トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

251空

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

遠藤桝秋一飛曹の略歴

 

 1920年12月20日福島県に生まれる。1938年6月乙種予科練9期として採用、1940年11月に予科練修了、同月艦爆搭乗員として飛練10期に入隊する。1941年11月飛練10期を卒業と同時に1942年2月まで佐世保空出水派遣隊で戦闘機転換教育を受けた後、2月に台南空に配属された。4月にはラバウル、そしてラエに進出して連日の航空戦に活躍。11月には台南空は再編成のため内地に帰還、1943年5月に251空と改称した台南空隊員として再度ラバウルに進出したが、6月7日の空戦で敵機に体当たりして戦死した。

 

台南空のベテラン遠藤一飛曹

 

 遠藤桝秋一飛曹は乙種予科練9期の出身で同期の戦闘機専修者は23名、さらに艦爆専修者10名と陸攻専修者9名が戦闘機に転科したため戦闘機専修者は最終的には42名であった。太平洋戦争の初期から活躍したクラスで羽藤一志二飛曹、大石芳男中尉、上原定夫飛曹長等著名な搭乗員が多いものの戦死も多かった。開戦一年目の1942年末までには同期の内ほぼ半数にあたる19名が戦死している。1943年には7名、1944年にも7名が戦死、1945年には3名が戦死している。無事に終戦を迎えたのは6名のみであった。

 1941年10月、遠藤一飛曹は艦爆専修者として宇佐空で飛練10期を修了後、翌月より佐世保空出水派遣隊にて戦闘機への機種転換訓練を受ける。1942年2月、訓練終了と同時に当時にバリ島に進出した台南空に合流した。4月1日、台南空は25航空戦隊に編入されラバウル進出を命じられた。4月16日、遠藤一飛曹も台南空隊員としてラバウルに進出、連日の航空戦に活躍した。

 1942年11月になると笹井醇一少佐、坂井三郎一飛曹等、名だたる搭乗員を失った台南空は戦力を再編成するために内地に帰還することとなり、生き残っていた遠藤一飛曹も台南空の貴重な実戦経験者として愛知県豊橋で部隊の再編制にあたった。

 1943年5月、再編成が完了した251空(1942年11月1日に改称)は、5月7日にラバウルに到着、10日には遠藤一飛曹を含む飛行隊も零戦で島伝いに飛行してラバウルに到着した。再びラバウル航空戦に活躍した遠藤一飛曹だったが、1943年6月7日の空戦で第44戦闘飛行隊のヘンリー・マトスン中尉の操縦するP-40と反航で撃ち合った後、衝突して戦死した。

 総撃墜数は14機といわれている。連合軍の損害から算出した遠藤一飛曹のニューギニア航空戦期の戦果が3.1機であり、最後に衝突した1機を含めると4.1機の撃墜ということになる。但し、この3.1機は編隊空戦の結果挙げた戦果を空戦参加者全員で分けた数値の合計なのでより多く撃墜している可能性も全く撃墜していない可能性もある。撃墜数などはただの数字であることを理解しておいてほしい。

 

遠藤桝秋一飛曹の関係書籍

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 

本間猛『予科練の空』

本間猛 著
光人社 (2002/11/1)

 本間猛氏は予科練乙種9期。太平洋戦争で最も活躍したクラスだ。それだけに死亡率も異常に高い。同期は191名。その内167名は戦死、さらに生き残った24名もほとんどが戦傷を受けている。五体満足で終戦を迎えた同期はわずか3〜4名であった。

まとめ

 

 遠藤桝秋一飛曹は乙飛9期の出身で戦闘機専修者42名中終戦を迎えたのはわずか6名であった。他機種に行った同期を含めても全191名中167名が戦死、生き残った同期中戦傷を受けなかった者はわずか3〜4名であったという。遠藤桝秋一飛曹は開戦直後から台南空に所属、251空に再編成されてラバウルに再進出した時に生き残っていた貴重な台南空時代の隊員であったが、僅か1ヶ月後にはラバウルの空に散ってしまった。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 




