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204空

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(画像はwikipediaより転載)

 

酒井等飛曹長の略歴

 

 1941年10月、甲種予科練9期生として採用、1943年1月には飛練30期に進み、大分空で戦闘機の延長教育を受けた。同年11月から2ヶ月間、厚木空で零戦の搭乗訓練を受けた後、ラバウルに展開する253空に派遣された。その後204空に異動した後、内地に帰還、352空に配属された。

 

知られざる撃墜13機のエース

 

 酒井飛曹長は甲種予科練9期の出身である。甲種予科練とは搭乗員の不足が問題視されたために1937年5月に新設された制度でそれまでの予科練の応募資格が高等小学校卒または中学2年を修了した15歳から17歳までの男子であったのに対して、甲種は16歳から19歳までの中学校3年半以上修了であった。この制度の成立によってそれまでの予科練は乙種と呼ばれることとなった。

 甲種は、中学校で1年以上余計に勉強しているため予科練の訓練課程が乙種よりも短く、乙種が2年半であった教育期間は甲種では1年半であり、昇進も乙種に比べて早かった。しかし乙種の合格者の多くは中学校2年以上を修了しており、実質的な学力は同等であったことや「乙」という名称を与えられたこと、戦後の学歴認定でも不利があったこと等から甲乙間の対立の原因ともなった。

 この甲種はのちに大量の特攻要員を送り出すことになるのだが、酒井飛曹長が採用された甲種9期はのちの13期等に比べればまだまだ「少数精鋭」の時代であった。戦闘機専修の同期は81名(酒井飛曹長の記憶では60名)で半数が母艦航空隊、半数が基地航空隊に振り分けられたという。半数が母艦というのはかなり特異に感じられるが、1943年秋という時期は、い号作戦、ろ号作戦で多くの母艦搭乗員を失っており、母艦戦力の拡充が重要視されたのであろう。

 酒井飛曹長は基地組の組長として同期を統率、大分空で九六艦戦での延長教育を修了後、零戦搭乗の訓練を受けるために厚木空に配属された。この厚木空とはのちの302空とは異なる練習航空隊で1943年4月に編成、のちに203空となった部隊である。ここで2ヶ月間零戦の搭乗訓練を受けた酒井飛曹長は何とそのまま激戦地ラバウルに送られることとなった。

 酒井飛曹長が配属された部隊は253空で1942年9月以来ラバウルに展開するベテラン部隊である。酒井飛曹長が配属された1943年暮れという時期はラバウル航空戦も末期となり、海軍航空隊はほぼ防戦一方になっていた時期で、岩本徹三中尉、小町定飛曹長等が活躍していた時期でもある。

 このような激戦地に訓練を終えたばかりの酒井飛曹長以下10数名が着任するが、253空がラバウルからトラック島に後退、連日の空戦を続ける中で生き残った同期は酒井飛曹長含め、わずか4名となってしまった。しかしこの4名の内2名もその後の戦闘で戦死しており終戦を迎えることが出来たのは2名のみであった。この激戦地から生き残ることができた酒井飛曹長は253空と同じくトラック島に後退した204空に異動、さらに佐世保の352空付として内地に帰還した。

 352空とは1944年8月に編成された防空を主任務とする部隊で主に佐世保等の防空を管轄していた部隊であった。352空に配属された酒井飛曹長は本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。総撃墜数13機といわれている。

 

酒井等飛曹長の関係書籍

 

ああ”予科練”―甲種飛行予科練習生の記録

福本 和也 著
講談社 (1967/1/1)

 甲種予科練の記録で三部から成り、第一部が予科練の歴史、第二部が予科練の生活、第三部が甲種予科練出身者の手記である。この手記には甲飛2期から14期までの多彩な元搭乗員が寄稿している。ほとんど世間では知られていない撃墜王である酒井等氏が寄稿しているのも魅力。

 

まとめ

 

 甲飛9期の戦闘機専修者は81名(酒井等氏の記憶では60名)で終戦まで生き残った隊員はわずか21名であった(『海軍戦闘機隊史』より)。訓練終了時には戦局はすでに劣勢になっており、そのまま最前線に送られた隊員も多い。そのため1944年の一年間で戦死者60名中44名の隊員が戦死している。生き残った隊員の中には紫電改で編成された防空戦闘機隊343空に配属された隊員も多い。命がけで得た技術や経験が本土防空戦に必要とされたのだろう。

 

 

 


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(画像はwikipediaより転載)

 

羽切松雄中尉の略歴

 

 1913年11月10日静岡県に生まれる。1932年横須賀海兵団に入団。1935年2月操練28期に採用された。8月に操練を卒業、館山空で戦闘機の延長教育を受けたのち、11月大湊空に配属、1937年10月には空母蒼龍に配属された。1938年5月には蒼龍飛行機体は中国大陸に進出、羽切三空曹は初めて実戦を経験する。1939年12月横空に異動、十二試艦戦の試験に参加。1940年8月には12空付となり、零戦隊初出撃に参加した。1941年7月筑波空教員として内地に帰還。1942年8月横空に再配属されるが、1943年7月には204空に配属、ソロモン方面に進出したが、9月24日のブイン上空の空戦で重傷を負い本土に帰還、横空に配属され、終戦まで試験と防空任務に活躍した。

