トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

253空

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

酒井等飛曹長の略歴

 

 1941年10月、甲種予科練9期生として採用、1943年1月には飛練30期に進み、大分空で戦闘機の延長教育を受けた。同年11月から2ヶ月間、厚木空で零戦の搭乗訓練を受けた後、ラバウルに展開する253空に派遣された。その後204空に異動した後、内地に帰還、352空に配属された。

 

知られざる撃墜13機のエース

 

 酒井飛曹長は甲種予科練9期の出身である。甲種予科練とは搭乗員の不足が問題視されたために1937年5月に新設された制度でそれまでの予科練の応募資格が高等小学校卒または中学2年を修了した15歳から17歳までの男子であったのに対して、甲種は16歳から19歳までの中学校3年半以上修了であった。この制度の成立によってそれまでの予科練は乙種と呼ばれることとなった。

 甲種は、中学校で1年以上余計に勉強しているため予科練の訓練課程が乙種よりも短く、乙種が2年半であった教育期間は甲種では1年半であり、昇進も乙種に比べて早かった。しかし乙種の合格者の多くは中学校2年以上を修了しており、実質的な学力は同等であったことや「乙」という名称を与えられたこと、戦後の学歴認定でも不利があったこと等から甲乙間の対立の原因ともなった。

 この甲種はのちに大量の特攻要員を送り出すことになるのだが、酒井飛曹長が採用された甲種9期はのちの13期等に比べればまだまだ「少数精鋭」の時代であった。戦闘機専修の同期は81名(酒井飛曹長の記憶では60名)で半数が母艦航空隊、半数が基地航空隊に振り分けられたという。半数が母艦というのはかなり特異に感じられるが、1943年秋という時期は、い号作戦、ろ号作戦で多くの母艦搭乗員を失っており、母艦戦力の拡充が重要視されたのであろう。

 酒井飛曹長は基地組の組長として同期を統率、大分空で九六艦戦での延長教育を修了後、零戦搭乗の訓練を受けるために厚木空に配属された。この厚木空とはのちの302空とは異なる練習航空隊で1943年4月に編成、のちに203空となった部隊である。ここで2ヶ月間零戦の搭乗訓練を受けた酒井飛曹長は何とそのまま激戦地ラバウルに送られることとなった。

 酒井飛曹長が配属された部隊は253空で1942年9月以来ラバウルに展開するベテラン部隊である。酒井飛曹長が配属された1943年暮れという時期はラバウル航空戦も末期となり、海軍航空隊はほぼ防戦一方になっていた時期で、岩本徹三中尉、小町定飛曹長等が活躍していた時期でもある。

 このような激戦地に訓練を終えたばかりの酒井飛曹長以下10数名が着任するが、253空がラバウルからトラック島に後退、連日の空戦を続ける中で生き残った同期は酒井飛曹長含め、わずか4名となってしまった。しかしこの4名の内2名もその後の戦闘で戦死しており終戦を迎えることが出来たのは2名のみであった。この激戦地から生き残ることができた酒井飛曹長は253空と同じくトラック島に後退した204空に異動、さらに佐世保の352空付として内地に帰還した。

 352空とは1944年8月に編成された防空を主任務とする部隊で主に佐世保等の防空を管轄していた部隊であった。352空に配属された酒井飛曹長は本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。総撃墜数13機といわれている。

 

酒井等飛曹長の関係書籍

 

ああ”予科練”―甲種飛行予科練習生の記録

福本 和也 著
講談社 (1967/1/1)

 甲種予科練の記録で三部から成り、第一部が予科練の歴史、第二部が予科練の生活、第三部が甲種予科練出身者の手記である。この手記には甲飛2期から14期までの多彩な元搭乗員が寄稿している。ほとんど世間では知られていない撃墜王である酒井等氏が寄稿しているのも魅力。

 

まとめ

 

 甲飛9期の戦闘機専修者は81名(酒井等氏の記憶では60名)で終戦まで生き残った隊員はわずか21名であった(『海軍戦闘機隊史』より)。訓練終了時には戦局はすでに劣勢になっており、そのまま最前線に送られた隊員も多い。そのため1944年の一年間で戦死者60名中44名の隊員が戦死している。生き残った隊員の中には紫電改で編成された防空戦闘機隊343空に配属された隊員も多い。命がけで得た技術や経験が本土防空戦に必要とされたのだろう。

 

 

 


ミリタリーランキング

01_零戦22型

 

 川戸正治郎上飛曹は1926年生まれ。太平洋戦争中盤から実戦に参加した戦中派パイロットである。配属された時点では飛行時間は300時間程度であったが、持ち前の敢闘精神を発揮して最終的には19機もの敵機を撃墜した名パイロットである。

 

川戸正治郎上飛曹の経歴

 

略歴

 1926年京都府生まれ。1942年5月舞鶴海兵団入団。丙12期予科練に採用される。1943年7月28期飛練修了。10月10日ラバウルに展開する253空に着任した。1944年2月20日にはラバウルに展開する戦闘機隊はトラック島に撤退するが、川戸上飛兵はラバウルに残留。「ラバウル製零戦」で戦闘を続ける。1944年7月、253空解隊により105空付。1945年3月9日、連合国軍駆逐艦の対空砲火によって被撃墜。ジャングルで生活中に捕虜となり、1945年12月帰還した。

 

わずか18歳でラバウル航空戦の洗礼を受ける

 川戸一飛兵がラバウルに着任した時は飛行時間300時間のわずか18歳の若者であった。普通、当時の戦闘機搭乗員は1000時間前後の飛行時間で一人前と言われていたようなので300時間というのは余りにも少ない。そして派遣された先は最大の激戦地ラバウルであった。

 しかし川戸一飛兵は相当負けず嫌いだったようで、果敢な戦闘により戦果を挙げていく。正に戦闘機向きの性格であったようで体当たり攻撃も数回に及んだ。味方艦艇に救助された際、「大丈夫か?」との問いに対して「慣れてますから」とあくまでも負けず嫌いの性格であった。

 

本隊撤退後もラバウル残留

 1944年2月20日には岩本徹三、小町定等の歴戦の搭乗員達はトラック島に後退するが、川戸上飛兵はラバウルに残留した。これは負傷していたのが原因かもしれない。残留者には予科練7期のベテラン福本繁夫飛曹長もいる。  ラバウルに残留した川戸上飛兵はゲリラ的な戦闘を継続するが、1945年3月9日、敵駆逐艦を発見、攻撃中に対空砲火により被弾し撃墜され、しばらくジャングルで生活していたが豪州軍の捕虜となり戦後内地に帰還した。

 

2月6日の体当たり

 上記の体当たりの内、1944年2月6日のB-24への体当たりに関しては、岩本徹三の記録に「何中隊の何番機か、味方の一機は、あまり急角度で攻撃をかけたので、そのまま敵機の主翼にぶつかり、瞬時に空中分解してジャングルの中に散っていった。」(岩本徹三『零戦撃墜王』)との記載があり、日付が異なっているが梅本氏はこの「味方の一機」を川戸機と推測している(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。それはそれとして、今回は何と、川戸上飛曹のインタビューがyoutubeに上がっている。

 

 

戦後の川戸氏

 川戸氏は戦後、航空自衛隊で再びパイロットとなるが、1976年小型セスナで太平洋を横断、35時間かけてアメリカに到着する。その後アメリカに定住したようだ。2001年11月17日大腸がんにより死去。享年76歳であった。

 

川戸問題

 概略は上記の通りである。川戸上飛曹はいわゆる「川戸問題」で戦史ファンには有名だ。この「川戸問題」とは何かというと、アメリカ海兵隊の撃墜28機のエース、ボイントンを撃墜したのは川戸上飛曹か否かということで日米双方の関係者、研究者の間で大騒ぎとなった論争であった。  細かいことは秦郁彦『第二次大戦航空史話』〈下〉に詳しいがここでは触れない。

 この川戸上飛曹、秦氏の本によるとアメリカではかなりネガティブな印象を持たれているようだ。これらの原因の一つは、どうも予科練の後輩の一人がネガティブな情報を広めたもののようだ。秦氏の本にある元零戦搭乗員が川戸上飛曹の悪口(?)を言っていたというのもその後輩の一人の仕業だという。この川戸上飛曹、誤解を受けやすい性格であるが、元ベテランパイロット曰く、腕は良く、男の中の男だそうだ。

 余談になるが、この川戸上飛曹が撃墜したとされるボイントンも『海兵隊コルセア空戦記』という自伝を上梓している。零戦隊と戦った側の記録として価値がある。ボイントン大佐は撃墜され日本軍の捕虜となるが、その時の日本人を「戦場から遠くなるほど攻撃的」というように観察している。

 

川戸正治郎上飛曹関係書籍

 

川戸正治郎 体当たり空戦記―ラバウルの空に18歳の青春を賭けた痛快空戦記

 川戸正治郎氏の自著。今では若干入手困難となっているが、海軍入隊から戦時中のことが詳しく書いてある貴重な本。

 

太平洋戦争ドキュメンタリー〈第3巻〉炎の翼 (1968年)

関根精次ほか 著
今日の話題社 (1968)

 戦後しばらくして出された川戸氏の手記『零戦ラバウルに在り』

 

伝承 零戦空戦記〈2〉ソロモンから天王山の闘いまで (光人社NF文庫)

