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582空

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 石原進は甲飛3期出身で総撃墜数は16機とも30機ともいわれている。日中戦争、太平洋戦争に参加して戦後は航空自衛隊のパイロットとなったが事故により殉職した

 

石原進の経歴

 

概要

 1921年愛知県生まれ。1938年10月甲飛3期生として予科練に入隊。1940年4月飛練1期入学。1941年4月飛練課程を卒業。1空に配属、中国戦線に参加。1941年10月台南空配属。東南アジア方面の航空撃滅戦に参加する。1942年4月帰国。徳島空教員となる。1943年6月582空に配属。ラバウルに進出する。まもなく204空に異動。同年12月202空に異動。1944年3月202空は22航戦に編入され、トラックに移動、石原は激烈な中部太平洋の戦闘をくぐり抜けていった。同年7月、202空の解散により呉空に転じて本土へ帰還する。以降、終戦まで332空で終戦まで活躍した。

 

1921年生まれの撃墜王

 石原は1921年生まれである。この1921年生まれには撃墜王が多い。太平洋戦争開戦時には20歳で終戦時は25歳というパイロットとしては若干若くはあるが、時代が20歳の若者を熟練搭乗員に育て上げたといっていい。同年のエースとしては、32機撃墜の杉野計雄(32機撃墜)、島川正明(8機撃墜)、大野竹好(8機撃墜)、神田佐治(9機撃墜)、国分武一(14機撃墜)、関谷喜芳(11機撃墜)、佐々木原正夫(12機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、大原亮治(16機撃墜)、伊藤清(23機撃墜)、増山正男(17機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、白浜芳次郎(11機撃墜)、菅野直(25機撃墜)、堀光雄(10機撃墜)等、エースだらけである。

 ただ、年齢は同じでも出身によって実戦経験の長さは異なる。1921年生まれは海兵では69期、70期、甲飛では3期、4期、乙飛では9期、10期、操練・丙飛では2期が一番多い。石原は1921年生まれで実戦に参加したもっとも早いクラスであろう。石原以外のほとんどのエースは太平洋戦争が初めての実戦であったが、石原は飛練卒業と共に4月10日に新編された第1航空隊に配属となり中国に進出した。しかし空戦の機会はなかったようで、初陣は太平洋戦争初期の航空撃滅戦である。

 

ラバウル航空戦に参加

 開戦時は台南空に所属し、航空撃滅戦を展開する。台南空は4月にラバウルに進出するが、石原はここで内地帰還組となる。内地帰還後は徳島空で教員となるが、582空付に発令され、石原も1年遅れでラバウル航空戦に参加することになる。以降、204空に異動しつつもラバウル航空戦で活躍した。1943年12月、204空から南西方面の202空への転属となった。

 この202空とはポートダーウィン空襲を行った3空が1942年11月の改変で名称変更されたものであり、この時期に至っても高い練度を維持し解隊するまで無敗だったといわれる海軍航空隊でも稀有な航空隊であった。以降、202空隊員として後期の中部太平洋地域での戦闘に参加した。この202空は、のちに戦闘301飛行隊と戦闘603飛行隊に別れるが、石原は301飛行隊に所属していたようだ。

 

332空配属、そして戦後

 その後、1944年7月、本土に戻り呉防空の局地戦闘機部隊332空に配属され、局地戦闘機雷電で以て本土防空戦に活躍した。戦後は航空自衛隊に入隊し再びパイロットとしての道を歩むが事故により殉職する。撃墜数は30機ともいわれる。公式記録では16機が確認できるようだ。

 

 

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 長野喜一は戦闘機搭乗員の操練最後の期である56期出身で総撃墜数は20機以上ともいわれる搭乗員である。開戦時にはまだ10代という非常に若いパイロットであったが、激烈なラバウル航空戦に参加、幾度も死線をくぐり抜けていった。戦争後期には台湾沖航空戦、比島航空戦に参加するが比島において空戦中に戦死する。

 

長野喜一の経歴

 

概要

 1922年静岡県生まれ。1939年6月海軍に入団。1941年7月56期操練を卒業。10月千歳空に配属され、開戦を迎えた。1942年6月2空に異動。内地帰還。8月ラバウルに進出。1943年7月厚木空、ついで203空戦闘304飛行隊に異動。1944年4月北千島に進出、防空任務に就く。捷号作戦、台湾沖航空戦、比島航空戦に活躍したが、11月6日バンバン上空で戦死。