 

新型機の実用試験と実戦に活躍した横空の主

 

 羽切松雄中尉は操練28期出身で同期の戦闘機専修者は14名であった。しかし戦闘機不要論の影響を受けて3名が陸攻に転科させられてしまったため11名が戦闘機に進んだ。太平洋戦争終戦を迎えれれたのは4名で、3名が事故死、3名がラバウル、不明が1名である。

 操練を卒業した羽切中尉は館山で戦闘機搭乗員としての延長教育を受けたのち、大湊空に配属された。この大湊空は耐雪、耐寒訓練を行う海軍唯一の航空隊で羽切中尉は各種試験に参加することとなった。1937年10月には空母蒼龍に配属、名指揮官で有名な横山保大尉の2番機となった。

 1938年5月には蒼龍戦闘機隊は南京に進出、羽切中尉は初めて実戦を経験する。約1年半の戦地勤務ののち1939年12月には内地に帰還、横空付となる。ここで羽切中尉は十二試艦戦の性能試験を担当することになる。この十二試艦戦とはのちの零戦である。1940年8月には12空に異動、再び戦地勤務となる。

 零戦と共に進出した羽切中尉は零戦と共に漢口に進出、8月19日の零戦初出撃に参加した。この羽切中尉の経歴の中で強烈なのが「敵飛行場強行着陸」である。これは10月4日に東山市郎空曹長、中瀬正幸一空曹、大石英男二空曹が行ったもので敵飛行場に強行着陸、直接放火しようというもので効果はほとんどなかったが、この敵中着陸は新聞で大きく報道されることとなった。

 その後も多くの空戦に参加した羽切中尉であったが、1941年7月、筑波空教員として内地に帰還した。1942年7月には飛曹長に昇進、准士官学生として准士官の基礎を学んだ後、8月には再び横空に配属された。ここで再び零戦や雷電等の各種実用実験に参加したが、零戦の荷重実験の際、8.6Gの重圧に耐えたのは脅威である。

 その羽切中尉1943年7月、204空付きを命じられラバウルに進出する。ここで羽切中尉は初めて太平洋戦争での実戦を経験する。この204空で2ヶ月間、中隊長として連日のように出撃、空戦に活躍したが、9月23日ブイン上空の空戦で右肩を被弾、重傷を負い内地に送還された。再起は不可能といわれたが、羽切中尉は驚異的な精神力でリハビリを実施、なんと半年で実戦部隊に復帰した。その後は横空で実用実験と防空任務にあたっていたが、1945年4月12日、B-29迎撃で右膝を負傷、療養中に終戦を迎えた。

 戦後は故郷の青年団長となり犯罪集団と化した青年団をまとめ上げた。これは戦場で死線を超えた羽切中尉にのみ出来た仕事であったといえる。それがきっかけとなり市議に当選、市議を4期務めた。1967年には自民党より立候補、静岡県議員となった。1983年には選挙で落選、以降は政治家を引退、1991年までトラック協会会長を務めた。前立腺がんにより1997年1月15日他界。総撃墜数は単独15機、協同撃墜10機といわれている。

 

羽切松雄中尉の関係書籍

 

大空の決戦―零戦搭乗員空戦録 (文春文庫)

羽切松雄 著
文藝春秋 (2000/12/1)

 零戦の実用実験から携わったベテラン搭乗員の羽切氏。零戦の初出撃にも参加、太平洋戦争では激戦地ラバウルで准士官でありながら中隊長として列機を率いて活躍した。本土防空戦でもB-29相手に激闘。敵飛行場強行着陸や8.6Gの重力に耐えた強心臓の持ち主。1997年に他界。

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 海軍の戦闘機搭乗員へのインタビュー集。インタビュアーは神立尚紀氏。神立氏独自の人間関係から出来たといえる本でそれぞれの搭乗員の魅力をよく引き出している。登場する搭乗員は日本で初めて敵機撃墜を記録した生田乃木次、鈴木實、進藤三郎、羽切松雄、原田要、角田和男の各氏。

 

まとめ

 

 操練28期の戦闘機専修者11名の内、太平洋戦争開戦前に戦死した隊員は3名、1名は不明であるが、開戦後に戦死した隊員の内3名がソロモン方面での戦死であった。羽切中尉もソロモン方面で重傷を負っており、操練28期は太平洋戦争での戦死者がソロモン方面の3名のみであることからもソロモン方面の戦闘がどれほど過酷であったのかが分かるであろう。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

松村百人少尉の略歴

 

