
(以下画像はwikipediaより転載)
要約
扶桑型は1915年11月8日に竣工した日本帝国海軍の戦艦で排水量29,326トン、全長205m、最大速度23ノット、45口径35.6cm砲連装6基を装備する。日本初の超ド級戦艦である。建造中に航空機の発展が加速したために戦艦で初めて高角砲を搭載している。数度の改装により近代化をしたものの太平洋戦争開戦時には旧式化が否めずに開戦後は内地で練習艦、航空機の訓練用の標的として運用された。しかし1944年2月にはとうとう扶桑型も戦列に復帰、マリアナ沖海戦に参加する。その後レイテ沖海戦で撃沈されている。
扶桑型戦艦
性能(扶桑新造時)
基準排水量 29,326トン
全長 205.13m
全幅 28.65m
機関出力 40,000馬力
最大速力 22.93ノット
航続距離 8,000海里 / 14ノット
乗員 1,193名
武装 45口径35.6cm砲連装6基
15cm単装砲16門
8cm高角砲4門
6.5mm機砲3門
8cm砲外膅12門
53cm水中発射管6門
装甲 舷側最大304.8mm、甲板最大76.2mm
搭載機 3機(第一次改装後)
竣工(1番艦 扶桑) 1915年11月8日
竣工(2番艦 山城) 1917年3月31日
同型艦 2隻
開発前史
1906年にドレットノート級戦艦が登場すると世界の戦艦の趨勢は大きく変わった。それまでの戦艦が主砲を最大で2基斉射することが限界であったのに対してドレッドノート級は最低でも3基、最大で4基の主砲の斉射をするとができる。その上高速と来てはそれまでの戦艦が一気に陳腐化してしまうというのも無理が無かった。
これに対して日本も薩摩型戦艦を建造することでド級戦艦を保有することに成功したものの、1912年には英国で34.3cm砲を搭載した戦艦オライオン級、同巡洋戦艦ライオン級が建造されると、ドレッドノート級を超える戦艦である超ド級戦艦の時代へと移行していった。
こうした中で日本は英国の先進的な技術を学ぶために巡洋戦艦金剛を英国に発注、技術移転のために姉妹艦は日本で建造することとした。これによって日本初の超ド級巡洋戦艦を保有することに成功したのであるが、これに対応する超ド級戦艦の保有が必要となった。この必要性によって建造されたのが扶桑型戦艦である。
開発
扶桑型は日本海軍が建造した超ド級戦艦第一号である。1番艦扶桑は1912年3月11日起工、 1914年3月28日進水、1915年11月8日に呉海軍工廠に竣工した。山城は1913年11月20日横須賀海軍工廠で起工、1915年11月3日進水、1917年3月31日に竣工した。排水量は29,330トン全長205.1m、全幅28.7mの巨艦で完成時は世界最大の戦艦であった。
主砲は金剛型巡洋戦艦と同じ45口径35.6cm砲連装6基で艦首と艦尾に2基、煙突の間に1基、後檣前方に1基を艦の中心線上に配したユニークな設計であった。しかしこのために6基の主砲が斉射した場合、艦が爆風に包まれてしまい艦橋指揮装置などに重大な影響を及ぼす等の欠陥が続出した。
扶桑型が竣工したのは第一次世界大戦中で航空機がめざましい発展を遂げている時であった。このため日本戦艦で初めて扶桑型には高角砲が搭載された。防御に関しては舷側305mm、甲板64mm、主砲前面280mm、同天蓋115mm、司令塔351mmで同時代の戦艦に比べて若干見劣りするものの比較的強力なものであった。機関は40,000馬力を発生させるタービン2基で最高速度は22.5ノットとこの当時の戦艦としては平均的であった。
また1927年には
扶桑

第一次改装
扶桑は1930年4月19日から1933年5月12日まで三年かけた大改装を行った。この改装の目的は火力、防御力、速力等すべての面に及んでいる。主砲は第一次世界大戦の戦訓から遠距離砲戦に対応させるために主砲の仰角を25°から30°に上げると同時に天蓋部の装甲が増加された。巨大な櫓檣の上に艦橋が移動、同時に主砲指揮所、主砲測的所等も増設された。
また機関部も新型タービンに変更、この結果煙突は2本から1本に変更された。速力もそれまでの22.5ノットから24.7ノットに増加している。さらにを図った。3番砲塔上にカタパルトを設置、甲板下に航空機格納庫が設けられた。このため3番砲塔の向きが新造時とは逆になっている。
第二次改装
1934年9月16日から1935年2月19日まで行われた第二次改装では主砲の仰角が30°から43°、副砲の仰角も15°から30°に引き上げられ主砲装甲も増厚して防御を強化した他、舷側装甲も増加、艦尾の延長工事を行い排水量は3万トン超となった。扶桑は3番主砲塔上に水上機用のカタパルトを設置、砲塔の向きが後ろ向きから前向きに変更された。タービンも新型の艦本式タービン4基となり最大速力も24.7ノットとなった。
その後、1937年2月26日から1938年3月31日まで一年をかけて艦体の延長工事が行われている。
山城

山城は1927年には扶桑と同様に前檣を櫓檣に変更、1928年には4番砲塔上に架台を増設して水偵機を搭載している。そして1930年12月18日から1935年3月30日まで5年近くにわたる改装行った。改装が長期間に及んだのは緊縮財政のために作業の中断が発生したためである。
この改装は扶桑の第一次、二次の改装におおむね準じたものである。艦体は10m延長され、扶桑同様にタービンも変更、主砲と副砲の仰角、防御装甲も増加してカタパルトも設置された。艦尾が延長されているため3番砲塔の向きは竣工時のままの後ろ向きである。
この改装によって山城は排水量34,500トン、速力24.5ノットとなった。
戦歴
太平洋戦争開戦時にはすでに旧式戦艦となっていた扶桑型であるが、初陣は1942年6月のミッドウェー海戦である。ただしこの海戦では扶桑型は洋上で待機していたのみで戦闘には参加していない。これ以降も扶桑型は戦闘に参加することはほとんどなかったが理由は速度の遅さである。
このため扶桑は練習艦、山城は航空機の襲撃訓練用の練習艦として運用された。しかし戦局が逼迫、旧式戦艦である扶桑型にも出撃命令がでた。出撃に際して機銃の増設や電探の新設工事が行われている。1944年2月に扶桑、山城はトラック島に進出して第一線復帰を果たす。
1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加、同年9月には西村祥治中将指揮下の第一遊撃部隊第三部隊主力としてレイテ沖海戦に参加した。10月24日夜にスリガオ海峡に突入したが待ち構えていたオルデンドルフ中将の戦艦6隻、重巡4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇37隻という大艦隊の集中攻撃を受け扶桑が撃沈、続いて山城も撃沈された。総員退去命令も間に合わず多くの乗組員は艦と運命を共にした。
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