(以下画像はwikipediaより転載)
要約
筑波級巡洋戦艦は日露戦争で喪失した戦艦の補充のために建造された。戦艦と巡洋艦の火力を併せ持つ装甲巡洋艦であったが建造中にドレットノート級戦艦が完成していたために完成と同時に旧式艦となってしまった。第一次世界大戦に参加した。筑波は事故で爆沈、生駒はワシントン海軍軍縮条約により廃艦となった。
筑波級 巡洋戦艦
性能
常備排水量 13,750トン
全長 137.1m
全幅 22.8m
機関出力 20,500馬力
最大速力 20.5ノット
航続距離 - 海里 / - ノット
乗員 879名
武装 45口径30.5cm砲連装2基
45口径15.2cm速射砲単装12基
40口径12cm速射砲12基
76mmカノン砲2基(生駒4基)
魚雷発射管単装3基
装甲 舷側203mm、甲板76mm、砲塔178mm、司令塔203mm
竣工(1番艦 筑波) 1907年1月14日
竣工(2番艦 生駒) 1908年3月24日
同型艦 2隻
開発前史
1904年5月15日、日露戦争において旅順港外で戦艦八島、初瀬が触雷により撃沈、日本海軍は保有する主力戦艦6隻の内の2隻を一度に失う大ダメージを被ってしまった。この穴を埋めるべく日本は戦艦2隻、装甲巡洋艦4隻の建造計画を策定して建造を開始した。その内最初に着手されたのが装甲巡洋艦筑波、生駒の2隻であった。
開発
筑波級は1番艦筑波が1905年1月14日呉海軍工廠で起工、1905年12月26日進水、1907年1月14日に竣工、2番艦生駒が1905年3月15日に同じく呉海軍工廠で起工、1906年4月9日に進水、1908年3月24日竣工した。
筑波級は日本初の排水量10,000トン超の艦艇であったが、筑波は起工からちょうど2年目に竣工、生駒は工事が遅れてしまったため3年2ヶ月をかけて竣工した。当然、日露戦争には間に合わなかったが初めての大型艦の建造がこの工期で完成したというのは評価されてしかるべきであろう。
火力
常備排水量は13,750トンで全長137m、全幅22.8mで艦首は水面下の衝角を廃ししてクリッパー型艦首を採用している。それまでの装甲巡洋艦の主砲は20.3cm砲であったが筑波級では戦艦と同じ30.5cm砲であるがそれまでの戦艦が40口径であったのに対して45口径アームストロング1904年型30.5cm砲を前後に連装1基を搭載している。仰角は最大20°である。
副砲もアームストロング社製のもので45口径15.2cm砲を搭載していた。仰角15°で12,344mの射程を持つ。その他40口径76mm速射砲は近接火器として搭載されており、仰角は最大40°で10,740mの射程を持っている。これを筑波は8基、生駒は12基搭載している。
就役と同時に旧式艦
防御も舷側最大178mm、甲板最大51mmのクルップ鋼を使用している。戦艦と比較すると薄いがそれまでの装甲巡洋艦と比較すると重装甲である。最高速度は20.5ノットと前弩級巡洋戦艦としては高速で戦艦の火力と巡洋艦の速度を兼ね備えるという画期的な巡洋艦であった。
しかし筑波級が建造されている最中に英国ではドレットノート級戦艦が竣工、世界に衝撃が走った。さらに生駒が竣工した同じ月に英国では30.5cm砲連装4基、速力25.5ノットというドレットノート級戦艦の巡洋戦艦版ともいえるインヴィシブル級が竣工したことにより筑摩級の火力、速度の画期性は全て過去のものとなり、筑波級は一挙に旧式艦となってしまった。
戦歴
竣工した筑波級2隻はその後竣工した鞍馬級とともに装甲巡洋艦として艦艇類別に登録されていたが1912年8月28日に新たに巡洋戦艦という類別が誕生すると筑波級、鞍馬級装甲巡洋艦が新しく巡洋戦艦となった。
第一次世界大戦では筑波が西太平洋の哨戒や南洋諸島の占領作戦に参加、生駒は香港、シンガポール、オーストラリアタウンズビル方面で商船の保護に当たった。1917年6月横須賀に停泊中であった筑波の火薬庫内で火薬が自然発火、爆発して着底した。この事故により乗組員305名が死亡している。このため筑波は同年9月1日に除籍。1918年5月から1919年12月31日にかけて横須賀で解体された。
生駒は引き続き哨戒任務を続行、大戦終結後の1919年より練習艦に類別変更されるが、1922年のワシントン海軍軍縮条約により廃艦が決定1923年9月20日除籍、1924年6月から1925年11月にかけて三菱長崎造船所で解体処分された。主砲は要塞砲として使用されている。
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