 1915年9月21日山口県に生まれる。1934年海軍に入隊。整備兵を経て航空兵となる。1935年11月29期操練卒業。日中戦争勃発と共に12空隊員として上海に進出。12月13空付。1938年3月12空付。1939年1月赤城乗組、ついで岩国空、大分空の教員を経て1942年7月6空に配属された。8月にラバウルに進出、1943年4月飛曹長進級、内地に帰還、岩国空、鈴鹿空、神ノ池空で教員配置。1944年8月、601空戦闘161飛行隊に異動。10月24、25日にはエンガノ沖海戦に参加、母艦が撃沈されたため不時着、駆逐艦初月に救助されるも初月が撃沈されてしまったため行方不明、戦死と認定された。

 

2度の母艦戦闘機隊勤務

 

 松村百人少尉は操練29期出身で太平洋戦争時にはベテラン中のベテランであった。操練は大雑把に書くと、太平洋戦争開戦時には30期が中堅、40期以降は若手と考えると分かりやすい。10期、20期台は超ベテランクラスで30期台の搭乗員の教員クラスである。松村少尉は20期の最後のクラスで太平洋戦争開戦時には中堅クラスと考えて良い。

 操練29期は11名で1935年5月から訓練が始まり、同年11月に修了している。日中戦争勃発時には技量、経験共に完全な状態であったといえる。一般には日中戦争の空戦は日本軍の一方的勝利と思われがちであるが、中華民国空軍の搭乗員の技量も決して低い訳ではなかった。現に操練29期は日中戦争において約半数の5名が戦死している。

 松村上飛曹は日中戦争勃発時から参加、日中戦争で不確実含め10機の撃墜を報告している。日中戦争の撃墜数のトップが岩本徹三上飛曹の14機なので撃墜数でいえばかなり上位であるが、撃墜数自体、誤認が非常に多いためあまり当てにはならない。ともかく手練れの搭乗員であったことは間違いないであろう。松村上飛曹は中国大陸に展開する12空、13空と渡り歩き、1939年1月には空母赤城戦闘機隊に配属された。

 太平洋戦争開戦は内地での教員勤務で迎えるが、1942年7月には6空に配属された。6空はミッドウェー島進出予定の航空隊であったが、ミッドウェー海戦で日本軍が敗北したため内地での再編成の後、8月にはラバウルに進出した。以降、6空は後に204空と改称されてからもラバウル航空戦の中核となって戦い続けた部隊で1944年初頭までラバウルに展開、空戦に活躍した部隊である。

 松村上飛曹は米軍がガダルカナル島に上陸した8月にラバウルに進出して以降、ガダルカナル島進攻やブイン基地での迎撃戦等に活躍する。1943年4月には飛曹長昇進、内地での教員配置を命じられた。「搭乗員の墓場」と言われたラバウルで7ヶ月以上戦い生き残ったというのは奇跡的である。内地に帰還した松村上飛曹は岩国空、鈴鹿空、神ノ池空と1年以上教員配置についていたが、1944年8月再び実戦部隊に配属された。配属された部隊は601空戦闘161飛行隊で隊長は海兵67期のベテラン士官小林保平大尉であった。601空には他にも後輩にあたる岩井勉中尉や中仮屋国盛少尉等のベテランも在籍していた。

 因みに母艦航空隊は一回母艦に乗った後、陸上航空隊に勤務した後に母艦に戻るという「出戻り」は基本的にほとんどないため非常に珍しい事例である。この時点での601空はマリアナ沖海戦で部隊がほぼ壊滅、再建中であったが、10月には捷号作戦の発動により出撃、24、25日のエンガノ岬沖海戦では、松村飛曹長は母艦の上空直掩に活躍するが、母艦瑞鶴が撃沈されてしまったため海面に不時着、駆逐艦初月に救助された。

 しかしこの初月も米艦隊に包囲され撃沈、同様に救助された小林保平大尉と共に行方不明、戦死と認定された。総撃墜数は13機といわれており、その内約半数は日中戦争での戦果である。歴戦の搭乗員であった松村飛曹長は航空戦ではなく救助された駆逐艦の撃沈で戦死するというその最期は、日本海軍のトップエースといわれた西澤廣義飛曹長の最期と被らなくもない。

 

まとめ

 

 操練29期は11名、日中戦争で5名が戦死、太平洋戦争でさらに4名が戦死した。終戦を迎えられたのは2名のみで日中戦争、太平洋戦争での搭乗員の犠牲がどれだけ激しかったのかが分かる。特徴的なのは半数が日中戦争で戦死していることである。日中戦争も決して楽な戦いではなかったのである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

柴垣博飛長の略歴

 

 1924年12月9日新潟県に生まれる。1942年5月海兵団に入団。8月丙飛12期生として岩国空に入り、飛練28期を経て1943年7月卒業、同年秋201空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月204空に異動、1月22日に戦死する。

 

十分な訓練を受けられずに戦線に投入される搭乗員

 

 柴垣博飛長は、丙飛12期で同期には川戸正治郎上飛曹、市岡又男上飛曹等がいる。太平洋戦争開戦後に採用されたクラスで本当の「戦中派搭乗員」といえる。搭乗員育成はすでに大量育成となっており、戦前のように一人の教員が少数の訓練生を教える方式ではなくなっている。このため十分な訓練を受けられずに戦地に送られることとなり、多くの戦死者を出すこととなる。