 本書中に川戸氏の手記「私が経験した”真昼の決闘”」が収録されている。その他の手記も零戦のパイロット達の記録なのでおすすめ。

 

まとめ

 

 川戸正治郎上飛曹は太平洋戦争のさなか、満足な訓練も受けずにラバウルに派遣された。しかし持前の敢闘精神で戦果を重ね、最終的には19機を撃墜した。その19機の中には米海兵隊の撃墜王ボイントンも含まれていると言われているが真相は誰にも分からない。しかし戦後も安定した公務員の地位に満足せずセスナで太平洋を横断したあくまでもアクティブな男であった。

 

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

高橋健一飛曹長の略歴

 

 1924年5月5日長野県に生まれる。1940年乙13期予科練入隊。1943年3月飛練26期を修了。名古屋空で延長教育を受け、厚木空に配属。9月末204空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月末204空がトラック島へ後退したため253空へ異動、引き続きラバウル航空戦に活躍した。2月中旬253空とともにトラックへ後退。1944年6月、潜水艦で本土へ帰還。7月には戦闘308飛行隊に配属。221空に編入され、10月には捷号作戦に参加。比島で連日の空戦に活躍した。1945年1月内地に帰還、筑波空の教員として終戦を迎えた。

 

地獄のラバウルから生還

 

 高橋健一は乙飛13期出身で同期の戦闘機専修者は49名で同期には柴山積善飛曹長がいる。終戦までに38名が戦死、11名が終戦を迎えることができた。死亡率71%である。高橋飛曹長は1940年6月に予科練に入隊、1942年4月に修了している。予科練は当初は3年間であったが、戦局の悪化から短縮され、高橋飛曹長の期では2年に短縮されていた。

 4月に予科練を修了、5月からは飛練26期に進んだ。このクラスは丙飛10期と合同で行われており、「トッカン兵曹」として有名な小高登貫上飛曹も共に訓練を受けていた。ここで基礎的な操縦を学んだ高橋飛曹長は、名古屋空で延長教育を受け、厚木空に配属、さらに数ヶ月後にはラバウルに展開する204空へと配属された。厚木空は1943年4月に開隊した艦隊搭乗員の錬成部隊なので当初は艦隊搭乗員として採用されていた可能性もある(前述の小高上飛曹も艦隊搭乗員として訓練を受けた後、202空に配属されている)。

 1943年9月末、「搭乗員の墓場」ラバウルに送り込まれ、連日の航空戦に活躍する。この時期のラバウル航空戦では日本軍はすでに守勢にまわっており少数の兵力で米軍の大兵力を相手にしていた。訓練を終えて間もない高橋二飛曹を含む乙飛13期の隊員たちはわずか3ヶ月で6名が戦死している。この中で高橋二飛曹は連日の航空戦に活躍した。12月17日には荻谷信男上飛曹の3番機として出撃、P39エアコブラ1機撃墜を報告したが、この日撃墜されたP39はない。

 1944年1月末には204空がトラック島に後退したため、高橋飛曹長は同じくラバウルに展開する253空に転入、2月中旬まで連日の空戦に参加したが、253空もトラック島に後退に伴い、高橋一飛曹もトラック島に後退した。6月19日の米機動部隊のサイパン攻撃に対抗するため253空も零戦隊をサイパンに向かわせた。この時、高橋一飛曹は指揮官岡本晴年少佐の2番機として参加するが、グアム島着陸寸前に敵機の攻撃を受けた。辛うじて着陸、生還した。

 生還した高橋一飛曹は陸攻でトラックに戻り、そこから潜水艦で内地に帰還した。7月、221空戦闘308飛行隊に配属、10月には捷号作戦参加のために比島に進出、連日の空戦に参加、1945年1月には内地に帰還して筑波空教員として終戦を迎えた。総撃墜機数は14機といわれている。

 

高橋健一飛曹長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記2: 昭和18年8月-11月、ブイン防空戦と、前期ラバウル防空戦

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中2巻では1943年8月から11月までのラバウル航空戦を描く。

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』

川崎浹 著
トランスビュー 2003/8/15

 高橋飛曹長と同じ時期に同じ部隊で戦った小町定飛曹長へのインタビュー本で、単独インタビュー形式で小町氏の戦中戦後の経験が描かれている。小町氏はラバウル航空戦当時、若手搭乗員に分類される方であったが、部下からの人気は高く、列機の位置を巡って部下同士が喧嘩になったこともあったという人望のある人物で、この小町氏の経験と魅力を著者の川崎氏は上手に引き出すことに成功している。

 戦後のパイロットの自著や手記によって撃墜50機、60機撃墜等、多くの撃墜数を自称しているパイロットに関してほとんどは部隊の戦果を自分の戦果と混同してしまっているという指摘などは実際に戦った元搭乗員の指摘としては非常に説得的である。

 

まとめ

 

 高橋飛曹長は1924年生まれ、激戦のラバウルに派遣された時はまだ19歳であった。この時期にはすでに搭乗員が不足しており、高橋飛曹長ら訓練が終わったばかりの若年搭乗員すらも最前線のラバウルに投入される状態であった。このため乙13期の隊員はわずか半年の間に13名がラバウルで戦死している。その後も中部太平洋、ボルネオ島、比島と激戦地で戦い続け、1944年1年間の間にさらに20名の同期が戦死している。さらに沖縄航空戦、本土防空戦でも3名が戦死。その他戦死、事故死を含め、結局、終戦を迎えられたのは49名中11名のみであった。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

渋川茂飛曹長の略歴

 

 1923年8月12日大阪府生まれ。1940年海軍に入団。丙飛6期に採用され航空兵となる。1942年9月23期飛練を卒業。同年12月253空に配属。1943年はじめカビエンに進出。1943年5月サイパンに後退。9月上旬再度ラバウルに進出した。11月1日トロキナ岬艦船攻撃にて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。回復後、筑波空に配属され終戦を迎えた。

 

死亡率91%。壮絶な丙飛6期

 

 渋川飛曹長は丙飛6期出身、丙飛6期は1941年8月から訓練を開始、太平洋戦争開戦後の1942年9月に飛練を終えたクラスであった。大量育成であり、十分な訓練を受けたとは言い難いクラスではあったが、多くが「搭乗員の墓場」といわれた南東方面(ソロモン・ラバウル等)に送られた。丙飛6期の戦闘機専修者は66名で内、多くの隊員が1943年初頭頃から前線に出ていったが、1943年の1年間だけで38名が戦死しており、その内、判明しているだけで23名が南東方面である。

 1943年を生き抜いた28名も1944年の内に15名が戦死、1945年8月までに残った13名の内7名が戦死している。結局、終戦を無事に迎えることができたのは66名中わずか6名であった。戦死率91%、生存率はわずか9%という壮絶なクラスであった。

 渋川飛曹長も飛練修了数ヶ月後には南東方面に展開する253空に配属、1943年初頭にはニューアイルランド島北端のカビエンに進出、ソロモン・ニューギニア方面の航空戦に参加した。1943年5月には一時サイパンに後退、休養したのち、9月上旬には再度ラバウルに進出した。進出後も連日のように航空戦に参加したが、11月1日の第二次トロキナ岬艦船攻撃に艦爆7機の直掩として高沢謙吉中尉式の零戦42機(253空は13機)の一員として出動、後方から射たれて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。内地帰還後は筑波空で教員配置ののち終戦を迎えた。総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 丙飛6期の死亡率の高さは驚愕であるが、この時期の前後のクラスも同様の高い死亡率である。日本機、特に海軍機は防弾性能を軽視しており、さらには救助体制も連合軍程積極的ではないため、空戦で撃墜されると戦死してしまうことが多かった。さらに人材の不足から一度前線に出ると出ずっぱりとなることが多く、空戦経験が豊富になると今度は重宝されてしまい、結局「死ななきゃ内地には帰れない」状態となってしまった。このため育成に10年はかかると言われている貴重な搭乗員を多く失っていった。この中を渋川飛曹長は生き残り終戦を迎えることとなる。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

荻谷信男
(画像はwikipediaより転載)

 

 荻谷信男は48期操縦練習生出身で生涯に撃墜した敵機は24機と言われている。当時、海軍航空隊内部でも坂井三郎や岩本徹三という名は知れ渡っていたという。しかし、逆に荻谷は当時ほとんど部内でも知られることがなかった搭乗員であったようだ。それは初空戦が1943年暮れというかなり遅い時期だったことも理由であろう。初空戦後は、円熟の技量で戦果を挙げたが、残念ながら昭和19年2月には未帰還となってしまった。

 

萩谷信男の経歴

 

 1918年茨城県生まれ。1938年海軍に入隊。1940年1月48期操練を卒業。千歳空に配属されルオット島で開戦を迎えた。その後281空に異動。北千島に進出する。1943年11月281空派遣隊としてラバウルに進出、204空所属となる。1944年1月末253空に異動。2月13日未帰還となる。

 荻谷は1918年生まれ、操練48期を修了した後、千歳航空隊に配属される。荻谷が配属された千歳航空隊には後にトップエースとなる西沢広義、ラバウルの撃墜王福本繁夫等が配属されていたが千歳航空隊はこんなもんじゃない。さらに輪島由雄(11機撃墜)、阿武富太(10機撃墜)、国分武一(11機撃墜)、山本留蔵(11機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、渡辺秀夫(16機撃墜)、志賀正美(15機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、長野喜一(18機撃墜)等が配属されているという何だかんだで凄い部隊なのである。

