、1903年に日本海軍が購入し艦名を春日と変更した。1904年1月竣工、2月には横須賀に回航される。排水量は7,700トンで全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員562名である。兵装は、25.4cm(40口径)単装砲1門、20.3cm(45口径)連装砲2門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門で、さらに45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する
1904年2月に日露戦争が勃発すると、4月には旅順口攻撃、8月に黄海海戦に参加したのち、翌年5月、日本海海戦に参加した。そして終戦直前の7月には樺太占領作戦にも参加している。そして第一次世界大戦が勃発すると南シナ海、インド洋で活躍するも1917年、1918年に2度の座礁事故に遭う。1921年9月には一等海防艦に類別変更、海防艦としてシベリア出兵の支援任務に活躍する。1925年には類別海防艦のまま横須賀鎮守府警備艦兼練習艦となった。太平洋戦争開戦後の1942年7月1日、特務艦に類別変更。終戦間際の1945年7月18日、空襲を受け大破着底、1948年に引き上げられ解体された。
装甲巡洋艦春日は日露戦争、第一次世界大戦をくぐり抜け、太平洋戦争では軍艦籍を除かれたものの練習艦として終戦直前まで活躍した。歴代艦長には岡田啓介、米内光政というのちの総理大臣もいる。
日進(第1艦隊第1戦隊)
(画像は日進 wikipediaより転載)
日進は春日型装甲巡洋艦の2番艦で、春日同様にイタリア国アンサルド社で建造、アルゼンチン海軍から買い取った艦である。春日とほぼ同時期の1902年3月起工、1904年1月に就役している。排水量は7,700で全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員は568名で兵装は、20.3cm(45口径)連装砲4門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門に45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。
1904年2月に日本に回航された後、4月には日露戦争旅順口攻撃に参加、その後、黄海海戦、日本海海戦に参加した後、終戦直前には樺太占領作戦にも参加する。日露戦争後の1912年、乗員による火薬庫放火により弾薬庫が爆発する。第一次世界大戦では太平洋、東南アジア海域の警備、地中海派遣艦隊として活躍した。1921年9月、一等海防艦に類別変更、翌年のシベリア出兵では警備を担当する。1935年4月に除籍、廃艦となる。廃艦後は標的艦として使用、同年10月9日に実験弾が1発命中、想定では1発では沈まないはずであったが老朽化のためそのまま沈没してしまった。その後引き揚げられ解体された。
この艦には日露戦争時、少尉候補生だった山本五十六が乗艦していたり、アルゼンチン海軍の観戦武官も乗艦していたという艦であった。同型艦春日とは異なり廃艦となり沈没するという寂しい最後であった。
出雲(第2艦隊第2戦隊)
(画像は出雲 wikipediaより転載)
出雲型装甲巡洋艦の1番艦である。1898年5月に英国アームストロング社で起工、1900年9月に竣工すると同年12月に日本へ回航された。排水量9,750トン、全長122m、全幅21m、最大速度20ノットで乗員672名、兵装は20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。日露戦争ではロシアのウラジオ艦隊に対抗するため対馬海峡に展開、蔚山沖海戦、日本海海戦には第二艦隊旗艦として参加、日本海海戦では東郷司令長官の命令を無視。結果、「世紀のパーフェクトゲーム」に貢献した。
戦後は第一艦隊旗艦、第一次世界大戦では遣米艦隊旗艦、続いて第二特務艦隊旗艦とし地中海に派遣、連合国の船団護衛に活躍した。1920年代初頭に一等海防艦に類別変更、その後練習艦、海防艦として活躍するが、1932年2月、日中関係の悪化によって中国方面の艦隊を統率する第三艦隊の旗艦となる。その後さらに第四艦隊も加えた支那方面艦隊の旗艦となる。その後、支那方面艦隊は規模を縮小され、第三艦隊は第一遣支艦隊と改名、引き続き同艦隊旗艦を務める。
1942年7月、海防艦の定義変更(占守型海防艦等が順次完成していた)により、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、竣工42年目にして再び巡洋艦となった。1943年8月20日、出雲は内地に帰還、練習艦として運用。1945年7月24日、米軍の空襲により至近弾を受け大破着底、1947年に引き上げられ解体された。艦歴の多くを旗艦として生きた稀有な艦であった。
磐手(第2艦隊第2戦隊)
(画像は磐手 wikipediaより転載)
出雲型装甲巡洋艦2番艦。出雲よりも6ヶ月遅い1898年11月、英国アームストロング社にて起工、1901年3月に竣工、同年5月に日本に回航された。排水量9,750トン、全長132m、全幅21m、最大速度21ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基、45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。
日露戦争では1番艦出雲と第二艦隊第二戦隊を編成、蔚山沖海戦や日本海海戦に活躍した。戦後は出雲と同様に1920年代初頭に海防艦に類別変更、他の艦に比して居住性が良かったため練習艦として使用された。1942年7月1日、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、1945年7月26日、米軍の呉軍港空襲により沈没、戦後引き揚げられた後解体された。歴代艦長にはのちに総理大臣となった米内光政、猛将で知られる角田覚治、潜水艦隊司令長官として有名な醍醐忠重などがいる。
吾妻(第2艦隊第2戦隊所属)
(画像は吾妻 wikipediaより転載)