 丙飛12期が訓練を修了した1943年秋の航空戦の主戦場はラバウルであったが、すでに日本軍は迎撃戦が主体となっており、勝敗ははっきりしていた。海軍の搭乗員から「搭乗員の墓場」といわれたソロモン・ラバウル航空戦の中でも特に激しい空戦が行われたのがこの時期のラバウル航空戦であった。柴垣飛長を含む丙飛12期の新人搭乗員はこの後期のラバウル航空戦に十分な訓練を受けることなく投入されたのであった。

 このような状況の中でも丙飛12期の若年搭乗員達は奮闘、市岡又男上飛曹や川戸正治郎上飛曹等は二桁に及ぶ撃墜戦果を報告するものもあった。むろん撃墜戦果はほとんどが誤認であり、実際の数は不明であるが、周りを納得させるだけの技量は身に付けていたのであろう。柴垣飛長も11月7日の空戦で初戦果を報告、1944年1月22日の空戦で戦死してしまうが、それまでに13機の撃墜を報告している。

 

柴垣博飛長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

まとめ

 

 後期のラバウル航空戦は特に凄惨であった。休暇は十分に与えられず搭乗員が一人また一人と戦死していく地獄の戦場であった。丙飛12期の隊員達はこのような中でも技量を磨いていった。しかし戦死した者も多く、海軍航空隊の主要部隊がラバウルを後退するまでの数ヶ月間に20名以上の隊員が戦死している。さらに丙飛12期の隊員達の試練は続き、むしろ主戦場がラバウルから中部太平洋に移ったのちに丙飛12期の隊員のほとんどは戦死していく。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

高橋健一飛曹長の略歴

 

 1924年5月5日長野県に生まれる。1940年乙13期予科練入隊。1943年3月飛練26期を修了。名古屋空で延長教育を受け、厚木空に配属。9月末204空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月末204空がトラック島へ後退したため253空へ異動、引き続きラバウル航空戦に活躍した。2月中旬253空とともにトラックへ後退。1944年6月、潜水艦で本土へ帰還。7月には戦闘308飛行隊に配属。221空に編入され、10月には捷号作戦に参加。比島で連日の空戦に活躍した。1945年1月内地に帰還、筑波空の教員として終戦を迎えた。

 

地獄のラバウルから生還

 

 高橋健一は乙飛13期出身で同期の戦闘機専修者は49名で同期には柴山積善飛曹長がいる。終戦までに38名が戦死、11名が終戦を迎えることができた。死亡率71%である。高橋飛曹長は1940年6月に予科練に入隊、1942年4月に修了している。予科練は当初は3年間であったが、戦局の悪化から短縮され、高橋飛曹長の期では2年に短縮されていた。

 4月に予科練を修了、5月からは飛練26期に進んだ。このクラスは丙飛10期と合同で行われており、「トッカン兵曹」として有名な小高登貫上飛曹も共に訓練を受けていた。ここで基礎的な操縦を学んだ高橋飛曹長は、名古屋空で延長教育を受け、厚木空に配属、さらに数ヶ月後にはラバウルに展開する204空へと配属された。厚木空は1943年4月に開隊した艦隊搭乗員の錬成部隊なので当初は艦隊搭乗員として採用されていた可能性もある(前述の小高上飛曹も艦隊搭乗員として訓練を受けた後、202空に配属されている)。

 1943年9月末、「搭乗員の墓場」ラバウルに送り込まれ、連日の航空戦に活躍する。この時期のラバウル航空戦では日本軍はすでに守勢にまわっており少数の兵力で米軍の大兵力を相手にしていた。訓練を終えて間もない高橋二飛曹を含む乙飛13期の隊員たちはわずか3ヶ月で6名が戦死している。この中で高橋二飛曹は連日の航空戦に活躍した。12月17日には荻谷信男上飛曹の3番機として出撃、P39エアコブラ1機撃墜を報告したが、この日撃墜されたP39はない。

 1944年1月末には204空がトラック島に後退したため、高橋飛曹長は同じくラバウルに展開する253空に転入、2月中旬まで連日の空戦に参加したが、253空もトラック島に後退に伴い、高橋一飛曹もトラック島に後退した。6月19日の米機動部隊のサイパン攻撃に対抗するため253空も零戦隊をサイパンに向かわせた。この時、高橋一飛曹は指揮官岡本晴年少佐の2番機として参加するが、グアム島着陸寸前に敵機の攻撃を受けた。辛うじて着陸、生還した。

 生還した高橋一飛曹は陸攻でトラックに戻り、そこから潜水艦で内地に帰還した。7月、221空戦闘308飛行隊に配属、10月には捷号作戦参加のために比島に進出、連日の空戦に参加、1945年1月には内地に帰還して筑波空教員として終戦を迎えた。総撃墜機数は14機といわれている。

 