 千歳航空隊はマーシャル諸島の防空任務ののち一部の隊員は、トラック島、ラバウルに展開し、後に搭乗員は台南空に編入され熾烈なラバウル航空戦に加わることになる。のち201空と呼称される千歳空本隊も1943年7月にはラバウル方面へ進出する。荻谷は違う。北千島に展開する281空に配属される。この281空、何故か岩本徹三がいるのだ。

 北千島で岩本達と鮭の捕獲をしたりして盛り上がっていたが、281空にも、とうとうラバウル進出の命が下る。1943年11月、春田虎二郎中尉以下、岩本徹三、萩谷信男等16機がラバウルに進出。荻谷達281空搭乗員は204空、253空と異動し連日の航空戦を戦い抜いた。その間、13日間に18機撃墜という海軍最高密度の撃墜記録を挙げる。

 日本海軍では採用されていないが、欧米では5機以上撃墜したパイロットはエースと呼ばれる。たった5機である。逆に言えば5機を撃墜することが非常に難しいということである。ほとんどのパイロットは5機も撃墜できない。それを荻谷は2週間弱で18機撃墜したのである。これがどれだけすごいことなのかは分かって頂けると思う。

 萩谷は海軍に入るのが遅く、開戦後も平穏な地域に配属されることが多く、初空戦が25歳という珍しい搭乗員である。しかしそれまでの訓練は伊達ではなかった。突然熾烈なラバウル航空戦に参加し、わずか3ヶ月の間に24機を撃墜するという記録を残した名パイロットであった。

 

萩谷信男関連書籍

 

岩本徹三『零戦撃墜王』

岩本徹三 著
光人社NF文庫 2004/8/1
 

 戦記に詳しい人には有名な海軍のトップエース岩本徹三少尉の本。岩本徹三氏は日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ第一線で戦い続けた稀有なパイロット。総撃墜数は216機で内、ラバウル航空戦で142機を撃墜したと自称していた 岩本徹三氏は戦後10年を待たずして敗血症により他界してしまう。岩本氏は戦中から日記を付けており、その日記を基に戦後執筆したのが本書だ。萩谷信男と同部隊に所属した熟練パイロット。本書中に萩谷の顔写真が出ている。

 

 

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 小八重幸太郎上飛曹は、太平洋戦争開戦後に訓練を修了した正に戦中派パイロット。エリートである母艦戦闘機隊に選抜され、激戦のラバウル航空戦に投入される。内地帰還後は新鋭紫電を駆り比島航空戦に活躍。内地帰還後は海軍の精鋭部隊343空で終戦を迎える。零戦、紫電、紫電改と乗り継いだパイロットであった。

 

小八重幸太郎上飛曹の経歴

 

略歴

 大正12年3月15日、宮崎県生まれ。昭和16年10月丙種予科練7期生に採用される。昭和17年11月第24期飛練課程を卒業、大村航空隊で延長教育を受け戦闘機操縦者となる。空母瑞鳳乗組となり昭和18年3月トラック島進出。「い」号作戦、「ろ」号作戦に参加する。その後253空配属。昭和19年2月末内地帰還。大村空で教員配置に就く。9月戦闘701飛行隊に編入(7月説あり )。新鋭機紫電を以って、10月末ルソン島マルコット基地に進出する。12月休養のため内地に帰還。昭和20年初頭2代目戦闘701飛行隊に編入。343空に配属され終戦を迎える。

 

母艦戦闘機隊へ

 小八重上飛曹は予科練丙種7期修了。戦中派パイロットである。大村空での延長教育修了後、エリートである母艦戦闘機隊に配属される。母艦搭乗員訓練のため冨高空で鳳翔での着艦訓練を受けた後、瑞鳳戦闘機隊に配属される。

 この時期、冨高空では杉野計雄、谷水竹雄兵曹、小高登貫兵曹等が同じく訓練を行っている。瑞鳳戦闘機隊は鹿児島県鴨池基地で訓練を続け、昭和18年3月にトラック島に進出、「い」号作戦、「ろ」号作戦に参加している。当時、瑞鳳戦闘機隊は飛行甲板の狭さが理由なのか分からないが、岩井勉、山本旭等のベテラン搭乗員が多数おり小八重上飛曹は中々搭乗員割に入れてもらえなかったようだ。11月2日のラバウル迎撃戦にてF4F2機を撃墜して初戦果をあげた。その後中川健二大尉と共に253空に編入され、激烈なラバウル航空戦を戦った。

 激しい空戦のさ中、米軍戦闘機と単機空戦となりお互いに秘術を尽くして戦ったが勝敗が決せず、どちらからともなく寄り添い顔を見合わせて飛び去って行ったという一コマもあったようだ(小八重幸太郎「零戦に生き紫電改に死す」『零戦搭乗員空戦記』)。

 

紫電・紫電改装備の新鋭部隊に配属

 その後、本土に帰還するが、その時、第一航空戦隊戦闘機隊の生存者は66名中わずか9名であった。昭和19年7月、新鋭戦闘機紫電を装備する戦闘701飛行隊に配属され、台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加した後、極度の過労により入院する。その後2代目戦闘701飛行隊に転属した。

 2代目戦闘701飛行隊は言わずと知れた343空所属の飛行隊であり、ほぼ全機が紫電改で編成された鴛淵孝大尉が隊長を務める部隊である。小八重上飛曹は終戦まで343空で西日本防空戦を戦い抜いた(『日本陸海軍航空英雄列伝』参照)。 https://water-wildcat.com/archives/52180397.html  総撃墜数は15機といわれる。丙飛7期という開戦直前に採用され、日本が徐々に劣勢に陥っていくさ中に母艦戦闘機隊として実戦に参加した。その中で生き抜いただけでなく15機もの撃墜を果たしたというのは驚異だ。

 

小八重幸太郎上飛曹関係書籍

 

坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』

 本書は月刊『丸』紙上に発表された零戦パイロットの手記を集めたもの。執筆者は小八重幸太郎氏、谷水竹雄氏、河島透徹氏、今井清富氏、塩野三平氏、坂井三郎氏の6名。坂井氏以外は本書以外に著作はなかったはずだ。貴重な記録である。小八重幸太郎氏は「零戦に生き紫電改に死す」という一篇を寄稿している。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。模型愛好家のために航空機の塗装のカラー絵が多くある。小八重上飛曹の略歴と戦功が書かれている。

 

まとめ

 

 小八重幸太郎上飛曹は母艦戦闘機隊としてラバウル航空戦に参加、その後、戦闘701飛行隊として比島航空戦に参加、紫電改で編成された343空で本土防空戦に参加した。太平洋戦争を戦い抜き終戦を迎える。戦後は故郷の宮崎県日南市で消防官として勤務していたようである。

 

杉野計雄
(画像はwikipediaより転載)

 

 杉野計雄飛曹長は山口県生まれで、丙飛3期を卒業、基本的に母艦戦闘機隊員として活躍した戦闘機搭乗員である。495回の戦闘で32機を撃墜したといわれる。

 

杉野計雄飛曹長の経歴

 

 杉野飛曹長は大正10年山口県に生まれる。昭和14年海軍に入隊。昭和15年駆逐艦黒潮艤装員、完成後乗組、昭和16年丙種予科練3期生となる。昭和17年3月、6空に配属される。ミッドウェー海戦に参加したのち7月空母大鷹乗組。10月大村空教員配置。11月佐伯空。昭和18年4月空母翔鶴乗組。8月トラック進出。10月ラバウル進出。12月253空編入。昭和19年2月大分空教員。4月筑波空。8月634空所属にて台湾沖航空戦、比島航空戦に参加する。その後は本土にて教員配置兼特攻隊員として終戦を迎える。

 杉野飛曹長は1997年に自伝『撃墜王の素顔』を上梓する。その時の私はちょうど撃墜王の記録を読み漁っていたころでどストライクだった。この本を店頭で見かけた時の感激は今でも忘れない。何が感激だったかというと杉野飛曹長がまだご健在であったということだ。当時はまだインターネットも今ほどの情報量もなく、撃墜王の名前などはほとんど出て来なかった。岩本徹三ですら2~3件ヒットという時代であった。

 そんな時代だったので戦争を生き抜いた撃墜王の生死については書物からの情報しかなかった。当時の私はまだエース列伝が付されている『日本海軍戦闘機隊』を入手していなかったが、『日本海軍戦闘機隊』を元にした他の本の撃墜王ランキングによって32機撃墜の杉野飛曹長の存在は知っていた。そこに自伝が登場したのである。この感激、恐らく誰も分らないと思う。

 因みに『日本海軍戦闘機隊』は、後に神保町の文華堂で入手した。1984年当時2500円の本がプレミアが付き、何と2800円となっていた。物価を考えると値段は下がっている。感激も何も要するに世間で撃墜王で盛り上がっているのは私だけだった。

