01_戦艦摂津
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 河内級戦艦は1912年に竣工した日本初の弩級戦艦であった。排水量20,800トン、全長152m、最大速度20ノット、主砲は50口径30.5cm連装砲2基、45口径30.5cm連装砲4基で配置は前後に2基、左右舷側に2基ずつの合計6基が設置される形式であった。艦首の形状は1番艦河内が垂直艦首、2番艦摂津がクリッパー型と異なっていた。主砲の口径が異なっている等、過渡期的な性格の戦艦といえる。

 

戦艦 河内級

 

性能

 通常排水量 20,800トン
 最大排水量 -トン
 全長 152.4m
 全幅 25.7m
 吃水 8.2m
 機関出力 25,000馬力
 最大速力 20ノット
 航続距離 -海里/ -ノット
 乗員 999名
 武装 50口径30.5cm砲連装2基
    45口径30.5cm砲連装4基
    45口径15.2cm砲単装10基
    40口径12cm砲単装8基
    40口径7.6cm砲単装16基
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 30.5cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1906年のドレットノート級戦艦の竣工の翌年に発注された日本初の弩級戦艦がこの河内級である。本級は薩摩級戦艦2番艦安芸の改良型といえるものであるが、全長は安芸よりも10mほど長く、排水量も1,000トンほど増加している。日本の戦艦としては初めて三脚檣を採用したのも外観上の特徴である。

 本級の一番の特徴は30.5cm連装砲6基を装備した弩級戦艦であることだ。連装砲は前後に2基、左右舷側に2基ずつ配置されている。これにより各方位に対して最低でも3基以上で砲撃することができるようになっているが、弱点としては前後にある2基が50口径の長砲身であるのに対して舷側の4基は45口径で若干砲身が短くなっていることである。これにより射程距離、破壊力が異なり運用上不利であった。これは当時の軍令部長東郷平八郎元帥の意見によって決まったともいわれている。実際の運用では火薬の量を調整することにより運用上の不利を解消したようである。

 主機は前級の1番艦薩摩がレシプロ機関、2番艦安芸がタービン機関であるのに対して、本級では1、2番艦ともに、さらに改良されたタービン機関のみの装備である。速力は20ノットと弩級戦艦よりも若干劣りはするがほぼ同レベルであったが、1番艦河内は垂直艦首であったため凌波性に難があった。装甲はハーヴェイ鋼よりも高性能のクルップ鋼を使用しており防御力も十分であった。

 

同型艦

1番艦河内(起工1909年4月1日、進水1910年10月15日、竣工1912年3月31日)
2番艦摂津(起工1909年1月18日、進水1911年3月30日、竣工1912年7月1日)

 

戦艦河内級の活躍

 

1番艦河内

02_戦艦河内
(画像はwikipediaより転載)

 

 前述のように1番艦河内と2番艦摂津の一番大きな違いは艦首の形状である。摂津がクリッパー型の艦首であるのに対して河内は垂直艦首だった。クリッパー型とは艦首が海面に対して少し「前のめり」形状をしている型で、これにより凌波性を高めることができるが、艦首をクリッパー型に変更すると決定した時にはすでに河内の工事は進行していたため修正することができなかった。

 河内は竣工すると直ちに第一艦隊に編入され旗艦となった。第一次世界大戦には姉妹艦摂津と共に海上の警備に従事するが特に目立った活躍はない。1917年予備艦となり、1918年に現役に復帰するが、同年7月徳島湾で停泊中に火薬庫の爆発により沈没。9月に除籍となる。

 

2番艦摂津

03_戦艦摂津
(画像はwikipediaより転載)

 

 1912年に竣工した2番艦摂津は、1番艦河内と同様に第一次世界大戦に海上警備に従事した以外には目立った活躍はしていない。1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約では未成艦は廃棄されることが決定していたが、当時、建造中(実際はほぼ未成艦)の長門級戦艦2番艦陸奥を既成艦として認める代償として摂津が退役、標的艦となった。

 

 

第一次改装

 1923年10月制式に標的艦となった摂津は、武装を全廃、当初は標的艦を曳航する曳航艦として任務にあたった。1936年無線操縦技術が確立されると摂津は無線操縦の所謂「ラジコン戦艦」となり、同時に演習弾の命中にも耐えられるように装甲が強化された。16基あったボイラーも4基の重油専用ボイラーに変更することとなり、「ラジコン戦艦」としての自動燃焼装置も装備された。これにより速力が20ノットから16ノットに低下している。この時に摂津の煙突は3本から2本になっている。

 

第二次改装

 1939年から1940年にかけて第二次改装を実施する。この改装は航空攻撃に対応することを主眼に改装された。まずは航空攻撃に対する操艦の訓練も行えるように上部装甲を強化、ボイラーも増強され速力も17.4ノットにまで増加された。

 この改装により摂津が航空攻撃に対する艦の操艦訓練も行えるようになったことが、航空攻撃に対する日本海軍の操艦技術の向上に大きく貢献することとなる。太平洋戦争が始まると摂津は南シナ海、フィリピン、台湾等に進出し、機動部隊の空母に偽装して符号を発信した。太平洋戦争中も標的艦として活躍し続けたが1945年7月の呉軍港空襲により大破着底、1945年11月除籍される。

 

まとめ

 

 河内級戦艦は日本初の弩級戦艦ではあるが、速度も弩級戦艦に比べ若干遅く、主砲の口径も2種類存在するなど、若干難のある戦艦であった。本級の一番の活躍は戦艦としての職責を解かれ標的艦として活躍したことであっただろう。標的艦に改装された摂津は「ラジコン戦艦」として日本海軍の戦闘技術の向上に大きな貢献をしのだった。

 

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