高橋健一飛曹長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記2: 昭和18年8月-11月、ブイン防空戦と、前期ラバウル防空戦

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中2巻では1943年8月から11月までのラバウル航空戦を描く。

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』

川崎浹 著
トランスビュー 2003/8/15

 高橋飛曹長と同じ時期に同じ部隊で戦った小町定飛曹長へのインタビュー本で、単独インタビュー形式で小町氏の戦中戦後の経験が描かれている。小町氏はラバウル航空戦当時、若手搭乗員に分類される方であったが、部下からの人気は高く、列機の位置を巡って部下同士が喧嘩になったこともあったという人望のある人物で、この小町氏の経験と魅力を著者の川崎氏は上手に引き出すことに成功している。

 戦後のパイロットの自著や手記によって撃墜50機、60機撃墜等、多くの撃墜数を自称しているパイロットに関してほとんどは部隊の戦果を自分の戦果と混同してしまっているという指摘などは実際に戦った元搭乗員の指摘としては非常に説得的である。

 

まとめ

 

 高橋飛曹長は1924年生まれ、激戦のラバウルに派遣された時はまだ19歳であった。この時期にはすでに搭乗員が不足しており、高橋飛曹長ら訓練が終わったばかりの若年搭乗員すらも最前線のラバウルに投入される状態であった。このため乙13期の隊員はわずか半年の間に13名がラバウルで戦死している。その後も中部太平洋、ボルネオ島、比島と激戦地で戦い続け、1944年1年間の間にさらに20名の同期が戦死している。さらに沖縄航空戦、本土防空戦でも3名が戦死。その他戦死、事故死を含め、結局、終戦を迎えられたのは49名中11名のみであった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

尾関行治少尉の略歴

 

  1918年2月2日愛知県に生まれる。1935年呉海兵団入団。1936年1月32期操練に採用。7月大村空に配属。1937年12月12空に配属、中支戦線に出動する。1938年10月内地に帰還、佐伯空、大村空、元山空を経て、1941年9月3空に配属、太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に参加した後、1942年4月、内地に帰還、6空に配属された。6月には6空隊員としてダッチハーバー攻撃に参加、同年末204空隊員としてブイン基地に進出、ソロモン航空戦に活躍する。1943年5月内地に帰還して厚木空に配属、1944年2月203空戦闘304飛行隊に異動、10月捷号作戦の発動によりフィリピンに進出、10月24日(15日)米機動部隊攻撃で未帰還となり戦死と認定された。

 

海軍の至宝と呼ばれた男

 

 尾関行治少尉は操練32期出身で同期の戦闘機専修者は9名と少数精鋭の時代である。同期には「空の宮本武蔵」と言われた武藤金義少尉、末田利行飛曹長等がいる。この32期は太平洋戦争終戦までに全員が戦死しており、生存率0%である。尾関少尉は操練修了後大村空、さらには1937年12月、中国戦線にある12空に配属、そこから1年余りを戦地で過ごした。1938年10月には内地に帰還。教員配置に就いたのち、1941年9月には新編の3空に配属、太平洋戦争の開戦を迎えた。

 開戦後は比島蘭印航空撃滅戦に参加、多くの空戦に参加した後、1942年4月内地に帰還、新たに編成された6空に配属された。6月には空母隼鷹に便乗、ミッドウェー作戦の一環であるダッチハーバー攻撃に参加したが、ミッドウェー海戦で機動部隊が壊滅したため本土に帰還した。同年末、204空と改称された6空は南東方面に進出、ブーゲンビル島ブイン基地に展開して連日の空戦を戦った。

 1943年3月にはい号作戦のためラバウルに進出してきた同年兵の母艦戦闘機隊員岩井勉飛曹長と再会、「今まで一人として内地へ帰された者はいない」と壮絶な現実を告げている。このソロモン方面は航空隊員にとって「搭乗員の墓場」と呼ばれた場所で連日の戦闘の緊張感のためか温和であった尾関上飛曹は部下に鉄拳制裁を行ったりもしている。これに対して鉄拳制裁を受けた島川正明飛曹長は、のちに下士官となって受けた鉄拳制裁に対して不快感を語っている。

 1943年5月には尾関飛曹長は幸運にも内地に帰還、厚木空に配属された。この厚木空は後の302空と異なる錬成部隊で1944年2月には203空と改称されている。203空所属となった尾関上飛曹は名指揮官岡嶋清熊少佐率いる戦闘304飛行隊に配属、3月末には千歳基地、4月には北千島に進出して防空任務についた。

 10月になると捷号作戦の発動により、尾関飛曹長は戦闘304飛行隊の一員として南九州から台湾と進出。フィリピン島バンバン基地に進出した。この移動の最中、南九州で同年兵の乙飛5期の角田飛曹長に会いに行っている。この時には海軍航空隊の多くが比島に移動していたため、他にも西澤廣義飛曹長、岩本徹三飛曹長、母艦戦闘機隊の斎藤三郎飛曹長、長田延義飛曹長等の名うての搭乗員が角田飛曹長のところに集まった。