 今回、記事を書くということで『撃墜王の素顔』を読み直してみたが、私の印象ではラバウルの撃墜王であったが、杉野飛曹長は意外にも母艦経験が多かった。

 ろ号作戦でラバウルに進出したのち昭和18年12月に253空に転属になる。岩本徹三、小町定、福本繁夫等、この時期には様々な部隊から253空に搭乗員が配属されていたようである。昭和19年2月に杉野飛曹長は岩本、小町等253空の主力と共にラバウルを後にしトラック防空に活躍する。因みに72機撃墜と言われるエース福本繁夫はラバウルに残留した。その後、寄せ集め零戦を指揮し戦ったようである。

 この時に初めて同期の谷水竹雄飛曹長と別々の部隊に異動になる。実は、杉野飛曹長は予科練で初めて飛行機に登場した時、谷水飛曹長と同じ教員のペアになって以来、この時までずっと同じ部隊に配属され続けたのだ。

 海軍航空隊とは非常に転属が多いところだった。この中で予科練から同じ部隊に居続けたというのは滅多にないことであった。お互いに気も合ったようで、著書の中でも「私達はピーナッツのようだ」(二人で一つという意か)と語り合ったという。

 その親友であり戦友であり同じ部隊に異動し続けた谷水飛曹長とも内地到着後は別々の任地に行くことになった。谷水飛曹長は台南空での教員であった。杉野飛曹長は、大分で教員配置に就くが、その後、またもや艦隊戦闘機隊隊員として実戦に参加、本土で教員配置で終戦を迎える。総飛行時間1994時間。

 

杉野計雄関連書籍

 

杉野計雄『撃墜王の素顔』

 総撃墜数32機といわれている杉野計雄氏の著書。当初はミッドウェー島航空隊になる予定だった6空隊員としてミッドウェー海戦に参加。乗艦が撃沈され内地帰還後は、母艦戦闘機隊隊員として活躍する。この時期のパイロットとしては幸運にも十分な訓練期間を与えられたようだ。ラバウル航空戦、比島、本土防空戦に参加する。

 予科練で初めて飛行機に乗った時以来のペアである谷水竹雄飛曹長と奇跡的にほとんどの部隊を一緒に異動する珍しい経験を持つ。谷水氏とは気も合ったようで二人のやりとりにちょっとほっこりする。二人とも戦争を生き抜けて良かったと思える。

 

坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』

 本書は月刊『丸』紙上に発表された零戦パイロットの手記を集めたもの。執筆者は小八重幸太郎氏、谷水竹雄氏、河島透徹氏、今井清富氏、塩野三平氏、坂井三郎氏の6名。坂井氏以外は本書以外に著作はなかったはずだ。貴重な記録である。

 本書執筆者の谷水竹雄氏は模型ファンならご存知の方もいるかもしれないが、米軍の識別マークに矢が刺さった撃墜マークを描いた零戦の横に立っている写真で有名なパイロットだ。杉野計雄氏と多くの期間同じ部隊で過ごした稀有な体験をしている。谷水氏は自著はないので、本手記が一番詳しく自身の戦争体験を書いているはずである。同じ事象をそれぞれどう捉えていたのか、また、杉野氏と谷水氏がそれぞれ相手をどう見ていたかなど見ると面白い。

 

秋本実『伝承零戦』1巻

 月刊『丸』紙上に掲載された海軍戦闘機隊搭乗員の手記を集めたもの。編者の秋本実氏は航空史家。第1巻は零戦の誕生から太平洋戦争中盤までの手記を収録。杉野氏は「奇計”零戦爆撃隊”八人のサムライ」という手記を寄稿している。これはのちに零戦隊の対艦爆撃の先蹤となる母艦搭乗員時代の零戦での爆撃訓練について書いたもの。零戦の対艦爆撃は決死の爆撃であったことが書かれている。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

まとめ

 

 海軍航空隊のエリートと言われる空母戦闘機隊出身の杉野氏。母艦戦闘機隊、ラバウル航空戦、比島と激戦をくぐり抜けてきた。戦後も海上自衛隊で定年まで勤務する。海自時代の教え子が1985年の時の機長で、その墜落した付近の上野村の村長で救助活動に尽力したのが海軍時代の上官の黒澤丈夫氏であったという奇縁もあったそうだ。1999年8月鬼籍に入る。

 

小町定
(画像はwikipediaより転載)

 

 今日、紹介するのは日本海軍航空隊撃墜王小町定である。小町氏は1920年生まれ、操縦練習生49期を修了後、空母翔鶴に配属される。日中戦争には参加しておらず、初陣は真珠湾攻撃であった。基本的に母艦搭乗員は特に優秀な隊員が配属されるという。初の実戦配置が航空母艦であったというのは練習生時代の評価が高かったのだろう。

 

小町定の経歴

 

 小町定は、大正9年石川県に生まれる。昭和13年呉海兵団に入団。半年間訓練を受けたのち戦艦扶桑に配属された。操練49期に採用され霞ヶ浦空、百里ヶ原、昭和15年1月大分空、昭和15年6月大村空配属、昭和15年10月、空母赤城、昭和16年5月空母翔鶴乗組。インド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。

 昭和17年11月大村航空隊教員。昭和18年11月204空に転属、ラバウル航空戦に参加する。昭和18年12月253空に異動する。昭和19年2月253空と共にトラック島に後退。昭和19年6月、253空隊員として「あ」号作戦参加。トラック島から病院船氷川丸で内地に帰還する。昭和19年峰山空教員、昭和20年6月横空。

 

真珠湾攻撃・その後

 小町定は操縦練習生終了後、大村空を経て、当時の新鋭空母翔鶴乗組となる。その後翔鶴戦闘機隊隊員として真珠湾攻撃では機動部隊の上空直掩に参加した。真珠湾攻撃時の上空直掩任務には撃墜216機と言われる岩本徹三、50機撃墜の岡部健二、15〜16機撃墜の原田要、12機撃墜の佐々木原正夫等、何故か後の撃墜王が多数配置されている。

 熟練者を優先的に上空直掩に充てたという話もあるが、小町、佐々木原はこの当時、実戦未経験でありこの説は当たっていないと思う。その後、小町は珊瑚海海戦、南太平洋海戦に参加、小町は俗に損害担当艦といわれた翔鶴乗組だっただけに特に戦闘は辛酸を極めた。小町は翔鶴損傷のため空母瑞鶴に着艦したが乗機が被弾していたため海中に投棄された。

 1942年11月に翔鶴戦闘機隊を離れ、大村航空隊での教員となる。ここには坂井三郎(64機撃墜)、磯崎千利(12機撃墜)、南義美(15機撃墜)、中仮屋国盛(16機)、島川正明(8機)、本田敏秋(5機)等、多数の撃墜王達が教員として配属されていた。

 1943年11月、ラバウルに展開する204空付を命ぜられ、翌12月253空付となる。ここで激烈な航空戦を経験した後、1944年2月、小町を含む253空はトラック島に後退した。1944年6月、「あ」号作戦の一環としてサイパン島攻撃に出撃、グアム島に着陸寸前に米艦載機の奇襲を受け撃墜される。

 数日後、一式陸攻でグアムを脱出、トラック島から病院船氷川丸で日本本土に帰還する。1945年7~8月(恐らく8月)、3月に新設された峯山航空隊教員付となる。そこで美保、三重航空隊で基礎教育を修了した甲飛13期学生の中練教程を行う。1945年6月横須賀航空隊付となり終戦を迎える。戦後は戦犯として逮捕されるという噂から東京に行き、材木商となり、建設業に事業を拡大、都内の貸しビルのオーナーとなった。2012年7月15日老衰により逝去。総撃墜数は同僚によると40機以上と言われるが本人は20機程度だと語る。

 余談であるが、エース列伝には激しい性格の荒武者パイロットとなっているが、小町は教員時代、体罰を一切行わず教え子達からの信頼は絶大なだったようで、当時、小町が所属していた航空隊に教え子達が配属された時も小町の隊に入りたいと教え子同士で喧嘩になったことすらあるという。

 

小町定関係書籍

 

川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』

川崎浹 著
トランスビュー 2003/8/15

 18機撃墜と言われている小町定氏へのインタビュー本であるが、単独インタビュー形式で小町氏の戦中戦後の経験が描かれている。著者の川崎氏は、小町氏の経験を上手に引き出すことに成功している。生前の小町氏にインタビューを元にした川崎氏の著書。当時の搭乗員の気持ちや作戦に参加した際の貴重な記録が満載。この手の本はあまり人気がないのである時に買っておいた方がいい。もちろん私は発売された直後に購入した。

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 海軍搭乗員の取材に定評のある神立尚紀氏インタビューによる本。小町定へのインタビューもある。内容は主に戦争中の話だ。『日本海軍戦闘機隊』『日本海軍航空隊のエース』にはない人間小町定がここにいる。

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 神立尚紀氏による海軍戦闘機搭乗員へのインタビュー集。小町定へのインタビューは主に戦後について語っている。元軍人は民間で通用する職歴も技術もなく苦労する。騙されたりしながら真心を大切にしてビルオーナーにまでなる。戦後、海軍戦闘機搭乗員の集まりである「零戦搭乗員会」が結成されるが事務所は小町定所有のビルに設置された。

 

まとめ

 

 小町定は太平洋戦争初期から終戦まで戦い抜いた熟練搭乗員だ。小町の出身である操練40期台は太平洋戦争初戦から「新米」として実戦に投入され他のクラス以上の死亡率を記録した。小町は当時の海軍航空隊のエリートである母艦搭乗員から始まり激戦のラバウル、海軍航空の殿堂と言われる横須賀航空隊で終戦を迎える。

