01_戦艦大和
(以下画像はwikipediaより転載)

 

 

要約

 大和型は日本帝国海軍の戦艦で排水量64,000トン、全長263m、最大速度27ノット、45口径46cm砲3連装3基を装備する。主砲の射程は4万m以上、装甲はバイタル・パート方式で艦橋構造物も計画的に設計された。4隻建造予定であったが2隻完成、1隻は航空母艦となった。太平洋戦争開戦後に竣工、連合艦隊の旗艦を務めたが後方に温存されていたために実際に敵と交戦したのはマリアナ沖海戦が初めてである。レイテ沖海戦で武蔵が撃沈、坊ノ岬沖海戦で大和が撃沈されている。

 

大和型戦艦

 

 

性能

 基準排水量 64,000トン
 全長 263.40m
 全幅 38.9m
 機関出力 150,000馬力
 最大速力 27ノット
 航続距離 7,200海里 / 16ノット
 乗員 3,300名
 武装 45口径46cm砲3連装3基
    60口径15.5cm砲3連装4基
    12.7cm高角砲連装6基
    25mm3連装機銃8基
    13mm連装機銃2基
 装甲 舷側最大410mm、甲板最大230mm、砲塔650mm、司令塔500mm
 搭載機 7機
 竣工(1番艦 大和) 1941年12月16日
 竣工(2番艦 武蔵) 1942年8月5日
 同型艦 2隻

 

開発前史

 1934年に大和型戦艦の造船計画が着手されたが、当時はワシントンロンドン海軍軍縮条約により新戦艦を建造することができないいわゆる「海軍の休日」の時代であった。この条約で日本は対米比率7割に制限されており、この戦艦大和建造計画の背景にはこの対米比率の解消があった。

 1936年に第二次ロンドン会議が開かれたが条約に同意できない日本は一方的に脱退する。以降、日本は条約制限にとらわれない戦艦の建造に着手できるようになった。当時の列強の主力艦の最大の砲は41cm砲で日本の長門型2隻以下、英国2隻、米国3隻が存在していた。

 これらに対して日本は米国が建造できる最大艦の分析を行った。当時の米国の軍艦は大西洋と太平洋を結ぶ運河であるパナマ運河を通行できることが絶対条件であり、運河の最大幅33mが実質的な建艦の制約となっていた。

 そこで最大幅33mを基準として建造できる最大の戦艦を試算したところ46cm砲9門を搭載した場合は排水量50,000トン、速力23ノットであるが、現実的な可能性としては40cm砲を搭載した場合で排水量53,000トン、33ノットというものであった。

 そこでこれらの試算を上回る戦艦を建造すれば対米戦において優位に立てるという結論が導き出された。これらの計算をした上で大和型戦艦の建造はスタートした。

 

開発

02_戦艦大和

 

 戦艦大和型は1番艦大和が1937年11月4日に起工、1940年8月8日に進水、1941年12月16日に竣工した。2番艦武蔵は1938年3月29日に起工、1940年11月1日進水、1942年8月5日に竣工している。完成した大和は基準排水量64,000トン、全長263m、全幅38.9mという人類史上最大の戦艦であった。

 

主砲及び副砲

 主砲の46cm砲は仰角最大45°で最大射程距離は41,400m、威力は35,000m先の300mmの垂直鋼板を貫通させる威力を持っており、たとえ敵艦に命中しなかったとしても海に落下したあと魚雷のように水中を直進して敵艦に命中するようにされていた。

 これは米国戦艦ノースカロライナ級サウスダコタ級戦艦が搭載していた45口径16インチ(40.6cm)砲の射程距離が33,740m、アイオワ級の50口径16インチ(40.6cm)砲の射程距離が38,720m、英国のキング・ジョージ5世級の45口径35.6cm砲の射程距離が37,100mであるのと比べると圧倒している。射程距離があまりに遠距離であるため最大射程では水平線を超えるので水上偵察機による観測が必要であった。

 この46cm砲3連装の砲塔の総重量は2,774トンにもなり、これは駆逐艦1隻よりも重かった。この主砲の爆風を避けるために大和型戦艦は水上偵察機や艦載艇等、通常甲板上に設置されている艤装品を出来る限り艦内に収容している。