 その後、台湾、フィリピンと進出した尾関飛曹長は1944年10月米機動部隊攻撃に出撃未帰還となった。戦死日は15日とも24日とも言われている。総撃墜数は14機以上と言われており、6空時代に部下であった杉野計雄飛曹長は温和な人柄であったと後に語っている。さらに上官であった志賀淑雄少佐は尾関飛曹長について「上海事変、支那事変、大東亜戦争において比島上空で未帰還となるまで、烈々たる闘志と非常なる技量を持って、撃墜に撃墜を重ねた男。典型的な戦闘機乗りなりき」と評価していた。

 

尾関行治少尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

空母零戦隊―海軍戦闘機操縦10年の記録 (1979年) (太平洋戦争ノンフィクション)

 乙飛6期出身の母艦戦闘機隊で活躍した搭乗員岩井勉中尉の海軍生活10年の記録。岩井中尉は零戦の初空戦に参加した搭乗員で戦後も生き残った数少ない搭乗員。日中戦争、太平洋戦争と戦ったがその間に一度も被弾しなかったという腕と運を持ち合わせている。

 

まとめ

 

 尾関行治少尉は同期である武藤金義少尉と共に海軍の至宝と呼ばれたほどの名うての搭乗員であった。碁の名人であり、後々まで杉野計雄飛曹長は碁を見るたびに尾関少尉を思い出すという。この操練32期は多くの名人級の搭乗員を排出したが、1944年末までに武藤少尉以外は全て戦死している。その武藤少尉も終戦直前の7月24日、豊後水道での空戦で帰らぬ人となった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

日高義巳上飛曹の経歴

 

 1919年鹿児島県屋久島に生まれる。1936年佐世保海兵団に志願。1937年には重巡足柄乗組となりジョージ6世戴冠記念観艦式の招待艦乗組員としてイギリスに派遣される。1939年6月操縦練習生48期に採用され戦闘機搭乗員となる。1940年1月操縦練習生修了。1941年10月1日台南空に配属される。その後204空に異動、1943年4月18日、山本五十六大将乗機が撃墜された際には護衛を務めた。同年6月7日、「ソ」作戦に参加。戦闘中未帰還となる。

 

死亡率77%の操練48期

 

 日高上飛曹は操練48期、同期の戦闘機専修は13名で、中にはラバウル航空戦で2週間で18機を撃墜した記録を持つ荻谷信男上飛曹もいる。操練の40、50期クラスは太平洋戦争中に中堅搭乗員として酷使されたクラスで13名中、3名が開戦前に戦死、開戦一年後にはさらに3名が戦死、1943年には日高上飛曹を含む2名が戦死、1944年には萩谷信男上飛曹を含む2名が戦死している。終戦まで生き残ったのはわずか2名(または3名)、死亡率77%というクラスであった。戦死後、当時の204空司令杉山丑衛大佐が肉親へと宛てた手紙によると撃墜20機とある。

 

日高義巳上飛曹関係書籍

 

高城肇『六機の護衛戦闘機』

高城肇 著
光人社; 新装版 (2011/8/1)

 『大空のサムライ』のゴーストライターであった高城肇氏による著作。山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜された「海軍甲事件」時に護衛を務めた6機の零戦の6名のパイロットを描く。彼らの内、戦争を生き残ったのは右腕を切断する重傷を負った柳谷謙治氏1名のみ。その他のパイロットはわずか2ヶ月前後で戦死してしまう。柳谷以外に唯一、ラバウルから生還した杉田庄一も昭和20年に戦死するという壮絶な記録。

 本書は日高上飛曹の親族に取材して書いたもののようで日高上飛曹が親へ宛てた手紙、杉山司令から親への手紙等の内容が詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 日高上飛曹は山本五十六大将戦死時の護衛戦闘機6機の内の1機として有名である。日本の搭乗員全般に言えることであるが、日高上飛曹の出身期である操練のこの前後のクラスは特に酷使されており非常に生存者が少ないクラスである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 石原進は甲飛3期出身で総撃墜数は16機とも30機ともいわれている。日中戦争、太平洋戦争に参加して戦後は航空自衛隊のパイロットとなったが事故により殉職した

 

石原進の経歴

 

概要

 1921年愛知県生まれ。1938年10月甲飛3期生として予科練に入隊。1940年4月飛練1期入学。1941年4月飛練課程を卒業。1空に配属、中国戦線に参加。1941年10月台南空配属。東南アジア方面の航空撃滅戦に参加する。1942年4月帰国。徳島空教員となる。1943年6月582空に配属。ラバウルに進出する。まもなく204空に異動。同年12月202空に異動。1944年3月202空は22航戦に編入され、トラックに移動、石原は激烈な中部太平洋の戦闘をくぐり抜けていった。同年7月、202空の解散により呉空に転じて本土へ帰還する。以降、終戦まで332空で終戦まで活躍した。

 