 強面の見掛けと異なり、心が優しく部下に対して暴力を振るうこともなかった。故に部下には慕われ列機の位置の取り合いも起こった。戦後、神立氏のインタビューに対しても「ツンデレ」の部分を見せている。このインタビューを読むと小町定がどうして人望を集めたのかが分かる。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

 

 また本のレビュー。今日紹介するのは小高登貫著『あゝ青春零戦隊』である。この小高登貫とは、意外と知られていないエースなのではないかと思う。坂井三郎のように本を多数執筆していたり、岩本徹三西沢広義のように多撃墜記録を持っていたり、赤松貞明のように自著こそはないがあまりの奇人ぶりで有名になった人でもない。しかし、この小高登貫という人、すごい人なのだ。

 総撃墜数はエース列伝によると12機、本書の冒頭の文章によると共同撃墜含め105機。潜水艦2隻撃沈という類い稀な記録を持つ撃墜王なのだ。昭和18年に202空隊員として実戦初参加、その後ラバウルに派遣されあのラバウル航空戦に参加、トラック島、フィリピンと転戦した後、伝説の航空隊343空、剣部隊に配属される。そこで新鋭機紫電改を駆り終戦まで戦い抜いた。詳しい経歴については別に書いたのでそちらを見てもらいたい。

 

 

 小高氏含め同期13名は202空に配属される。一旦は母艦戦闘機隊に配属が決まっていたために落胆するのだが、この202空こそは連合国軍からは「まぼろし部隊」と言われ恐れられていた202空なのだ(部隊番号がXだったから)。そこで連日の戦闘に参加する。この中で当時のチモール島の風俗についても書いてあるので面白い(エッチな方ではない)。慰問団として森光子が来たり等、知らない人には結構ビックリしちゃうエピソードなどもある。

 その後ラバウルに派遣されるのだが、おたく的に面白いのは小高氏の機体にも撃墜マークが付いていたという。岩本徹三著『零戦撃墜王』にはピンクの撃墜マークが付いていたというのは有名であるが、小高氏の機体には黄色い撃墜マークが付いていたようである。部隊によってマークを統一していたのか否か等考えると面白い。撃墜マークは当然、公認されたものではないが、現地部隊では戦意高揚のために書いていたのだろう。

 本書で興味深いのはフィリピン時代に「かたき討ち作戦」と称される作戦に参加したことだろう。小高氏は命令により何も知らずに「わが軍の重要人物を捕まえているはずだ。早く戻せ」というようなことを書いたビラを撒き、その後、銃爆撃をしていることだろう。当時は意味も解らずやっていたが、戦後、古賀峯一長官が遭難した「海軍乙事件」であったことを知る。近代史研究の上でも価値のある記述だ。

 小高氏はそのフィリピンで特攻隊に志願するが、小高氏はみんな心から志願したという。これも当時の搭乗員個々人によって意見が異なっている。これらを比べてみるのも面白い。さらに世間では特攻隊の第一号は関行男大尉の敷島隊であることになっているが、実は4日前に最初の特攻隊が出撃していることなども興味深い。

 戦後はオートバイの売上日本一になったりと何でも一生懸命やる性格だったようだ。現在(2020年)ご健在であれば97歳となるはずであるが、残念ながら1992年3月に他界している。内容はかなり面白いのでおすすめだ。

 

↓良かったらクリックして下さい。

人気ブログランキング

01_谷水竹雄
(画像はwikipediaより転載)

 

 模型愛好家だったら、米軍の星マークに矢が刺さっている撃墜マークの横に立っている搭乗員の写真を見たことがあるかもしれない。零戦の写真集には必ずと言っていいほど掲載されている有名な写真だ。この写真の男は谷水竹雄飛曹長。初陣から終戦までに撃墜した敵機の数は18機とも30機以上ともいわれる、太平洋戦争中期から終戦まで戦い続けた熟練搭乗員だ。

 

海軍へ。。。

 

02_九三式中練
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水は、大正8年三重県生まれた。母は真珠を採る海女だったという。昭和16年2月に丙種予科練習生3期に採用された。丙飛卒業生の飛練は17期、18期の2期あり、谷水は16年4月に始まる17期飛練に分けられた

 飛練の教員は操練40期の中島隆三空曹で同じ教員に割り当てられたペアには杉野計雄、杉田庄一、のちにソロモン航空戦で戦死する加藤正男がいた。撃墜数は不確定要素が強いので参考にしかならないが、杉野は32機撃墜、杉田は70機撃墜と言われる著名な撃墜王となっていく。この中島隆教員はよほど教えるのが上手かったのだろうか谷水も18機の撃墜記録を持っていたと言われている

 そのまま大分空へ転勤、戦闘機搭乗員として訓練を受ける。この時期には海兵67期、甲飛5期、乙飛10期が訓練を受けている。のちに翔鶴戦闘機隊で分隊長となる小林保平も同時期に訓練を受けていた。これらの期は太平洋戦争中盤から中核として戦ったクラスであり、その分、犠牲も多かった。

 

6空配属。ミッドウェー海戦

 

03_ミッドウェー海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和17年3月飛練を修了。4月1日に新たに木更津で編成された6空に配属される。6空は司令森田千里大佐、飛行長玉井浅一中佐、飛行隊長新郷英城大尉を主要幹部に迎えた特設航空隊である。その後、204空と改称され、のちのラバウル航空戦の主力として戦線を支え続けた部隊だ。

 4月18日のドーリットル隊の空襲では6空も陸攻隊を援護して敵機動部隊攻撃に向かうが発見できずに帰投している。空襲は日本側の防御網の貧弱さや油断から成功し、日本側の死傷者は500名以上に上った。この空襲の大本営からの発表では日本側の損害は「軽微」、米軍機を9機撃墜したことになっている。実際には、日本側は陸海軍共に航空機が飛行していたが誤認や油断のために1機も撃墜することはできなかった。

 この空襲がきっかけでミッドウェー作戦が決定されるのだが、6空もミッドウェー島占領後の基地航空隊としてミッドウェー作戦に参加する。6空は南雲機動部隊と陽動のため実施されるアリューシャン作戦に参加する空母隼鷹に分乗するのだが、谷水は隼鷹に乗っていたため難を逃れた。

 

空母大鷹へ

 

03_大鷹
(画像はwikipediaより転載)

 

 ミッドウェー作戦失敗後、隼鷹は大湊に寄港、谷水他6空搭乗員は陸路木更津に移動する。6空はその後ラバウルに進出するが、谷水や同期の杉野は7月7日、母艦搭乗員として大分空で編成中の「大鷹」戦闘機隊に着任する

 空母大鷹は日本郵船の貨客船春日丸を海軍が徴収したもので排水量17830トン、最高速力22ノットの航空母艦である。谷水が配属された時点ではまだ特設空母春日丸であったが、昭和17年8月に大鷹として正式に航空母艦となる。空母としては小型で速力も22ノットしか出せないため戦闘機は未だ九六式艦戦であり、搭乗員には熟練者が選抜された。

 谷水は数ヶ月前に実戦部隊に配属されたばかりであるが、飛練も同期の中では早い17期に編入されていることや母艦搭乗員に選抜されていることからも当初から搭乗員としてのセンスに恵まれていたのだろう。この時の大鷹戦闘機隊の構成は、丙3期の谷水、杉野、米田以外は飛行隊長は海兵66期の塚本祐造、分隊士は操練26期の松場秋夫、その他の搭乗員も操練26期の青木恭作、同27期大久保良逸、甲飛1期の前田英夫等の熟練者が揃っていた。

 

母艦搭乗員としての猛訓練

 

 昭和17年7月7日着任後、大分基地で母艦搭乗員としての猛訓練を受ける。この猛訓練のお陰で谷水は終戦まで生き抜くことができたという。8月17日、春日丸は戦艦大和の護衛としてトラック諸島に進出、谷水も戦闘機隊員として乗艦する。以降、航空機の輸送任務に従事するが、10月にはデング熱にかかってしまう。その後谷水は空母大鷹と共に呉着、大村空で教員配置に就く。短期間ではあるが飛練24期の教員となる。

 飛練練習生卒業後は、練習生の一部と共に12月1日付で佐世保軍港防衛戦闘機隊に転勤する。戦闘機隊といっても新人の錬成も主な任務だったようだ。この時期に谷水はじめ搭乗員達が憲兵と喧嘩になった。その後問題となり谷水が暴行の犯人として名乗り出たという。どうも実際にはやっていないようだ。

 昭和18年1月、谷水は同期の杉野と共に冨高基地に移動する。冨高基地は艦隊航空隊の訓練基地で1月15日には訓練部隊である第50航空戦隊が開隊している。ここで艦隊航空隊の訓練を行うための移動だ。この時点で艦隊戦闘機隊への編入が決まっていたようだ。

 この異動は同期の杉野と一緒であるが、驚いたことに谷水と杉野は飛練の練習生時代に同じ教員のペアになって以来、9回の異動でもいつも同じ部隊であった。海軍ではかなり珍しいことだ。この冨高への移動の途中、谷水と杉野は「私たちはピーナッツですね「本当だ、二人は二枚貝のようだな。いっしょにいるから強く生きているのかね」と話し合ったという