 副砲は60口径15.5cm3連装砲塔で艦橋構造物と煙突の前後左右に4基装備されていた。この15.5cm砲は重巡洋艦最上型に搭載されていた主砲で最上級が主砲を20.3cm砲に換装した際に不要になったものを転用したものであった。しかしこの砲の耐弾性は極めて低く、ここに直撃弾を受けると近くの主砲弾薬庫に引火して大和の致命傷になる可能性があった。

 

装甲

 防御装甲は通常、自艦の主砲の直撃に耐えられるだけの強度を求められるが46cm砲の場合は重量の問題で全体に装甲板を張ることができなかった。そこで「バイタル・パート」と呼ばれる重要な部分を集中的に防御する方式となった。この中でも煙突の排気口だけは装甲を施すことができなかったが「蜂の巣甲板」という18cmの穴が無数に開いた装甲を煙路に取り付けることで防御を施すという画期的な方法が採用された。

 しかしこのバイタル・パート方式も1943年12月に大和が被雷した際に構造の不備が発覚、1944年3月には武蔵が軽防御部分に被雷した際に予想以上の大量浸水を起こしている。

 機関は当初ディーゼル機関が使用される予定であったが信頼性に問題があり、結局タービン機関駆動となった。機関出力は150,000馬力で最高速度は27ノット、航続力は計画値で16ノットで7,200海里であるが実際には11,000海里以上であったという。

 

艦橋構造物

 日本戦艦の特徴といえば独特の艦橋構造が上げられるが、大和型戦艦の場合、艦橋もそれまでの日本戦艦が改装によって必要な機能を次々と加えて複雑になったのに対して大和型は効率的にコンパクトに必要な機能が設置されていた。

 1942年7月には大和の前檣楼最上部に21号電探を搭載(武蔵は新造時から搭載)、1943年には水上見張り用の22号電探、1944年初頭には13号電探も装備された。射撃指揮所には91式射撃方位版、主砲測距所には基線長15mの三重測距儀が搭載されている。

 計画では大和型戦艦は4隻が建造される予定で1番艦大和が呉海軍工廠、2番艦武蔵が三菱長崎造船所、3番艦信濃が横須賀海軍工廠、4番艦が神戸川崎造船所で建造される計画であった。しかし3番艦は建造途中に航空母艦に設計変更、4番艦は神戸川崎造船所で建造予定であったがガントリークレーンが小さすぎることなどから呉海軍工廠が担当することになったが、艦名も決まらないまま未着工となった。

 大和と武蔵の違いは民間の造船所が建造しただけに大和よりも内装がきめ細かかったこと等あるがわずかな違いのみでほぼ同じであった。

 

副砲撤去

 1944年1月から3月の間に大和型戦艦は両舷の副砲を撤去し12.7cm高角砲や25mm機関砲、13mm連装機銃を多数装備、さらにその後も対空兵装の強化が行われている。武蔵にも同様の改修が行われているが高角砲の増設は行われなかった。

 

 

戦歴

03_戦艦大和

 

 戦艦大和は1942年2月12日に連合艦隊旗艦となった。初陣は同年5月29日のミッドウェー海戦であったが、他の戦艦と同様に実際に敵艦と砲火を交えることはなかった。8月28日には大和はトラック島に進出するがこの時に米ガトー級潜水艦から雷撃を受けている。一方武蔵は竣工後瀬戸内海で訓練を重ねて1943年1月にトラック島に進出した。しかし大和型戦艦が実戦に投入されることはなかった。

 1944年6月には大和型戦艦2隻がマリアナ沖海戦に参加しているが、何と武蔵はこれが初陣であり、この海戦において大和型戦艦は初めて主砲の射撃を行った。

 その後、レイテ沖海戦に参加する。10月24日、シブヤン海沖を進んでいた武蔵に米機動部隊の艦載機が殺到、9時間にわたる死闘の末に武蔵は魚雷19本、直撃弾17発を受けて19時35分に撃沈された。大和はシブヤン海を突破してサマール沖で米護衛空母群と遭遇、初めて46cm砲を敵艦に向けて発射した。激戦の末に護衛空母を撃沈したもののレイテ湾には突入せずに帰投している。

 最後の出撃は1945年4月6日で護衛艦は軽巡洋艦矢矧以下駆逐艦10隻であった。出港直後から米潜水艦に捕捉されており、7日12時には米機動部隊の第一次攻撃隊が攻撃を開始、13時30分頃には第二次攻撃隊が来襲した。その後も執拗に攻撃を受けた結果、14時23分に大和は坊ノ岬沖で撃沈された。

 

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