 

操縦練習生とは

 長野が修了した操練56期とは冒頭にも書いたが戦闘機搭乗員最後の操練であり、以降の戦闘機搭乗員養成は予科練に統合される。ここで予科練について説明しておこう。予科練とは海軍飛行予科練習生の略称で1930年に成立した搭乗員養成課程であった。応募資格は高等小学校卒業程度の学力を有する14歳〜20歳までのむろん男性だ。

 当時の学制が分らないと予科練の制度は理解できない。当時は義務教育として尋常小学校があった。これは現在と同じで6歳から12歳まで教育を受ける。その後、進学する者は2年間の高等小学校、若しくは5年間の中等学校に通う。予科練は高等小学校卒業程度の学力が必要であった。 1937年に新たに旧制中学校4年生以上の者を対象に甲種予科練制度が発足する。これによりそれまでの予科練は乙種予科練となる。さらに1940年、海軍の部内選抜である操縦練習生も予科練に統合されて丙種予科練となる。因みにこの甲乙丙というのは学歴基準の序列であり乙、丙種予科練出身者にわだかまりを残すこととなった。

 

操練同期とラバウルの死闘

 長野喜一に戻ろう。長野は最後の操練56期を修了した。同期には台南空の撃墜王吉村啓作(12機撃墜)、河西春男(11機撃墜)、さらに水上機から陸上機に転科したエース、ジェロニモこと甲木清実(16機撃墜)、艦隊戦闘機隊のエース白浜芳次郎(11機撃墜)がいる。

 長野は操練終了後、千歳空に配属される。千歳空は内南洋防衛の陸攻、艦戦の混成部隊である。この方面ではほとんど戦闘は無く、哨戒と訓練に日々勤しんでいた。しかし、1942年1月にラバウル占領と共に千歳空派遣隊として一部がラバウル進出。さらに5月にも一部部隊がラバウルに派遣されている。

 長野はこれら2度にわたるラバウル派遣隊に参加することはなく、6月には、同年兵の山本留蔵とともに艦戦、艦爆の混成部隊である2空(のちの582空)隊員として内地に帰還する。しかしこの2空も2ヶ月後の8月にはラバウルに進出する。長野も2空搭乗員としてラバウル進出する。この2空の戦闘については同時期に2空に在籍した角田和男の著書『零戦特攻』に詳しい。1年に及ぶ激烈なラバウル航空戦を生き抜いた。この間の撃墜数は582空一だったという。

 

厚木航空隊(203空)配属以降

1943年7月、1年振りに内地に帰還、厚木航空隊に配属される。厚木航空隊は、のちに首都防空のエース部隊として活躍するが、この時点では艦隊搭乗員の錬成部隊であったので、恐らく教員配置であろう。厚木航空隊は1944年2月20日に203空と改称される。203空は本隊と木更津の派遣隊に別れるが、長野は本隊に所属した。因みに木更津派遣隊は3月14日、302空に編入される。長野は203空隊員として北千島に進出。北方の防空任務に就いた。この時期、203空には、開戦以来、共に転勤をしてきた山本留蔵、さらには、当初、長野と同じ千歳空に所属していた西澤廣義飛曹長もいた。この時期、203空は戦闘303、304飛行隊の2個飛行隊に別れるが、長野が所属した戦闘304飛行隊の隊長はのちに343空で活躍する鴛渕孝大尉であった。

 長野はその後、203空と共に九州に移動するが、6月には北千島で開戦以来、同じ部隊で過ごしてきた同年兵の山本留蔵上飛曹が戦死している。九州に移動した長野は、10月には台湾沖航空戦に参加する。長野も戦闘304飛行隊隊員として九州出水基地から沖縄に進出。敵機動部隊攻撃に加わった。台湾沖航空戦ののち203空は、比島に展開。米機動部隊と熾烈な航空戦を展開する。長野も多くの空戦に参加するが、1944年11月6日バンバン上空で戦死する。

 

まとめ

 

 長野喜一は太平洋戦争の開戦をマーシャル諸島で迎える。それまでに実戦経験はない太平洋戦争で初めて実戦を経験した搭乗員である。開戦後、しらばくしてラバウルに送られ多くの激戦を生き抜いた。「死ななきゃ内地に帰れない」と言われれたラバウル航空戦を1年近くも戦い抜き生還したのだが、その長野も激戦のフィリピンで戦死する。当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員の最期であった。

 

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