 同期とはいっても同年ではなかったが、二歳年上の谷水に対して8ヶ月海軍への入隊が早い杉野と、年齢では谷水が先輩だけど、海軍では杉野が先輩ということで対等な付き合いだったようだ。冨高基地では艦隊航空隊の訓練が行われていたが、この時、のちに「トッカン兵曹」と呼ばれる小高登貫もこの冨高基地の訓練に参加していたようだ。小高は翔鶴戦闘機隊に配属予定であったが急遽202空に変更されてしまった

 それぞれの搭乗員の記録を読むと当初から所属する母艦が決まっていたというのではなく、「艦隊航空隊搭乗員」として冨高基地に集められ、のちにそれぞれの母艦に振り分けが行われていたようだ。当時、翔鶴戦闘機隊に所属していた操練43期の熟練搭乗員小平好直の手記によると、築城航空隊附となったが築城飛行場が完成していないため築城空冨高派遣隊となっていた。築城空は昭和17年10月に新設された艦上機搭乗員練習航空隊である。

 

空母翔鶴に転属

 

04_翔鶴
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水や杉野、小高はいったん築城空に配属されたのちそれぞれの航空隊に配属されたのだろう。昭和18年2月に転勤命令が出て、谷水はまたもや杉野と共に翔鶴戦闘機隊に配属されるが、この時期には空母翔鶴は南太平洋海戦での損傷を修理中であったようだ。4月には谷水達翔鶴戦闘機隊は訓練のため笠之原基地に移動した。

 笠之原基地で谷水は戦闘機爆撃の研究員となる。戦闘機爆撃とはその名の通り戦闘機による爆撃をすることである。これは空母の飛行甲板を一時的に破壊することを目的している。ミッドウェー海戦や南太平洋海戦での経験からの着想だろう。当然、戦闘機は爆撃用ではないので急降下爆撃機のようにエアブレーキがない。急降下すると自然に浮き上がってしまったりと爆撃機のように目標に命中させるのは難しいようだ。

 この戦闘機爆撃という戦法は一見合理的に見えるが、実はかなり危険な戦法のようだ。昭和18年11月24日、マキンに上陸した敵を爆撃するために252空の周防大尉以下19機の爆装零戦が出撃したが、内10機がたどり着く前に敵戦闘機に撃墜されてしまっている。零戦は爆装すると全く自由が効かず敵が襲ってきても手も足も出ないという

 同様に昭和18年12月15日、マーカス岬の米軍上陸地点に爆撃をかけたラバウルの爆装零戦隊15機も、15機中14機が被弾、3機が不時着するという大損害を受けた。米軍には損害はほとんどなかった。この戦闘機爆撃の危険性は翔鶴戦闘機隊でも訓練前から把握していたようで、南太平洋海戦にも参加した分隊長の小林大尉は谷水の同期の杉野に対して戦闘機爆撃隊は決死隊であると語っている

 

トラック島へ進出

 

 昭和18年7月10日、笠之原基地での数ヶ月に及ぶ訓練を終え、翔鶴戦闘機隊は空母翔鶴に収容され呉を後にした。15日には南方の連合艦隊の拠点トラック諸島に到着する。全くの余談だが、呉トラック間の距離は3573km、5日間で到着したので一定の速度で航行していたと仮定すると、速度は時速29.7km、ノットにすると16ノットでの航海となる。戦時中の機動部隊の航行速度が分かって面白い。

 トラック諸島に着いた谷水たちを待っていたのは引き続きの猛訓練であった。珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と相次ぐ海戦に搭乗員が消耗してしまったため、若手搭乗員の技量を早急に上げる必要にせまられてのことだった。

 戦闘機爆撃の訓練も引き続き行われた。その結果、戦闘機爆撃の命中率は50%以上に達したという。2回に1回は命中するというのは相当な練度といえる。しかしこの訓練中、脇本二飛曹が標的艦矢風のマストに接触、空中分解するという事故も起こった。脇本二飛曹は死亡。遺体は手足の無い胴体のみが回収されたという

 そんな中、第一航空戦隊の三空母合同の大演芸会が企画された。娯楽の少ない戦地では演芸会というのは本当に楽しいようだ。翔鶴戦闘機隊は谷水が座長になり漫才や寸劇等が行われた。谷水は寸劇を担当した。特に女形の声色が素晴らしかったようだ

 

搭乗員の墓場ラバウルへ

 

05_ラバウル航空隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和18年11月1日、谷水達翔鶴戦闘機隊員は「ろ」号作戦に参加するためラバウルの西、ブナカナウ飛行場に進出した。「ろ」号作戦とは、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の艦隊航空隊をソロモン方面の戦闘に投入し、一挙に体制を立て直そうとした作戦であった。

 この時の進出機数は資料によって若干の違いがあるが、翔鶴戦闘機隊32機、瑞鶴戦闘機隊32機、瑞鳳戦闘機隊18機の計82機の戦闘機隊が進出した。翌11月2日、米軍機のラバウル来襲に対して、ラバウルに展開する204空、201空等と第一航空戦隊の零戦隊は迎撃戦を展開する。

 翔鶴戦闘機隊は2機を失うも撃墜40機という大戦果を挙げた。この日の迎撃戦では全部隊での撃墜戦果は撃墜97機、不確実22機、総合戦果は、当時の新聞報道によると対空砲火の戦果まで含めると201機の撃墜であったという。しかし実際の米軍側の損害はP38、9機、B25、8機の計17機であった。これに対して零戦隊は18機が撃墜されている。損害だけで見るとほぼ互角の戦いといっていい。

 この空戦で谷水はP38、2機を撃墜し初陣を飾る。飛練を卒業してから1年半での初陣であった。他の丙3期出身の同期の中には1年以上前に戦地に送られている者もあり、十分な訓練期間を与えられた谷水は幸運であったといえる。「ろ」号作戦は11月13日を以って終了する。ラバウルに進出した第一航空戦隊零戦隊82機の内、43機を失った。艦攻、艦爆に至っては8割以上が失われた挙句、特筆すべき戦果は何もなかった。この後、翔鶴戦闘機隊はマーシャル諸島に進出する。谷水が参加したかどうかは不明であるが恐らく参加しただろう。帰還後、谷水は次期作戦のため、しばらく休養を命ぜられた。

 

トラック島に後退

 

06_トラック島
(画像はwikipediaより転載)

 

 この数週間の戦闘で消耗しつくした第一航空戦隊は再建のため本土に帰還する。昭和18年12月13日、中川大尉を隊長として母艦戦闘機隊より選抜された谷水、杉野を含む21名は、派遣隊としてラバウル、トベラ基地に展開している253空の指揮下に入った。昭和19年2月1日付で台南空への転勤命令がでるまでの2ヶ月間、谷水は「搭乗員の墓場」と言われたラバウルで連日の航空戦に参加した。谷水は、このラバウルでの戦闘においてヘルキャットが最も強敵であったという。

 

「機動性に富み、素早く横転ができるヘルキャットがいちばん手ごわい相手でした。P-38やF4Uコルセアは小回りが効かず、一撃して離脱していくだけでしたから。米軍機は総じて空中で火を吐かせるのは至難の業でした。弾丸を命中させても、いくらか煙をひくだけなのです。煙が出るようすをみれば、それがアメリカ機か零戦かすぐわかりました」 ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P82

 

 さらにF4Uコルセアについてはこう語っている。

 

 「F4Uコルセアを確実に落とそうと思うなら、気づかれてはいけません。そして、後方のある特定の角度からでないと、銃弾がはね返されてしまいます。また、私はコルセアが低高度から機種を上げきれずにそのままジャングルや海中に突っ込んでいくのを目にしています。機体が重すぎるのでしょう。我々はときにはコルセアを追いかけて海に突っ込ませたものです。零戦は軽かったのでそんな心配はありませんでした」 ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P82

 

 憲兵隊との事件で犯人として名乗り出たことからも分かるように谷水は優しい性格だったのだろう。昭和19年1月4日、パラシュートで海面に降下する敵パイロットに対して救命用浮き輪を投げたこともあった。残念ながらその米軍パイロットは生還できなかった

 数々の空戦を生き抜いた谷水達第一航空戦隊派遣隊は1月25日、ラバウルを後にする。進出した時、21名いた隊員はわずか7名になっていた。第一航空戦隊派遣隊以外にも長期間にわたってラバウル戦線を支えた204空、501空がトラック島に後退したが、代わりに第二航空戦隊がラバウルに進出した。この中には「オール先任搭乗員」菊池哲生上飛曹もいる。

 トラック島に帰還した谷水は春島基地で錬成中の202空に仮入隊する。次の転勤先は谷水が台南空教員、杉野が大分空教員と土浦以来いつも一緒だった二人がとうとう別々の勤務先に配属されることとなった。2月4日、トラック島にB24が飛来、谷水と杉野は迎撃に出撃するがこれが谷水と杉野が一緒に戦う最後の空戦であったようだ。

 

内地帰還。親友との別れ

 

