本書は、高等遊民とはどういうものかということから始まる。高等遊民とは明治から大正初期まで高等教育を受けながら定職につかない人のことだという。著者はその高等遊民という生き方を目指そうと提言する。一般的な日本人の人生は、就職してから定年まで働き、その後自分のやりたいことをやるというものであるが、「50歳、60歳では遅すぎる」という紀元前のローマの政治家セネカの言葉を引用し、日本人一般の人生観に警鐘を鳴らす。
高等遊民がどういうものかというと、ソロー、橘曙覧、良寛を参考に分析していく。ソローはハーバード大学卒業後、小学校の教師となるが二週間で退職。その後仕事を転々として定職にはつかなかった。しかしただのフリーターではなく、生活に必要な金だけを稼ぎ、あとは自分の研究の時間に充てたという。橘曙覧は裕福な商人の家に生まれたが、35歳の時、家業を弟に譲り、自らは歌人として貧しい生活を送る。良寛も商人の息子であったが、商才が無いため仏門に入れられる。厳しい修行の末、諸国を行脚し、44歳の時、故郷に帰る。しかし実家には戻らず、山腹に庵を設けそこで生活したのだ。
これらから金や物に拘らない生き方、現状を楽しむという考え方を見て取る。彼らに共通しているのは、橘曙覧、良寛は詩を読み、ソローは思想を深めたようにただのニートではなく知的作業に従事していたということだろう。これが高等遊民の生き方と著者は評価する。さらに儒教と老子の思想の中間にあって、半隠遁の状態が理想であるとする。それは精神的にも社会と一定の距離を置くが、社会から完全に隔絶することなく、地理的にも都会と山奥の中間に住む。このような社会に片足を突っ込んだ状態を理想としている。
要するに清貧であり、知的であること、社会からは距離を取るが隔絶はしないというのが高等遊民の条件であるということだろう。
これらを踏まえた上で、現代の高等遊民になるためにはどうしたらいいかというと、まずは50歳までは老荘の思想で行動してはならず、若者は社会的なことを一応済ませなければならないという。それをしないで高等遊民となるのはただの逃避であると厳しい。そして50歳を過ぎたらいよいよ高等遊民として生きるのが良い生き方だと指摘する。しかし何故50歳であるのかは不明である。恐らく著者が現在の生活を始めたのが50歳だからだろう。
ただ、著者の考え方では20歳そこそこで高等遊民として生活を始めたソローは完全にアウトである。社会的なことを済まさないただの逃避である。そしてローマの政治家セネカの「50歳では遅すぎる」という考え方もまた著者の哲学とは相容れないものである。
最後に著者の現在の生活ということになるが、東京荻窪に自宅を持ち、そこから10分のマンションの最上階を借りているという。そこは駅から1分の好立地で近くにはコンビニ、飲食店等は一通りあり、大変「便利」あるようだ。まあ、荻窪という都会であれば当たり前であろう。そしてその富士山の見えるマンションの最上階で52インチの大画面でブルーレイで映画を観るのが楽しみだという『高等遊民』として生活している。
因みに本書でいう高等遊民とはあくまでも著者が考える高等遊民である。現在定義されている高等遊民とはだいぶ違うので誤解しない方が良い。著者は「高等遊民とはこうでなければならない」という感じで事細かく高等遊民の型を作るのであるが、これがまた何でも型にはめたがる日本的というかサラリーマン的である。本書中で物にこだわらない生き方、都会から距離を置くことの良さを強調しながらも、自身は都心のマンションの最上階でブルーレイで映画を観ながら生活するという著者の思想と行動のギャップもまた面白い。また前半と後半では主張が矛盾していたり、それ以外にも多くの細かい矛盾がある。これらを探すこともまた本書の楽しみである。
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