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DB601

01_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ60は太平洋戦争開戦前に開発された液冷重戦闘機で、三式戦闘機飛燕とは「姉妹機」に当たる。最高速度は560km/hを記録、運動性能も比較的良好であったが同時に開発されていた三式戦闘機飛燕が高性能を発揮したため試作機のみの製作となった。試作機は実戦部隊に配備されている。

 

重戦闘機 キ60 〜概要〜

 

性能

全幅 9.78m
全長 8.40m
全高 2.75m
自重 2,150kg
最大速度 560km/h(高度4,500m)
上昇力 5,000mまで6分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,100馬力
航続距離 - km
武装 20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門(3号機のみは12.7mm機関砲4門)
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1939年1月、液冷エンジン搭載航空機の製造にかけては日本では一日の長のある川崎航空機はドイツのダイムラー社との間で液冷エンジンDB601のライセンスを取得、このエンジンを使用する航空機の開発を計画した。

 

開発

02_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月、川崎航空機は陸軍に液冷エンジンを使用する重戦闘機と軽戦闘機の開発計画を提出、翌2月には、川崎は陸軍より重戦闘機キ60、軽戦闘機キ61(のちの三式戦闘機飛燕)の開発が指示された。川崎は、土井武夫技師を設計主務者として以前に不採用となったキ28試作戦闘機を元に開発を開始した。設計は12月に完了、1941年3月には1号機が完成、続いて2〜3号機も完成した。

 キ60は、極力空気抵抗を減らすように設計され、スライド式風防、短縮式内側引込脚、引込式尾輪等の新技術が取り込まれた。翼面荷重(機体重量を翼面積で割った数値)は172kg/屬氾時としてはかなり大きな数値であった。これは零戦、一式戦闘機隼が100kg/崛宛紂二式単戦鐘馗でも157kg/屬任△襪海箸鮃佑┐襪箸修旅發気判るであろう。つまりは「速度は速いが運動性能は低い」機体であった。

 飛行性能は、最大速度560km/h、5,000mまでの上昇時間が6分、実用上昇限度が10,000mであった。重戦闘機キ44(のちの二式単戦鐘馗)やドイツのBf109E(1941年に日本陸軍に3機輸入されている)と模擬空戦を行った比較した場合、性能は対等若しくは優位にあったが、同時に製作していたキ61(のちの三式戦闘機飛燕)が高性能を発揮したため試作機のみで生産は中止された。武装は1、2号機が胴体内に12.7mm機関砲2門、翼内に20mm機関砲2門を装備、3号機は胴体12.7mm機関砲2門、翼内に12.7mm機関砲2門である。

 

生産数

 3機のみ。2機は実戦部隊に配備された後に大破。1機は終戦時まで残存した。

 

戦歴

 試作のみで終わったキ60であるが、1号機と12.7mm機関砲4門を装備した3号機は独立飛行47戦隊に配備された。独立飛行47戦隊は開戦直前の1941年11月に編成された部隊で南方作戦で出現が予想されたスピットファイア戦闘機に対抗するために急遽、制式採用前のキ44(二式単戦鐘馗)増加試作機9機で編成された部隊である。愛称は「かわせみ部隊」または「新撰組」と呼ばれ、戦隊名の「47」は赤穂四十七士に因むと言われている。配備されたキ60はどちらも事故により破損、実戦には投入されていない。

 

まとめ

 

 キ60は川崎航空機が開発した重戦闘機であったが、当初の計画ではキ60を中間機と位置付け、キ60の性能をみた上で改めて本格的な重戦闘機の開発をするというものであった。このため当初から試験機的な性格が強かった戦闘機であった。

 

 

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01_研三
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ78高速研究機(研三)とは、陸軍が東大航研に依頼した高速実験機で製作は川崎航空機が行った。1939年に計画がスタートし、1943年12月には日本機最速の699.9km/hを記録した。この記録を超える機体は終戦まで登場しなかった。実験機は1機のみ製作され戦後進駐してきた米軍によってスクラップにされた。

 

キ78高速研究機(研三) 〜概要〜

 

 

性能

全幅 8.00m
全長 8.10m
全高 3.20m
自重 1,930kg
最大速度 699.9km/h(高度3,527m)
上昇力  -
上昇限度 8,000m(計画値)
エンジン出力 1,550馬力(DB601A改)1基
航続距離 600km(計画値)
乗員 1名
武装  -
爆装  -
設計・開発 山本峰雄 / 東京帝国大学航空研究所

 

開発

 1939年10月、陸軍航空技術研究所所長安田武雄中将は、速度世界記録樹立を目標とした速度研究機の開発を東京帝国大学航空研究所所長和田小六に依頼した。当時、世界では航空機の速度世界記録が頻繁に更新されており、日本もその競争に参加しようということであるのだが、いきなり世界記録を目指すことは様々な問題があり難しかった。このため第一段階で700km/h級の中間機を製作、第二弾で800〜850km/h級の記録機を製作するという方針が立てられた。

 当時、東大航研では「研二」と呼ばれる高高度研究機の開発を行っており、高速機の研究は「研三」として進められた。1940年1月には研三委員会が組織され、設計は山本峰雄所員が中心となり、製作は川崎航空機で行われることが決定、1942年12月に1号機が完成、12月26日に初飛行に成功した。

 機体は空気力学的に理想的と考えられる数値を探し出した結果、三式戦闘機飛燕に似たシルエットの風防と排気管、冷却器以外には突起物のない美しい流線形の胴体となった。主翼は桁に新たに開発されたSSDと呼ばれる超超ジュラルミンが採用、高速実験機であることから離着陸に支障のない程度に翼面荷重は高く設定された。このため翼面荷重は220kg/屬販軅錣簇擦2倍に達する高翼面荷重の機体となった。それにしても降着速度はあまりにも高速で脚を損傷する可能性があるため着陸はエンジンを徐々に絞って着陸する推力着陸という手法が採用された。

 風防は重量軽減のため脱着式を採用、搭乗員が乗り込んだ後、機体にネジで固定された。エンジンはメッサーシュミットBf109に採用されたDB601エンジンの改良型で、エンジンの回転数増加、メタノール噴射等の改良を施すことで馬力が1,175馬力から1,550馬力に強化されていた。プロペラは直径2.85m3翅のラチエ電気可変ピッチ式プロペラである。

 研三は小改良を加えながら飛行試験を続け、1943年12月27日の第31回飛行試験では最高速度699.9km/hを記録した。これは当時の日本航空機の最速記録であり、終戦までこの記録を上回る機体は登場しなかった。当初の計画にあった2号機は戦局の悪化のため中止となっている。

 

生産数

 実験機が1機のみ。戦後米軍の手によってブルドーザーでスクラップにされた。

 

まとめ

 

 研三とは日本の航空機の限界に挑戦した実験機であった。もしかするとオクタン価の高い燃料を使用すればさらに高記録を発揮したのかもしれないが、戦後は飛行することなく米軍の手によって破壊されてしまう。日本航空機技術者が世界に挑戦しようとした記念碑的な航空機である。

 

 

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