01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 仲道渉飛曹長とは丙飛4期という戦中に不十分訓練しか受けられなかった世代の搭乗員で未熟な状態で激烈な航空戦が展開されているラバウルに送りこまれた。そして無事生還しただけでなく、20機もの撃墜を報告した稀有な搭乗員である。

 

仲道渉飛曹長の経歴

 

概要

 大正11年大阪に生まれる。昭和15年呉海兵団に入団。昭和16年5月土浦空に入隊して、同年7月丙4期予科練を卒業後、霞ヶ浦空、大分空で操縦教育を受けた。昭和17年7月21期飛練課程を修了、12月隼鷹乗組を命じられた。昭和18年夏に204空へ異動、ブイン基地に進出、激烈なラバウル航空戦に参加する。昭和19年3月内地に帰還。11月より721空(神雷部隊)戦闘機隊に属し、神雷特攻隊の直援に当った。

 近年、彼我の文献から客観的な戦果を割り出そうという研究が梅本弘氏等によって行われているが、梅本氏によると仲道飛曹長が撃墜を報告している日に間違いなく米軍が該当の機種を失っているケースが12件あったそうだ。むろん他の搭乗員も撃墜を報告しているが仲道飛曹長は客観的に見極めて戦果を報告しているという(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。

 

丙飛4期

 仲道渉飛曹長は丙飛4期出身の戦中派パイロットである。丙飛とは丙種予科練習生の略で他に甲種、乙種があった。甲乙は外部からの受験で採用されるが丙種は下士官兵から内部選抜により採用されるコースだ。以前は操縦練習生と呼ばれていたが予科練に一本化された結果丙種と呼ばれることとなった。

 丙飛4期は太平洋戦争開戦後に実戦に投入され、主に太平洋戦争中期から活躍したクラスだ。同期には中盤のラバウル航空戦で活躍した大原亮治飛曹長、中沢政一一飛曹等がいた。すでに操練(操縦練習生)後半からは以前のような十分な訓練を受けたとは言えない状態で連合国軍の反抗が始まった戦場に送り込まれたために多くの犠牲者を出した。

 

母艦戦闘機隊

 基本的に搭乗員の中で母艦搭乗員に選抜されるのは優秀な搭乗員であったと言われている。仲道も練習生修了時点でやはり才能のようなものがあったのだろう空母隼鷹乗組を命ぜられたが、昭和18年夏にラバウルに展開する204空に配属される。  昭和18年9月14日にB-24協同撃墜したのを皮切りに翌年1月23日にまでに20機(不確実、協同含む)を撃墜した。

 

正確な撃墜判定

 日米双方には多撃墜エースと呼ばれているパイロットが多数いるが意図的ではないにしろ戦果が過大に報告されているケースが多い。5倍から多い時は10倍以上に実数と戦果が異なる場合がある。当然、エースの撃墜数も実際の数でない可能性が高いのだ。これは世界のエースに対して同様のことがいえる。  しかし、梅本氏によると仲道一飛曹は、協同撃墜の場合、搭乗員の多くが自分の単独撃墜を主張するのに対して仲道氏は、自身の成果は共同撃墜であったと報告しており、戦闘状況をよく見極めて判断しているという。

仲道一飛曹の報告している撃墜数は20機である。この謙虚な性格の仲道一飛曹の性格からすると12機以外にも実際に撃墜している可能性は高い。少なくとも実際に成果が確認された上での「ダブルエース」である。ラバウルから生還した後には、有名な人間爆弾桜花を擁する721空戦闘機隊に配属され終戦を迎える。

 

仲道渉飛曹長関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。
梅本弘 著
大日本絵画 (2013/12/10)

 日本・連合国軍の資料を突き合わせて実際の空戦の模様を描き出そうとしている力作。仲道渉飛曹長はP98から登場する。熾烈なラバウル航空戦の様子を高い精度で知ることが出来る貴重な本。

 

まとめ

 

 母艦戦闘機隊に配属された仲道一飛曹は、元々搭乗員としてのセンスは良かったのだろう。しかし、戦前の搭乗員のように十分な訓練を受けられず、戦場に送り込まれた。しかもその戦場は戦争中期の最も激烈であったラバウルである。この条件の中で無事生還しただけでなく、多撃墜を記録したというのは驚異的である。

 

 

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