
(以下画像はwikipediaより転載)
要約
伊勢型は日本帝国海軍の戦艦で排水量35,000トン、全長220m、最大速度25ノット、主砲45口径35.6cm砲連装4基、航空機22機を搭載できる(最終時)。扶桑型の3番艦、4番艦として計画されたが扶桑型の欠陥に改良を加えたため伊勢型として竣工した。太平洋戦争中盤に航空戦艦に改装されエンガノ岬沖海戦で活躍した。戦争末期には呉軍港において防空砲台として運用されたが空襲で大破着底して終戦を迎えた。
伊勢型戦艦
性能(新造時)
基準排水量 29,900トン
全長 208.10m
全幅 28.65m
機関出力 45,000馬力
最大速力 23.0ノット
航続距離 9,680海里 / 14ノット
乗員 1,360名
武装 45口径35.6cm砲連装6基
50口径14cm単装砲20基
40口径76mm高角砲4基
53.3cm水中魚雷発射管6基
装甲 舷側最大305mm、甲板最大85mm
搭載機 -
竣工(1番艦 伊勢) 1917年12月15日
竣工(2番艦 日向) 1918年4月30日
同型艦 2隻
性能(最終時)
基準排水量 35,200トン
全長 219.62m
全幅 33.83m
飛行甲板 70m×29m
エレベーター 1基
機関出力 80,825馬力
最大速力 25.31ノット
航続距離 9,500海里 / 16ノット
乗員 1,434名
武装 45口径35.6cm砲連装4基
40口径12.7cm高角砲連装8基
25mm3連装機銃31基
25mm単装機銃11挺
12cm28連装噴進砲6基
装甲 舷側最大305mm、甲板最大85mm
搭載機 22機
同型艦 2隻
開発前史
伊勢型戦艦は超ド級巡洋戦艦である金剛級戦艦と対をなす超ド級戦艦扶桑型の3番艦、4番艦として建造される予定であった。しかし予算の成立が遅延したことに加え、第一次世界大戦のユトランド海戦での戦訓が影響している。
ユトランド海戦とは1916年5月31日に起こった英海軍とドイツ海軍の主力艦合計59隻が参加した大海戦で、それまでの戦艦の想定が6,000m程度の距離の撃ちあいであったのに対して13,000mを超える遠距離からの砲戦であった。
この海戦によって英国の巡洋戦艦3隻が撃沈され、巡洋戦艦の装甲の弱さが問題となった。日本の金剛級戦艦も同様の問題を抱えており、戦艦に関しても速度の遅さが致命的であることが判明した。このため伊勢型戦艦は扶桑型戦艦に改良を加えて完成させることとなった。
開発

戦艦伊勢は日本で初めて戦艦を建造した民間造船所である神戸川崎造船所で起工、1915年5月10日に起工、1916年11月12日進水、1917年12月15日に竣工した。姉妹艦日向は1915年5月6日に起工、1917年1月27日進水、1918年4月30日に竣工した。排水量は29,900トンで全長208.16m、全幅28.65mで扶桑型よりも若干大きいがほぼ同クラスである。
主砲は金剛級、扶桑型と同じ45口径35.6cm砲連装6基であるが、3番砲塔、4番砲塔の位置は扶桑型が第二煙突を挟んで設置されているのに対して伊勢型は第二煙突の後方に2基配置された。これは扶桑で問題となった主砲射撃時の爆風が艦橋を襲うことを防ぐためである。
副砲は50口径14cm単装砲20基で扶桑型の15.2cm単装砲16基よりも小口径化しているが数は増えた。小口径化は小柄な日本人にとって操作性が良く、砲数が増えたため火力はさほど劣っていない。高角砲も扶桑型と同様に搭載されており、76mm高角単装砲が4基設置されている他、魚雷発射管も装備された。装甲は舷側305mm、甲板85mm、砲塔305mm、司令塔305mmである。
機関は伊勢がブラウン・カーチス式タービン、日向がパーソンズ式タービンで出力は45,000馬力で扶桑型よりも5,000馬力増加している。このため最高速力は扶桑型の22.5ノットに対して23.0ノットを発揮することができた。