1921年生まれの撃墜王

 石原は1921年生まれである。この1921年生まれには撃墜王が多い。太平洋戦争開戦時には20歳で終戦時は25歳というパイロットとしては若干若くはあるが、時代が20歳の若者を熟練搭乗員に育て上げたといっていい。同年のエースとしては、32機撃墜の杉野計雄(32機撃墜)、島川正明(8機撃墜)、大野竹好(8機撃墜)、神田佐治(9機撃墜)、国分武一(14機撃墜)、関谷喜芳(11機撃墜)、佐々木原正夫(12機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、大原亮治(16機撃墜)、伊藤清(23機撃墜)、増山正男(17機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、白浜芳次郎(11機撃墜)、菅野直(25機撃墜)、堀光雄(10機撃墜)等、エースだらけである。

 ただ、年齢は同じでも出身によって実戦経験の長さは異なる。1921年生まれは海兵では69期、70期、甲飛では3期、4期、乙飛では9期、10期、操練・丙飛では2期が一番多い。石原は1921年生まれで実戦に参加したもっとも早いクラスであろう。石原以外のほとんどのエースは太平洋戦争が初めての実戦であったが、石原は飛練卒業と共に4月10日に新編された第1航空隊に配属となり中国に進出した。しかし空戦の機会はなかったようで、初陣は太平洋戦争初期の航空撃滅戦である。

 

ラバウル航空戦に参加

 開戦時は台南空に所属し、航空撃滅戦を展開する。台南空は4月にラバウルに進出するが、石原はここで内地帰還組となる。内地帰還後は徳島空で教員となるが、582空付に発令され、石原も1年遅れでラバウル航空戦に参加することになる。以降、204空に異動しつつもラバウル航空戦で活躍した。1943年12月、204空から南西方面の202空への転属となった。

 この202空とはポートダーウィン空襲を行った3空が1942年11月の改変で名称変更されたものであり、この時期に至っても高い練度を維持し解隊するまで無敗だったといわれる海軍航空隊でも稀有な航空隊であった。以降、202空隊員として後期の中部太平洋地域での戦闘に参加した。この202空は、のちに戦闘301飛行隊と戦闘603飛行隊に別れるが、石原は301飛行隊に所属していたようだ。

 

332空配属、そして戦後

 その後、1944年7月、本土に戻り呉防空の局地戦闘機部隊332空に配属され、局地戦闘機雷電で以て本土防空戦に活躍した。戦後は航空自衛隊に入隊し再びパイロットとしての道を歩むが事故により殉職する。撃墜数は30機ともいわれる。公式記録では16機が確認できるようだ。

 

 

荻谷信男
(画像はwikipediaより転載)

 

 荻谷信男は48期操縦練習生出身で生涯に撃墜した敵機は24機と言われている。当時、海軍航空隊内部でも坂井三郎や岩本徹三という名は知れ渡っていたという。しかし、逆に荻谷は当時ほとんど部内でも知られることがなかった搭乗員であったようだ。それは初空戦が1943年暮れというかなり遅い時期だったことも理由であろう。初空戦後は、円熟の技量で戦果を挙げたが、残念ながら昭和19年2月には未帰還となってしまった。

 

萩谷信男の経歴

 

 1918年茨城県生まれ。1938年海軍に入隊。1940年1月48期操練を卒業。千歳空に配属されルオット島で開戦を迎えた。その後281空に異動。北千島に進出する。1943年11月281空派遣隊としてラバウルに進出、204空所属となる。1944年1月末253空に異動。2月13日未帰還となる。

 荻谷は1918年生まれ、操練48期を修了した後、千歳航空隊に配属される。荻谷が配属された千歳航空隊には後にトップエースとなる西沢広義、ラバウルの撃墜王福本繁夫等が配属されていたが千歳航空隊はこんなもんじゃない。さらに輪島由雄(11機撃墜)、阿武富太(10機撃墜)、国分武一(11機撃墜)、山本留蔵(11機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、渡辺秀夫(16機撃墜)、志賀正美(15機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、長野喜一(18機撃墜)等が配属されているという何だかんだで凄い部隊なのである。

 千歳航空隊はマーシャル諸島の防空任務ののち一部の隊員は、トラック島、ラバウルに展開し、後に搭乗員は台南空に編入され熾烈なラバウル航空戦に加わることになる。のち201空と呼称される千歳空本隊も1943年7月にはラバウル方面へ進出する。荻谷は違う。北千島に展開する281空に配属される。この281空、何故か岩本徹三がいるのだ。

 北千島で岩本達と鮭の捕獲をしたりして盛り上がっていたが、281空にも、とうとうラバウル進出の命が下る。1943年11月、春田虎二郎中尉以下、岩本徹三、萩谷信男等16機がラバウルに進出。荻谷達281空搭乗員は204空、253空と異動し連日の航空戦を戦い抜いた。その間、13日間に18機撃墜という海軍最高密度の撃墜記録を挙げる。

 日本海軍では採用されていないが、欧米では5機以上撃墜したパイロットはエースと呼ばれる。たった5機である。逆に言えば5機を撃墜することが非常に難しいということである。ほとんどのパイロットは5機も撃墜できない。それを荻谷は2週間弱で18機撃墜したのである。これがどれだけすごいことなのかは分かって頂けると思う。

