(画像はwikipediaより転載)
超要約
藤原鎌足に始まった藤原氏。子の不比等には四兄弟がいた。それぞれ南、北、式、京の四家に分かれるが、奈良時代に京家と南家が衰退、平安時代初期に式家が衰退して北家が権力を握る。以降北家の内部での権力闘争が激化。
藤原四家の栄枯盛衰
不比等の子四兄弟
奈良時代の政治史を知る上で欠かせないのは、藤原氏の存在だ。藤原氏とは、いわゆる大化の改新で功績のあった中臣鎌足が死の直前に天皇から賜った姓である。その後、藤原氏は権力を握り増殖、平安時代には藤原氏だらけになってしまう。では藤原氏はみんな仲良しでお手々てつないで仲良しかといえばそうではない。人間の業というか罪というか何というか。その藤原氏内部でも権力闘争が起こってしまうのだ。つまりは藤原氏といっても一枚岩ではないのだ。
ではその藤原氏、どのように分かれていったのだろうか。その最初のきっかけが藤原四家の存在だ。藤原氏の始祖といってもいいのが前述の中臣鎌足、死して藤原鎌足となる。その子が藤原不比等、大宝律令やら養老律令やらの編纂で中心的な存在であり、父、鎌足の権力を継承発展させた有能な人物であった。その不比等には4人の男の子がいた。これらが武智麻呂、房前、宇合、麻呂でそれぞれ南、北、式、京家の四家の始祖となる。
奈良時代で南家と京家は脱落!
この四兄弟は意外と仲が良かったようだ。しかし8世紀中頃の京の都では天然痘が大流行、四兄弟は次々と然痘に感染してしまう。737年4月、次男で北家の始祖である房前が他界、7月には長男で南家の始祖である武智麻呂と四男である麻呂が他界、8月には三男で式家の始祖である宇合も他界した。もしかしたら兄弟の見舞いに行って感染してしまったのかもしれない。
そこで藤原氏は次世代に移る。それぞれ権力の中枢に上るが、末っ子の麻呂の京家は子供も少なかったこともあり、何だか分からない内にマイナーな存在となっていく。残る三家の内、まずは南家が頭一つ抜きんでた。これは藤原仲麻呂という超有能な人物が存在したからだ。しかしその仲麻呂も764年に挙兵、失敗して南家は没落。これ以降南家はパッとしない存在となっていく。そこで残ったのが地味に存在し続けた北家と式家の二家だ。
いよいよ式家も没落
そんなこんなで奈良時代が終わり、平安京に都が移った平安時代初期、時代は平城天皇の時代となった。この平城天皇に接近したのが式家の藤原仲成で妹薬子が平城天皇のお気に入りとなり、権力をほしいままにする。しかし平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位してしまう。上皇となった平城と嵯峨天皇はその内対立、結局平城上皇が挙兵しようとするも嵯峨天皇によって未然に鎮圧、これにより仲成は射殺、薬子は自害、式家も没落した。
そこで嵯峨天皇に近侍して権力を掌握したのが北家である。奈良時代はパッとしなかった北家であったが、ここで藤原冬嗣という人材を得て藤原四家のレースに勝ち抜いた。以降、藤原道長など平安時代中期から後期にかけて名前が知られている藤原氏はほぼ全て北家の藤原氏だ。しかしその北家もまた兄弟や従弟などで対立、権力闘争に明け暮れることになる。なんとも。。。
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