 2月10日、本土とトラック島の輸送任務に従事していた空母瑞鳳に乗艦しトラック島を出発、2月下旬、横須賀に入港した。ここからの移動手段は不明だが、恐らく電車であろう。途中で谷水は実家の志摩によるため、大分に直行する杉野と別れることになる。別れる時はただ一言「元気でな」だけであった。谷水と別れた杉野は何か気の抜けたような感じであったという。生死を共にした仲間の別れとしてはあっけないが、本当の親友に言葉はいらないのだろう。

 昭和19年2月下旬、横須賀に着いた谷水は飛練以来の戦友、杉野と別れ実家のある志摩に向かった。志摩で母親にあったのち、台湾方面行きの航空便を待つため鹿屋に向かった。そこで台南空より大村航空廠に練戦の領収に来ていることを知り一路大村基地に向かった。台南空とは台南航空隊の略で台湾の台南を拠点とする航空隊である。台南空といえば、坂井三郎や西澤廣義、笹井醇一等が活躍した部隊として有名であるが、この台南空はその部隊とは異なり、昭和18年4月に台南に開隊した練習航空隊である。

 

台湾へ異動

 

 その台南空では機材受領等のために大村の第二一航空廠との間で機材輸送を行っていた。谷水達が便乗したのはこの内の練戦受領の便だった。練戦には九六式艦戦をベースにした二式練戦と零戦ベースの零式練戦があったが、恐らく練戦とは第二一航空廠で試作、生産が行われた零式練戦のことだであろう

 零式練戦とは零戦21型を複座式にした練習機で昭和18年に試作機が完成、昭和19年3月17日に正式採用された。谷水が台南空に着隊した時期は恐らく3月上旬だと思われるので完成したばかりの正式採用前後の機体であったのだろう。谷水は、空輸隊指揮官松田二郎飛曹長に理由を話して領収飛行に参加、沖縄経由で台南空に着任した。谷水が担当したのは特乙1期、2期であった。特乙とは乙飛合格者の中から年長者を選び短期間で教育する制度だ。特乙は1期〜10期まで採用されたがこのうち戦闘機専修があったのは4期までである

 谷水の手記には、その特乙1期も昭和19年5月には卒業したとあるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』には特乙1期の卒業は7月とありどちらが正しいのかは不明である。ただ、特乙2期は飛練も2期に分けれられているのでより人数の多かった特乙1期も2期に分けられていた可能性もある。その後、特乙2期も終了、前後して13期予備学生が入隊する。これら訓練生の教育と共に教官や教員には哨戒任務も課せられていた。特に、これら教官、教員の中でも、この時期の台南空では夜間戦闘ができるのは谷水と零戦初空戦に参加した熟練搭乗員岩井勉(撃墜22機)のみであったという。

 

B24を撃墜

 

07_B24
(画像はwikipediaより転載)

 

 夜間空襲の場合、一つの目標に対して二機が立ち向かうことはお互いに衝突する恐れがあるので、邀撃は零戦1機のみで行うこととなり谷水と亀井が交互に待機任務に就くことになった。昭和19年8月31日、B-24、11機の接近に対して、待機中の谷水に出撃命令が下った。谷水は最初に1機を銃撃、手ごたえを感じたというが損害を確認できず、さらに対空砲火が止んだのを見計らって別の1機のエンジンに一撃し1機撃墜戦果を報告している。これは425thBSのノーマン・Bグレンドネン中尉操縦のB-24で墜落して1名が捕虜になっている。

 谷水が最初に銃撃をかけた1機もその後中国大陸で山に衝突しているので、谷水はこの空戦で2機を撃墜していることになる。9月3日にも夜間に大型機の邀撃をするが、この時は陸軍の一式戦から攻撃を受け撃墜に失敗している。この時の一式戦は風防を開けたままであったということに谷水は驚いているが、加藤隼戦闘隊こと、第64飛行戦隊のエース安田義人によると、陸軍の戦闘機乗りは死角を減らすために風防を開けたまま戦うのが普通だったようだ

 台南空での勤務時、谷水は特攻隊の話を聞かされ志願している。特攻隊の編成は志願による場合と、志願という建前で強制される場合があったが、台南空の場合は前者の方だったようだ。谷水は当初、母一人子一人であったため特攻の話から外されていたが、特攻であることを知り改めて志願している。昭和19年10月になると、台湾も米軍機動部隊の攻撃を受けるようになってきた。谷水もしばしば邀撃戦に参加している。さらに台南空教員でありながら、「飛び入り」で台湾沖航空戦にも参加している。しかし11月3日、ちょっとした油断から撃墜されてしまう。

 撃墜したのは74FSのボリアード中尉でP51を駆り、谷水と列機の伊藤上飛曹機を撃墜、最終的には5機を撃墜するエースとなる。伊藤は戦死、谷水は一命を取り留めるものの大やけどをしてしまう。病気療養中、台南空は練習航空隊としての機能を失った結果、教官、教員で特攻隊を編成することになった。当然谷水も特攻隊員に任命されたのだが、台南空司令の判断により内地の戦闘308飛行隊への転勤を命ぜられる。因みに教官とは士官、教員は下士官の指導員のことを指す。

 

戦闘303飛行隊へ

 

08_零戦52型丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和19年12月6日、谷水は鹿屋に到着、笠之原基地で戦闘308飛行隊へ入隊した。その戦闘308飛行隊も前線に進出してしまったが、谷水は被撃墜時の傷のため内地に残留となり、そのまま戦闘312飛行隊に編入された。傷の癒えた谷水はこの戦闘312飛行隊で数度の空戦に参加する。

 昭和20年3月26日戦闘303飛行隊に編入された。戦闘303飛行隊は昭和19年3月1日に発足した飛行隊で太平洋戦争末期、海軍戦闘機隊の中で最も練度の高い部隊であった。隊長は海兵63期のベテラン指揮官岡嶋清熊で、隊員には戦地帰りの熟練者が多く、太平洋戦争のトップエースと言われる西澤廣義、零戦虎徹を自称するエース岩本徹三、操練27期のエース近藤政市、ラバウル帰りの西兼淳夫等、太平洋戦争末期においてもA級搭乗員の比率は30%に及んだ

 戦闘303飛行隊は編成後、フィリピンに進出し壊滅的な打撃を受ける。谷水が戦闘303飛行隊に編入されたのは、この消耗した戦闘303飛行隊が再編成された時であった。谷水の編入に前後して岩本徹三や近藤政市も戦闘303飛行隊に着任したようだ。いくら精鋭部隊といえども1945年にもなるとさすがに彼我の戦力差から士気が低下してきたようだ。谷水は隊員の士気を高めるため隊歌を作詞したりもしたようだ。その隊歌が以下のものだ。

 

<岡嶋戦闘機隊の歌>
一 乱雲南にまた北に 乱れ飛ぶ世に生を得て
  意気と度胸のますらおが 建てし誉れの進軍賦
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

二 衆を頼みつ驕りつつ 神州汚す醜敵を
  死を期し破邪の剣もて 国の勝利を我が胸に
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

三 身は何冥の雲を染む 功は永遠に若鷲の
  生気放光錦江湾 七生報国意気高し
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

(土方敏夫『海軍予備学生空戦記』より引用)

 

 当初は二番目の「国の勝利」は「遂の勝利」であったが、共同通信の記者の意見によって変えたという。この歌詞にさらに士官の土方敏夫が曲をつけ隊歌が完成した。さらに士気高揚のために撃墜マークを機体に描いたのもこのころであった。安部氏の手記の時系列が正しければ、撃墜マークを描いたのは昭和20年6月〜7月中旬あたりだろう。

 戦闘303飛行隊は九州に展開していた第五航空艦隊随一の制空戦闘機隊として八面六臂の活躍をしていたが衆寡敵せず昭和20年8月15日終戦となった。当時、戦闘303飛行隊が所属していた五航艦は作戦継続を指令していたようだが、結局、停船命令が出た。最後は五航艦司令宇垣纏中将の特攻によって五航艦の戦闘は幕を閉じたようだ。

 

終戦

 

09_空母天城
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水は宇佐基地で終戦を迎えた。玉音放送後、厚木の陸上爆撃機銀河が徹底抗戦を主張するガリ版刷りの檄文を撒いていった。ただ、15日を以って完全に戦闘が終了した訳ではなく、16日も迎撃戦が行われ未帰還機も出したようだ。最精鋭の飛行隊だけに武装解除時にも零戦搭乗員が拳銃を持ち零戦に乗りプロペラ外しと燃料を抜きに来た整備員を近づけなかったという。谷水も終戦を認めず終戦後も5日間にわたって敵機を追い求め徹底抗戦を主張するビラを撒いたりしたようだ

 その後、谷水の手記によると、8月19日夜、総員集合命令があり、集合すると総員無期休暇が発表された。さらに20日零時までに本州に入ること、またそれが出来なかった場合は山に入ること。さらに敵がポツダム宣言を履行しなかった場合は24時間以内に原隊に復帰することが言い渡されたという。土方敏夫の著書によると若干異なる。土方によると24日に搭乗員集合の命令がかかり24時間以内に退隊すること、搭乗員の証拠になるようなものは一切身に着けるな。さらに隊から正式に帰隊命令があるので地下に潜伏し、隊長とは連絡が取れるようにすることが言い渡されたという