伊勢型も他の戦艦と同様に竣工後も随時改装を行っている。1921年には主砲の仰角を25°から30°に増大して最大射程30,000kmの長距離砲戦能力を獲得、1928年には前檣を櫓檣式に変更された。さらに水上偵察機の搭載、1932年には対空兵装の強化も行われている。
第一次改装
日向は1934年11月23日から1936年9月7日まで、伊勢の改装は1935年8月1日から1937年3月23日まで行われている。第一次改装では主砲の仰角を30°から43°に増大した。これにより射程距離は35,450mに延長、副砲も仰角20°から30°へと引き上げられた。主機関も艦本式タービンに更新され2本あった煙突は1本になり80,000馬力、最高速度25ノットが発揮できるようになった。水平防御を中心とした装甲防御の強化、、艦尾を8m延長、対空兵装の増強、カタパルトの新設等が行われた。これらの改装により排水量は36,000トンに増加している。
航空戦艦に改装
このミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った日本海軍は出撃機会の少ない低速戦艦を空母に改造することを計画、扶桑型、伊勢型がその候補にあがった。この時、日向が砲塔の爆発事故を起こした直後で修理を行う必要があったことから伊勢型の航空母艦への改装が決定したが、完全な空母に改装するには時間がかかり過ぎるために後甲板の5番、6番砲塔を撤去、水上機射出甲板を備えた航空戦艦に改装されることとなった。
工事は伊勢が1942年12月23日から1943年9月5日まで、日向は1943年5月2日から1943年11月30日まで行われた。完成した航空戦艦伊勢型は飛行甲板全長70m、全幅29mで両舷にカタパルトを各1基設置して甲板下は格納庫とした。搭載機数は21機であったが、着艦装置が無いため通常の艦上機の搭載はできずにカタパルト射出用に改造された艦上爆撃機彗星が搭載される予定であった。この彗星は射出後は近くの陸上基地に着陸するか艦の周辺に着水してパイロットのみ回収する計画であった。のちに艦載機の半数を水上偵察機瑞雲に変更されている。
航空戦艦化に伴い対空兵装も強化されている。当初は12.7cm高角砲連装4基のみであったのに対して同砲をさらに4基増設、8基16門となった他、25mm機銃も連装10基を3連装に変更した上でさらに9基を増設した。マリアナ沖海戦ののちにはさらに機銃が増設されている。
戦歴

日向は砲塔関係の事故に多く見舞われた艦であった。最初は竣工直後の1919年10月24日であり、房総沖での演習中の第3砲塔爆発事故を起こしている。次に1924年9月17日4番砲塔で火災が発生、さらに1942年5月5日には伊予灘での射撃訓練中の5番砲塔の爆発事故が起こった。この事故の結果、日向は5番砲塔を撤去している。
太平洋戦争開戦時には伊勢、日向ともに第一艦隊に所属、連合艦隊の主力部隊として柱島泊地にあった。初陣はミッドウェー海戦であったが実際に戦闘に参加することはなかった。このミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った日本海軍は空母不足を補うために伊勢型を半空母「航空戦艦」に改装することとした。
伊勢は1943年8月、日向は同年11月に航空戦艦に改装が完了したものの搭載する航空機の生産が間に合わず計画の航空機を搭載することができなかった。1944年10月25日、伊勢型航空戦艦は第4航空戦隊を編成、エンガノ岬沖海戦に参加するが、これは戦艦大和以下の第一遊撃部隊のレイテ湾突入を援護するための実質的な囮作戦であった。
この囮部隊に米機動部隊の航空機が殺到、他の艦艇が次々と撃沈される中、戦隊司令松田千秋少将が理論化した独自の回避運動を実戦、のべ530機の攻撃の中で大きな被害を受けずに生還した。
その後はフィリピン方面への輸送任務に従事したが、1945年春には呉軍港外に停泊、防空砲台となった。7月24日、28日の米機動部隊の呉軍港空襲で命中弾16発を受けて大破着底、そのまま終戦を迎えた。戦後引き揚げられ解体されている。
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