
(以下画像はwikipediaより転載)
要約
坊ノ岬沖海戦とは1945年4月7日に起こった海戦である。当時の日本海軍は掩護戦闘機を付ける力もなく搭載燃料も片道分しかない事実上の特攻作戦である。出撃艦艇は戦艦大和以下10隻で米機動部隊の猛攻により戦艦大和以下6隻が撃沈された。
坊ノ岬沖海戦
背景
1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸を開始した。これに対する日本軍守備隊は陸軍86,000名、海軍10,000名であった。米軍の兵力は50,000名であったが十分な支援と装備を持った米軍の力は凄まじく、水際作戦を避けた日本軍の戦術と相まって米軍は上陸初日に中飛行場(現在の嘉手納)、北飛行場(同読谷)を占領した。
この飛行場を奪還するために4月7日に陸海軍による総攻撃が決行された。4月3日、連合艦隊司令部は菊水作戦を発動、九州からの特攻機での攻撃に加え戦艦大和を中心とする第二艦隊も出撃することが決まった。しかし当時の日本海軍には掩護戦闘機をつける余裕はなく燃料も片道分しか積載されないという特攻作戦であった。
坊ノ岬沖海戦
1945年4月6日、第1遊撃隊と命名された水上特攻隊は第2艦隊の戦艦大和、第2水雷戦隊の軽巡洋艦矢矧、第17駆逐隊の磯風、浜風、雪風、第21駆逐隊の朝霜、初霜、霞、第41駆逐隊の冬月、涼月の合計10隻であった。この最後の連合艦隊の出撃は上空をB-29、海面下には潜水艦によって追跡されていた。
米沖縄攻略軍司令官レイモンド・A・スプルーアンス大将はこの艦隊に戦艦部隊で対抗することを決定していたが、第1遊撃隊はジグザグ航行をしており艦隊の目的地がどこなのかが判明しなかった。このため低速の戦艦部隊での邀撃は断念して機動部隊による攻撃を決定する。
7日12時32分、米艦載機第一波攻撃隊約200機が第1遊撃隊に殺到する。この編隊の魚雷が大和左舷に命中、その後も左舷に攻撃が被害した。12時45分に駆逐艦浜風、12時46分軽巡洋艦矢矧が航行不能となる。12時47分浜風爆沈、朝霜も魚雷2本を受け撃沈した。13時8分には涼月が直撃弾を受け大破した。
13時20分から14時15分の間に第二波、第三波攻撃隊が到着する。これらの攻撃隊の魚雷も左舷に命中した。これは意図的ではなく大和の操艦により左舷が狙いやすかっただけだったようだ。13時25分駆逐艦霞が航行不能となる。14時5分矢矧撃沈、14時23分に大和も撃沈された。
米艦載機の攻撃は終了するが16時30分には駆逐艦磯風が浸水増大のため航行不能、16時57分には航行不能であった駆逐艦霞が雷撃処分された。さらに22時40分には磯風が雷撃処分されている。
戦死者は大和が2,733名、大和以外が989名で生還した艦艇は駆逐艦冬月、涼月、雪風、初霜の4隻のみであった。
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