 どちらが正しいのか(またはどちらも正しい)は不明だが、速やかに基地から離れること、帰隊の指示を待てというのは共通している。どちらも血の気の多い搭乗員を復員させるための方便であったのかもしれない。谷水は重要書類を焼却したのち、送別会を行い、全員で泣きながら同期の桜を歌ったという。谷水の総飛行時間は1425時間、その間に撃墜した敵機は18機とも32機とも言われている

 

 

西澤廣義01
(画像はwikipediaより転載)

 

西澤廣義の経歴

 

 西澤は、大正9年長野県に生まれる。昭和9年3月、高等小学校を卒業すると製糸工場に勤める。昭和11年6月、第7期予科練習生として海軍に入隊。昭和13年8月、霞ヶ浦空で飛行練習生、昭和14年3月〜6月まで大分航空隊で延長教育を受ける。昭和14年6月大村空配属。昭和15年12月鈴鹿航空隊に異動。そして昭和16年10月1日千歳空に配属、内南洋ルオット島で太平洋戦争開戦を迎える。

 その後、西澤は千歳空隊員としてラバウルに進出、昭和17年2月10日、第4航空隊に編入される。さらに昭和17年4月1日付の改編で台南空に編入される。ここで笹井醇一、坂井三郎、太田敏夫などと連日の航空戦に参加する。昭和17年11月、台南空の内地帰還命令で他の残存搭乗員と共に内地に帰還。昭和18年5月、再建が完了した251空(台南空が改称)と共に、再びラバウルに進出。9月1日、トベラ基地の253空に異動。

 同月草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後、11月1日付で大分空に異動、教官配置となる。同月飛曹長に進級。昭和19年3月1日、203空戦闘303飛行隊に異動、部隊と共に厚木、千歳、美幌、幌筵、茂原、鹿児島と移動する。昭和19年10月12日、戦闘303飛行隊がT部隊に編入される。鹿児島から台湾、10月24日には、比島・マバラカットに移動する。

 10月25日、神風特攻隊の直掩隊長として出動。10月26日、乗機を置いて輸送機で帰還する途上ミンドロ島カラ晩上空でF6F2機に襲撃され戦死する。公式資料に残る撃墜数は36機だが、147機、150機、120機、102機、87機とも言われる多撃墜パイロットであった。

 岩本徹三、坂井三郎、武藤金義等、のちに撃墜王と呼ばれたパイロットは大正5年生まれが結構多いが、西沢は大正9年と若干若い。予科練に入ったのは16歳であった。因みに予科練は1930年に始まった航空士官を養成するための制度である。高等小学校卒業以上が応募資格で競争率が高くかなりの難関であった。

 後に中学校4年生以上を対象として甲種予科練という制度が始まったことにより旧来の予科練は乙種予科練と呼ばれた。さらに1940年に従来の操縦練習生課程も予科練に統合され丙種となるのであるが複雑になるのでここでは割愛する。甲種予科練制度が始まったのは1937年なので西沢が採用された1936年は厳密にはまだ乙種予科練ではない。それはそうとこの倍率何百倍という超難関を突破した西沢は日中戦争を体験することなく太平洋戦争開戦を迎えた。

 当初は千歳航空隊に所属し、その後あの台南航空隊に配属された。西沢は台南航空隊での勤務が一番長かったようである。他の搭乗員は航空隊を転々としたのに対して西沢は移動は少なかったようだ。それでも千歳航空隊、台南航空隊、253空、203空と転属した。ここで面白いのは、西沢が253空に転属したのは18年9月で、10月には本土に帰還している。これと入れ替わるように岩本徹三が11月にラバウルに着任している。

 さらに西沢はその後203空戦闘303飛行隊に転属してるが西沢フィリピンで戦死後、岩本徹三もまた戦闘303飛行隊に着任している。 西沢と岩本はお互いにライバル視していたようで、普段は寡黙で自分の手柄話をしたことがないという西沢であるが(吉田一『サムライ零戦記者』)、フィリピンで岩本と会い空戦談義となった際は饒舌だったという(角田和男『零戦特攻』)。この二人と同じ航空隊に所属し戦争を生き抜いた安倍正治氏は自身の体験の中で西沢と岩本について触れている(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』、同「私が見た二人の撃墜王《西沢広義と岩本徹三」》『丸12月別冊 撃墜王と空戦』)。

 

西澤廣義関連書籍

武田信行『最強撃墜王』

 本書は西沢氏のかなり綿密な取材のを基に執筆されている。西澤氏の親族への聞き取りや西沢氏自身が書いたノートなどを参考に書いているため信ぴょう性は高いと感じる。西澤廣義の記録としてはこれ以上はない秀作。

 

吉田一『サムライ零戦記者』

 戦場カメラマンとしてラバウルに進出した吉田一氏の著作。太平洋戦争初期の比較的日本軍が優勢だった時期のラバウルだが当初から激しい戦闘が繰り広げられていたのが分かる。吉田氏自身、かなり腹の座った男だったようで、陸攻に同乗したりもしている。興味深いのは、のちに撃墜王を綺羅星の如く排出するようになる台南空の記録だ。

 のちにエース列伝を賑わせることになる、西澤廣義、坂井三郎、太田敏夫等の台南空のエースパイロット達の素顔がみえる。吉田氏は人懐っこい性格だったようで、彼らも本心をさらけ出している。「俺は何機落としたら表彰されるのかな」と不満げな顔の西澤廣義などの描写が面白い。西澤廣義やその他のパイロットについても描写があるので零戦パイロット好きには外せない。

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 私が好きな海軍戦闘機パイロットの一人角田和男氏。エースリストでは撃墜数9機となっていたはずだ。実際に何機だったのかは分からないが、映画やアニメと違って実際には、ほとんどのパイロットは1機も撃墜しない。その中で敵機を1機でも撃墜したというのはすごいことだ。著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。本書の比島の部分に西澤廣義と岩本徹三という二大エースが議論になる部分がある。巴戦(ドッグファイト)に参加しない岩本徹三に対して西澤は、

 

「岩本さん、それはずるいよ」

「でも俺が落とさなきゃ奴ら基地まで帰っちゃうだろ」

 

 それぞれの戦い方が分かるやりとりが面白い。

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。それ以外にも唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。

 

野村了介ほか『空戦に青春を賭けた男たち』

本書は月刊『丸』に掲載された戦闘機パイロットたちの手記を集めたもの。野村了介や柴田武雄という高級士官の手記もある。特にパイロットということで戦闘303飛行隊長であった岡本晴年少佐、母艦戦闘機隊のエース斎藤三朗少尉、その他あまり記録を残していない柴山積善氏等も執筆している。安倍正治氏の手記に西澤廣義とのやりとりについて詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 以上、最強撃墜王西澤廣義についての概略と参考書籍について書いてみた。ネットで調べてもそれなりの情報は出て来るが、さらに詳しく知りたい方は本を読むことをおすすめする。

 

ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

 末期のラバウル航空戦を戦った搭乗員である。あまり知られていないが、ラバウル航空戦においてトップエース岩本徹三、小町定等と共に連日の戦闘をこなした。この市岡二飛曹、実はすごい記録を持っていることが近年の調査により判明した。もちろん私が調査した訳ではない。今日はこの市岡又男二飛曹についてみてみよう。

 

市岡又男二飛曹の経歴

 

略歴

大正14年岐阜県生まれ。昭和17年8月、丙12期予科練に採用。昭和18年7月28期飛練課程を修了。昭和18年9月末ラバウルに展開する204空に配属された。1月26日204空本隊のトラック転進により、トベラ基地の253空に転属、4月19日戦死した。

 

予科練と飛練

 市岡二飛曹は昭和17年8月、丙種予科練12期に採用される。丙種予科練とは下士官兵から選抜するパイロットのコースで以前は操縦練習生と呼ばれていたが航空兵育成は予科練に一本化されたため丙種と呼ばれることとなった。

 同期には19機撃墜の川戸正治郎がいる。飛練とは飛行練習生の略で航空機の初級教育をする課程だ。飛練28期は昭和17年9月に始まり昭和18年7月に終了した。予科練の他のコースと共同で訓練が行われる。この飛練28期だと甲種予科練8期が該当する。甲飛8期は75名が採用されたが、終戦時の生存者は14名、戦死率81%というクラスである。当時のパイロットの戦死率がどれだけ高かったのかが分かるだろう。市岡二飛曹は教育修了後、即座にラバウルに派遣されたようである。

 

撃墜21機で部隊トップ

 さて、前述のすごい記録とは、実はこの市岡一飛曹、戦闘行動報告書によると撃墜21機、岩本徹三の撃墜20機を抜いて253空のトップエースなのだ(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。無論実際に撃墜していたかは誰にも分らないが戦闘行動報告書に記載される戦果であるので空戦技術に関しては部隊内で一定の評価があったと思っていい。

 

市岡又男二飛曹関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日本、連合国軍双方の資料から空戦の実態を可能な限り正確に描き出した労作。実は公文書から確認できる撃墜数では市岡二飛曹がトップであるという。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。後半のエース列伝に市岡二飛曹についても記載がある。

 

まとめ

 

 その後253空本隊はトラック島に撤退するが、市岡一飛曹はラバウルに残ったようだ。昭和19年4月19日不帰の人となる。エース列伝によると撃墜11機、梅本弘氏の調査によると撃墜21機とある。どちらが本当なのかは分からないが才能のあるパイロットだったのだろう。

 

↑このページのトップヘ