山崎市郎平一飛曹の略歴

 




 1920年5月5日東京府に生まれる。1937年横須賀海兵団に入団。1940年3月54期操練に採用、1941年5月大分空で実用機課程修了。5月26日横空配属。1942年2月1日4空に配属されラバウル進出。4月1日台南空に異動、8月に負傷し本土へ送還。1943年5月251空隊員として再度ラバウルに進出。7月4日レドンバ島攻撃時の空戦で戦死。

 




奇跡の生還を果たした男

 




 山崎一飛曹は操練54期出身で同期には岡野博飛曹長がいる。戦闘機専修の同期は21名で終戦までに19名が戦死している。戦死率90%以上である。山崎一飛曹は大分空での実用機課程修了後、横須賀航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年2月にはトラック島で新設された4空に配属、4空隊員としてラバウルに進出、そして3月にはラエに進出した。


 1942年3月22日、RAAF(オーストラリア空軍)航空隊がラエ基地に奇襲攻撃をかけた。在地の零戦10数機は全て被弾。出撃できるのは2機のみとなり、山崎一飛曹と菊地敬司三飛曹が迎撃したが、菊地三飛曹はハドソン爆撃機の銃撃により戦死、単機で追跡した山崎一飛曹も銃撃により被弾、不時着している。山崎一飛曹は乗機の零戦に火をかけた後、丸太船を製作しラエに向かうマーカム川を下り始めた。


 2日目に原住民の集落に到着、食べ物や反物を与えることを条件にラエ基地まで送ってもらった。この時、山崎一飛曹は、原住民との約束を反故にすることなく誠実に約束を果たしている。3週間の休養を与えらえれた山崎一飛曹は4月12日に復帰するが、5月17日のポートモレスビー上空空戦で負傷、8月26日にはミルン湾攻撃後の着陸事故で重傷を負ってしまう。


 この重傷により山崎一飛曹はブナで休養後、本土に送還され本格的な治療を受けることとなる。それから数ヶ月後の11月中旬、台南空も消耗した戦力を再建するため内地に帰還。豊橋基地において部隊の再建に取り掛かった。1943年5月再建が完了した251空は再びラバウルに進出。治療・療養を終えた山崎一飛曹も貴重な実戦経験者として再度ラバウルに進出した。


 再度ラバウルに進出した山崎一飛曹は連日の航空戦に活躍したものの7月4日のレンドバ島攻撃時の空戦でコロンバンガラ島に不時着、かつて奇跡の生還を果たした山崎一飛曹はついに帰ってくることはなかった。総撃墜数は14機といわれる。撃墜数を判定することは非常に困難であるが、連合軍の戦闘報告を調べた資料では台南空所属時のニューギニア航空戦での戦果は3.3機といわれている。

 




山崎市郎平一飛曹の関係書籍

 




ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』






ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著

大日本絵画 (2016/2/1)





 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。


 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。山崎一飛曹の生還について詳しく書いてある。

 




零戦よもやま物語 零戦アラカルト






柳田邦男 豊田穣他 著

潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月





 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。台南空時代の同僚石川清治飛曹長による山崎一飛曹の思い出が寄稿されている。

 




まとめ

 




 山崎一飛曹は何度も負傷しているが当然、負傷しているということは連日の戦闘を戦っていたということである。撃墜された際には機体を羅針儀を外した後、機体を焼却。その後筏を自作し帰還するという冷静で合理的な対応をしており、さらに原住民への約束を誠実に果している。冷静かつ誠実な人物であった。

 









 




↓良かったらクリックして下さい。


ミリタリーランキング















01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

大木芳男飛曹長の経歴

 

