01_北方領土変遷
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 千島列島の領有は1855年の日露和親条約で択捉島までが日本領と決められる。その後樺太千島交換条約で樺太はロシア領、千島列島は日本領となり、1905年のポーツマス条約で南樺太も日本領となった状態で第二次世界大戦を迎える。この戦争の末期に中立条約を結んでいるソビエト連邦が突如日本に宣戦布告して千島列島を全て占領してしまう。

 戦後日ソ共同宣言で歯舞群島、色丹島の引き渡しは平和条約締結後ということで約束するが現在まで平和条約は締結されていない。

 

北方領土問題

 

02_千島列島
(画像はwikipediaより転載)

 

日露和親条約(日露通商条約)

 1855年、江戸幕府は帝政ロシアとの間で日露和親条約が締結される。この条約により日本とロシアとの国境が択捉島と得撫島の間、樺太は両国人雑居とという今では考えられないフワッとした決定となる。しかしやはりこれはマズかった。こうなると日露両国ともに自国の支配下に置こうと移民を大量に投入、その結果、日露両国人の間でトラブルが続発した。「やはり国境は画定させないとね!」ということで1875年に樺太千島交換条約が締結された。

 

樺太千島交換条約

 この条約で樺太はロシア領、千島列島は日本領ということになった。しかしなぜ樺太という大きな島はロシア領で小さな千島列島が日本領となったのか。これは当時の日本の国力の問題だ。当時の日本はまだまだ国力は弱い。北海道の開発すらまともにすることができないのに遠隔地の樺太の開発なぞ出来るハズがない。樺太を日本領として保持すべきという意見もあったが、国内の政治闘争の結果、樺太放棄論が主流となり樺太千島交換条約が締結された。この条約の結果、しばらくは樺太はロシア領、千島列島は最北端の占守島まで日本領という状態が30年続くことになった。

 

ポーツマス条約

 1904年、日露戦争が勃発する。陸戦では1905年3月に奉天会戦で日本陸軍が勝利、海戦では同年5月27日に日本海海戦で日本海軍が勝利した。このタイミングで和平をと考えた日本政府は米国に仲介を依頼、8月1日、米国ポーツマスで日露の講和交渉が開始、9月5日にポーツマス条約が締結された。この交渉を米国が日露両国に提案したのは6月9日。日本が10日に受諾、ロシアは12日に受諾した。

 この交渉を受諾した直後の6月17日、日本は講和交渉を有利に進めるため樺太占領作戦を決定。そして7月7日、樺太占領作戦を開始、1ヶ月弱で樺太全島を制圧した。この結果、ロシアはポーツマス条約で樺太の50度以南の日本の領有を認めることになる。これ以降、樺太の南半分と千島列島が日本領という状態になった。

 

日ソ中立条約

 1941年に太平洋戦争が勃発する。当初は破竹の進撃を続けていた日本であったが、米国を敵に回して勝てるハズがない。3年半の戦闘で陸海軍とその航空戦力を完膚なきまでに叩き潰された日本は1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾して降伏することになった。しかしその直前の8月9日、ソビエト連邦が突然日本に宣戦を布告して侵攻を開始した。この時に南樺太、千島列島にも侵攻して北海道のすぐ近くの島である歯舞群島まで瞬く間に占領してしまった。

 実はこれ1941年4月13日に締結された日ソ中立条約の違反である。この条約は日本とソビエト連邦との間で締結された条約で相互不可侵と一方が第三国(日ソ以外の国)と戦争になった場合の中立を決めたもの。有効期限は5年なので1946年4月まで有効であった。

 何でこんなことが出来たのかというとこれには裏がある。日本がポツダム宣言を受諾する数ヶ月前の1945年2月、ソビエト連邦国内のヤルタで英米ソの三国の首脳が集まった会談が開かれた。この会談でソ連は英米に対日参戦と樺太、千島列島占領を認められていたのだ。これがその後現在に至るまで続く北方領土問題の始まりである。

 

1951年サンフランシスコ講和条約(1952年発効)

 実はこの対日参戦でソ連は米国に北海道の半分の占領も要求したらしい。しかしさすがに「調子に乗るんじゃねーよ」と却下された。さすがに北海道は占領されなかったものの南樺太、千島列島はソ連に占領され、小笠原諸島や沖縄は米国に占領されてしまった。その状態で日本の戦後はスタートする。

 戦争から6年後の1951年、日本は第二次世界大戦で戦った米英などの国と平和条約を結ぶ。これがサンフランシスコ講和条約だ。日本と連合国の戦争状態が終了したこと、日本国の主権が回復したことを宣言した。この際に日本は南樺太と千島列島の領有権を放棄した。つまりはソ連にあげますということだ。

 「あれー?日本は千島列島を放棄してるじゃーん!」と思うだろう。そう放棄したのだが、実はここで「千島列島」の定義というものが問題になる。どこまでが千島列島なのかということだ。講和条約当時の日本の解釈では千島列島というのは歯舞群島まで含まれるとし、また一方では歯舞群島、色丹島は北海道の属島(北海道の一部)だと主張したりしていた。ここらへんは私が今回調べた限りでははっきりしない。

 少なくとも択捉島、国後島は千島列島であるというのは確実だったのだが、1956年になると日本政府の解釈が変更され択捉島、国後島は千島列島に含まれないということになった。何だか日本政府の解釈があやふやなのだが、重要なのはこのサンフランシスコ講和条約にソ連が調印していないことだ。「はぁ?」と思われるかもしれない。今までの長い説明は何だったのかと思うだろう。実は解釈以前にソ連は署名を拒否したのでこの条約で何を決めようがソ連とは関係がないのだ。

 

日ソ共同宣言

 

 ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印していないということは日本とソ連の間では平和条約が締結されていないということだ。いくら冷戦が始まり不仲になったとはいえ、そのままという訳にはいかない。そこで1956年に日ソ共同宣言というのが宣言される。これは戦争状態の終了、外交関係の回復を決めたものであったが、この際に千島列島に関しても歯舞群島、色丹島は平和条約締結後に引き渡すということが決められた。

 この宣言では択捉島、国後島の二島は引き渡しの対象にはなっていない。このため巷で良く聞く二島先行返還という考えが出ることになる。少なくとも歯舞群島、色丹島の二島はソ連が引き渡しを約束しているからまずは二島を取り戻そうということだ。

 しかし日本政府の公式の立場は択捉島、国後島を含む四島の返還である。どうして四島になるのか。それは一番最初に出た日露和親条約が関係している。この条約では以前から日本の施政権が及ぶ地域として択捉島までを日露双方が認めている。つまりはこの条約以前からこの四島に関しては 日本領というのが双方の共通理解であった。そしてそれ以降もソ連に侵攻されるまでずーっと日本領だったのだ。条約やら宣言やらはないが、そもそも日本領なのだから返せということだ。

 

平和条約締結

 こうなると大事なのが日ソ共同宣言で決められた平和条約だ。平和条約が締結されればロシアは少なくとも歯舞群島、色丹島は日本に引き渡さなければならなくなる。そのため日本は平和条約の締結を望んでいるのだがロシアもせっかく戦争で獲得した領土である。おいそれとは返したくない。この攻防が現在まで続いている。

 

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