基本的に英国の艦船を購入していた日本海軍には珍しいフランス製装甲巡洋艦である。1898年にフランス国ロワール社にて起工、1900年7月に竣工した。排水量9,326トンで同時期の英国製装甲巡洋艦出雲型に比べ若干少ないもののほぼ同じである。しかし全長は出雲型132mに対して136mと4mも長く、逆に全幅は18mと出雲型に比べ3m細かった。つまり出雲型に比べ、前後に長く、細い艦艇であった。最大速度は20ノットと出雲型に比べて1ノット劣る。乗員は644名で兵装は、兵装20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、 47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備している。
日露戦争では第二艦隊に編入、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。戦後は一時期練習艦となるも第一次世界大戦では第一特務艦隊に編入された。他の装甲巡洋艦と同様に1921年9月1日に一等海防艦に類別変更、舞鶴で練習艦として運用される。どうも機関部に不調があったようで1927年には定繋練習艦、1942年7月には練習特務艦に類別変更された。さらに第二次世界大戦中の1943年9月には備砲を撤去、1944年2月15日に除籍、鉄資源の回収のため1945年に解体された。
八雲(第2艦隊第2戦隊所属)
(画像は八雲 wikipediaより転載)
こちらもかなり珍しいドイツ製装甲巡洋艦である。1898年9月ドイツで起工、1900年6月に就役した。排水量9,695トン、全長124.7m、全幅 19.6mと同時期の装甲巡洋艦に比して全長が短い。最大速度は20.5ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。
日露戦争では第二艦隊第二戦隊に所属、黄海海戦、日本海海戦に参加、終戦直前には第三艦隊旗艦として樺太占領作戦にも参加している。その後は他の装甲巡洋艦と同様に練習艦として活躍したのち、1932年には海防艦に類別変更された。1942年7月1日には海防艦から再び一等海防艦に類別変更、太平洋戦争にも参加している。1945年5月には主砲が撤去され、12.7cm連装高角砲が設置、同年7月の呉空襲にも遭遇したが、奇跡的に中破状態で生き残った。自力航行可能であったため戦後は特別輸送船(復員船)として活躍、1946年7月に解体された。復員船としても活躍した唯一の日露戦争参加装甲巡洋艦。さすが鉄鋼の国ドイツ製といったところだろうか。
浅間(第2艦隊第2戦隊)
(画像は浅間 wikipediaより転載)
浅間型装甲巡洋艦1番艦。日露戦争参加装甲巡洋艦中最も古い艦である。1896年10月、英国アームストロング社にて起工、1899年3月竣工した。同月英国を出航、5月に日本に到着した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。
1900年に義和団の乱で出撃。日露間の関係が悪化する中で1903年に連合艦隊が編成されると浅間は第二艦隊第二戦隊に編入された。日露戦争では仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦に参加している。戦後は練習艦になったのち、第一次世界大戦では太平洋上のドイツ領攻略に参加している他、北米西海岸での哨戒任務に就いている。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、1942年7月1日には帝国海軍籍から削除、練習特務艦となった。他の装甲巡洋艦が一等巡洋艦に類別変更されたのに対して浅間が除籍されたのは、1935年10月に起こった座礁事故による竜骨損傷や老朽化が原因と言われている。
軍艦籍から除籍されたのちは主砲、副砲も撤去され砲塔跡に校舎も設置された。1945年11月30日に除籍、1947年に解体された。日露戦争では日本海海戦に参加するも戦闘初期に舵が故障し集中砲火を浴びてしまった他、1915年にはメキシコで座礁、1935年には広島湾でまた座礁してしまう。今ひとつ運の無い艦だったようだが、とにもかくにも太平洋戦争終戦まで生き残った。
常磐(第2艦隊第2戦隊所属)
(画像は常磐 wikipediaより転載)
1897年1月英国アームストロング社にて起工、1899年5月に就役した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。
日露戦争では第二艦隊第二戦隊に編入、旅順港攻撃、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。1914年8月第二艦隊第四戦隊に編入、第一次世界大戦にも参加した。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、翌1922年9月には敷設艦に類別変更、1923年4月までに敷設艦に改装された。そのまま敷設艦として活躍を続け、1941年12月8日の太平洋戦争開戦もマーシャル諸島クェゼリン環礁で迎えた。1942年2月の米機動部隊の空襲により被弾、3月に佐世保に帰還、修理完了ののち、再びマーシャル諸島に進出している。
1943年6月に内地に帰還、7月には大湊を根拠地として本土近海での機雷敷設任務に活躍した。1945年8月9日、大湊空襲により被弾、浸水したが沈没には至らなかった。しかし終戦を迎え、乗員が去っていくなかで排水作業が不可能となり擱座した状態で終戦を迎えた。1946年〜1947年にかけて解体された。常磐は日露戦争から太平洋戦争までを戦った数少ない装甲巡洋艦であった。
おわりに
日露戦争に参加した装甲巡洋艦は全部で8隻、内、7隻が太平洋戦争開戦まで存在していた。ほとんどは練習艦となっていたものの、出雲のように旗艦として活動していた艦や八雲や常磐のように実戦に参加していた艦も存在する。これらの艦はあまり知られてはいないものの、装甲巡洋艦という類別から外れたのちも各種任務にまい進した日本海軍の縁の下の力持ちであった。
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