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381空

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

上平啓州中尉の経歴

 

  1920年横浜市に生まれる。1937年9月甲飛1期として予科練入隊、1939年6月卒業した。その後大分空、大村空、横空を経て、1940年8月12空に配属され、漢口基地に進出した。1941年10月には新編の台南空に転じ、比島、蘭印航空戦に参加したのち1942年4月新設の6空に異動、7月に大分空に移った。1943年4月飛曹長に進級、10月381空に転属、戦争後半まで戦い続けるが、負傷して本土へ帰還、特攻隊の教官で終戦を迎えた。1960年海上保安庁のヘリコプターを操縦中、函館で墜死した。

 

上平啓州中尉と甲種予科練

 

 上平啓州中尉が採用された甲種予科練とは、1937年5月18日に創設された予科練の新しい課程で、受験資格は中学校4年生第1学期終了程度の15歳から17歳未満(つまりは15、16歳のみ)の男子から選抜された。これによってそれまでの予科練は乙種予科練と称されるようになった。後から創設された制度が「甲」となり当初からあった制度が「乙」となったのは受験資格にある。

 当初の予科練の受験資格は「高等小学校卒業程度」であったが、新たに創設された甲種は「上述のように「中学校卒業程度」であった。このため相対的に高学歴者を採用した新設制度が「甲種」と呼ばれたのである。しかし実際、乙種出身者のほとんどは中学校卒業していたため後々軋轢を生むこととなる。

 それはともかく上平中尉はその甲種予科練の第一期生であった。採用人数は250名で、戦闘機専修の同期にはトラック島空襲で戦死する前田英夫飛曹長、竹中義彦中尉、松田二郎中尉がいる他、戦闘機以外でも「B-29撃墜王」として有名な遠藤幸男大尉もいる。

 予科練を修了した上平中尉は、大分空、大村空で訓練を受けたのち、海軍航空の殿堂と言われる横須賀航空隊に配属された。1940年には12空に配属、初めての戦地に向かった。太平洋戦争開戦直前の1941年10月には新編の台南空に異動、開戦初期の比島・蘭印航空戦に活躍する。

 1942年4月、台南空が25航戦に編入された際、上平中尉は内地帰還組となった。内地帰還後は6空に異動、ミッドウェー海戦にはミッドウェー島占領後の「ミッドウェー航空隊」の要員として空母隼鷹に乗艦していたが、ミッドウェー海戦で日本側が敗北したことにより内地に帰還する。1943年10月には新編の381空に配属、セレベス島ケンダリー基地に進出した。以降、負傷して内地に帰還するまでバリクパパン油田防空戦等に活躍する。本土帰還後は教員としえ終戦を迎えた。

 

まとめ

 

 予科練習生は15、16歳の若年者から採用したため操練等に比べて比較的年齢が若い。甲飛1期ですら太平洋戦争開戦時には年齢は21歳前後であり、終戦時でも25歳前後であった。しかし戦前に十分な訓練を受け、多くは日中戦争で実戦経験を経ているため太平洋戦争開戦時には中堅下士官として力を発揮した。他のクラスの例に漏れず戦死者も多く、戦闘機専修者では約70%が戦死している。

 

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01_強風
(画像はwikipediaより転載)

 

 甲木清実飛曹長は零式水上観測機(零観)乗りとして太平洋戦争開戦を迎えた搭乗員であった。本来、敵機撃墜を主目的としない零観で開戦1ヶ月目にして飛行艇撃墜、さらには零戦でも撃墜困難といわれたB17を零観で単独撃墜した猛者である。

 

甲木清実飛曹長の経歴

 

略歴

 大正8年4月10日福岡県生まれ。昭和13年6月佐世保海兵団入団。昭和16年5月第54期操縦練習生を修了。鹿島、館山、博多航空隊勤務の後、水上機母艦千歳乗組で開戦を迎える。昭和17年1月に飛行艇を撃墜して初戦果を記録。9月R方面部隊に編入されショートランド島進出。内地帰還後水上戦闘機に機種転換。昭和18年7月、占守島に展開する452空配属される。昭和18年10月、横須賀空で水上戦闘機強風への機種転換教育を受け、934空に配属。昭和19年には零戦への機種転換教育を受けた後、381空に配属。バリクパパン油田防空戦に活躍する。昭和20年2月、内地に帰還、大村航空隊、332空、352空に所属、終戦まで防空任務についた。

 

零式水上観測機でB17を単独撃墜

 甲木清実は数少ない水上機搭乗員でのエースである。水偵搭乗員として水上機母艦千歳乗組の時、オランダ軍第17観測飛行隊の飛行艇を撃墜して初戦果を記録する(この撃墜は米国戦史研究家によって確認されている)。飛行艇とはいえ水上機での撃墜は至難の業であっただろう。この時点での甲木兵曹の乗機は零式水上観測機である。

 昭和17年9月にはR方面部隊に編入されショートランド島に進出する。R方面部隊とは水上機母艦千歳、神川丸、山陽丸で編成される第11戦隊の艦載機で編成された部隊で同地の航空機不足を補った部隊だ。R方面部隊に編入された甲木兵曹は10月4日、来襲した第17爆撃隊所属B17E爆撃機の主翼を自身の零観の主翼で切断した後、尾翼を切断して撃墜した(この撃墜も戦後確認されている)。この戦果により水上機母艦千歳艦長より感状を受けている。

 

水戦強風での初撃墜から陸上機に機種変換

 内地帰還後、横須賀航空隊にて水上戦闘機転換訓練を受けた後、水上戦闘機隊の452空付となり北千島占守島に進出、防空任務にあたる。基地凍結により潜水艦で脱出、横須賀航空隊で水上戦闘機強風の錬成訓練の後、934空に着任する。昭和19年1月、B24を撃墜して強風での初戦果を挙げる。その後、零戦への転換教育を受け、381空に転じた。バリクパパン油田防空戦を始め迎撃戦を戦った。昭和20年2月、本土に帰還、大村航空隊、332空、352空に所属し防空任務に活躍しつつ終戦を迎えた。総撃墜数は16機といわれ、その内7機が水上機によるものである。

 

甲木清実飛曹長関係書籍

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。甲木清実飛曹長の経歴が詳しく書いてある。連合国軍の資料から撃墜の確認を行っているなど興味深い。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、甲木清実飛曹長始め同じく水上機のエース河村一郎飛曹長やその他戦闘機以外の搭乗員の経歴についても独自に調査している。コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。

 

まとめ

 

 甲木飛曹長は数少ない水上戦闘機の撃墜王である。度々機種変換訓練を受け、搭乗した航空機は零式観測機、二式水戦、強風、零戦、雷電と多彩だ。水上機乗りは陸上機に転換できるが逆は出来ないといわれるが、正に甲木飛曹長の経歴そのものだといえる。甲木飛曹長の戦果で特徴的なのは大型機が多いということだろう。観測機で空の要塞を単独撃墜するという偉業も成し遂げている闘志あふれる搭乗員であった。

 

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