 1916年茨城県に生まれる。1933年機関兵として海兵団に入団後、整備兵に転科。1937年7月操練37期修了後、戦闘機搭乗員となった。1940年7月横空から12空に異動。初陣で零戦初空戦に参加した。1942年7月台南空に転属後、11月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加した。11月に内地帰還、翌年5月、251空隊員としてラバウルに再進出したが、6月16日空戦中に戦死した。

 

大木飛曹長と台南空

 

 1916年生まれは戦前に十分な訓練を受け、日中戦争で実戦を経験後、25歳で太平洋戦争に参加したという経験に関してはもっとも恵まれた生まれといってよいだろう。同年兵には零戦虎徹岩本徹三中尉、坂井三郎中尉、原田要中尉、武藤金義少尉等、戦後有名になった搭乗員が多い。操練同期はわずか5名で当時流行していた「戦闘機無用論」の影響なのかは分からないが、少数精鋭主義であったことは確かである。この5名の内、終戦まで生き残ったのは零戦初空戦に大木飛曹長と共に参加した三上一禧氏わずか1名で生存率20%という凄惨な状態であった。

 操練課程を修了した大木飛曹長は海軍航空の殿堂といわれる横須賀航空隊を経て12空に配属される。この12空は戦闘機専門部隊として中国大陸に展開していたが、ここに大木飛曹長を含む零戦隊が参加することになった。大陸進出の2ヶ月後の1940年9月13日、大木飛曹長を含む零戦隊は陸攻隊の護衛として出撃する。この出撃は「13日の金曜日」に「13機」の零戦が出撃するという縁起の悪さもあり心配する隊員もいたが、結果として撃墜27機の大戦果を挙げることとなった。ここで大木飛曹長は4機を撃墜したことになっているが、この空戦での個人撃墜数はのちに創作されたものであるといわれている。

 太平洋戦争では米軍のガダルカナル島上陸の直前にラバウルに展開する台南空に配属、有名な搭乗員である坂井三郎一飛曹、笹井醇一中尉、西澤廣義一飛曹、太田敏夫二飛曹等と共に激烈なソロモン航空戦の洗礼を受けることとなった。この台南空は大きな戦果を挙げたものの損害も多く、8月には先任下士官である坂井三郎一飛曹が負傷して内地に送還、さらに笹井中尉が戦死した。9月には歴戦の羽藤一志三飛曹が戦死、10月には太田敏夫一飛曹も戦死するなど消耗が激しく、11月には戦力回復のため愛知県豊橋に後退した。

 1943年5月には戦力の再編成が完了したため再びラバウルに進出するが、この時点で実戦経験者は大木飛曹長、西澤廣義飛曹長、奥村武雄上飛曹等10名程度に過ぎなかった。この時に新たに部隊配属された青年士官大野竹好中尉は特に大木飛曹長と親しかったようで、大木飛曹長をして「勇敢なること鬼神のごとく、温和なること菩薩のごとく、機敏なること隼のごとく」と絶賛している。

 この大木飛曹長も1942年6月16日、ルンガ沖船団攻撃において未帰還となった。総撃墜数は17機といわれているが、毎度のことながら撃墜数というのはほとんど誤認であるといってよく実際の撃墜数は不明であるが、上記大野中尉の評価のように大木飛曹長は腕の立つ熟練搭乗員であったのは間違いない。因みにこの空戦では同じく台南空の奥村武雄上飛曹も未帰還となっている。

 

大木芳男飛曹長 関係書籍

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。

 それ以外にも青年士官大野竹好中尉の絶筆となった日記も貴重である。唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。大木飛曹長は上記大野中尉の日記中に登場する。

 

まとめ

 

 大野中尉の絶筆の日記をみると大木飛曹長の人柄の良さが伝わってくる。実戦経験が皆無であった大野中尉にいろいろと操縦について教えていたのだろう。その大木飛曹長は操練を修了後、横須賀航空隊勤務、最初の零戦搭乗員として戦地に進出するなど経歴からみても操縦技術が高く評価されていたのが分かる。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

↑このページのトップヘ