 萩谷は海軍に入るのが遅く、開戦後も平穏な地域に配属されることが多く、初空戦が25歳という珍しい搭乗員である。しかしそれまでの訓練は伊達ではなかった。突然熾烈なラバウル航空戦に参加し、わずか3ヶ月の間に24機を撃墜するという記録を残した名パイロットであった。

 

萩谷信男関連書籍

 

岩本徹三『零戦撃墜王』

岩本徹三 著
光人社NF文庫 2004/8/1
 

 戦記に詳しい人には有名な海軍のトップエース岩本徹三少尉の本。岩本徹三氏は日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ第一線で戦い続けた稀有なパイロット。総撃墜数は216機で内、ラバウル航空戦で142機を撃墜したと自称していた 岩本徹三氏は戦後10年を待たずして敗血症により他界してしまう。岩本氏は戦中から日記を付けており、その日記を基に戦後執筆したのが本書だ。萩谷信男と同部隊に所属した熟練パイロット。本書中に萩谷の顔写真が出ている。

 

 

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 渡辺秀夫飛曹長は太平洋戦争開戦直前に訓練が終了。太平洋戦争で実戦に参加した戦中派パイロットである。弱冠23歳の下士官でありながら部隊を指揮したこともある実力派であった。総撃墜数はエース列伝によると16機、本人によると共同撃墜含め48機だそうだ(『零戦最後の証言 2』)。

 

渡辺秀夫飛曹長の経歴

 

略歴

 大正9年福島県出身。昭和12年海兵団入団。昭和15年11月予科練丙飛2期に採用される。その後第12期飛練に進み、開戦直前の昭和16年11月飛練を修了。延長教育の後、昭和17年3月マーシャル諸島に展開する千歳空に配属された。昭和18年3月204空に異動、ラバウル、ブインに進出する。8月26日空戦中に重傷を負った後本土に送還される。昭和20年6月輸送部隊である1081空配属で終戦を迎える。戦後は村役場、市役所で定年まで勤めた。2002年6月3日死去。

 

ラバウルでの活躍

 渡辺飛曹長は丙種予科練2期。多くの撃墜王が排出したのと同時に多くが戦場で散って行ったクラスである。同期には宮崎勇飛曹長、伊藤清飛曹長等がいる。渡辺飛曹長は多くの撃墜王がそうであるようにラバウルに派遣された。そこで連日の空戦に参加することとなる。8月26日の空戦では負傷し、意識を失いながらも不屈の闘志をもって基地上空まで帰投した。

 この壮烈な戦闘と不屈の闘志に対し南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は”武功抜群”と墨書した軍刀一振を授与し、その栄誉をたたえられた。ここら辺の経過は「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉に詳しい。負傷後はさすがに戦闘機での出撃はなかったようだ。空輸部隊に配属されるがそこでも操縦桿を握ることはなく終戦を迎えた。戦後は村役場、市役所で定年まで勤め上げた。

 

海軍時代をどう捉えるのか

 『零戦最後の証言 2』のインタビューにおいて戦争中のことをこのように語っている。

 

「海軍は自分が好きで行ったところですから、居心地はいいと思っていました。悪い思い出はないですね。昔の上官の恨み節や悪口ばかり言う人がいますが、私はそんなにいやな人間にはぶつからなかったし、ああいう人間にはなりたくないと思います。」

(『零戦最後の証言 2』より一部転載)

 

 と語っている。この「ああいう人間」とは誰を指しているのか大体推測できる。この記事を読んだ読者の多くは恐らくこの渡辺氏の意見を支持し「ああいう人間」に対しては批判的になると思う。しかし悪口を言わない人、恨みを持たない人は見ていて気持ちがいいが同時に本来修正されなければならない問題点を見えなくしてしまうことがある。

 渡辺氏のような見方をする人が素晴らしいのと同時に「ああいう人間」のように当時の軍隊内部の問題点を指摘するというのも素晴らしいことだ。因みに渡辺氏に関しては『日本陸海軍航空英雄列伝』にも記事があるので詳しく知りたい方はこちらを見てみるのもいいと思う。

 

渡辺秀夫飛曹長関係書籍

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 渡辺秀夫氏へのインタビューが掲載されている。上記武功でもらった「武功抜群」の刀を携えての写真もある。読んでいると渡辺氏の前向きな性格が良く分かる。

 

伝承 零戦空戦記〈2〉ソロモンから天王山の闘いまで (光人社NF文庫)

 渡辺氏はラバウル時代のことを書いた「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」という手記を寄稿している。

 

零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 (講談社文庫)

神立尚紀・大島隆之 著
講談社 (2015/7/15)

 中盤に渡辺氏の証言が出て来る。ラバウル時代について語ったもの。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。渡辺氏も同飛行隊に所属していたため本書中に頻出する。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、水上機のエース河村一郎、甲木清美など独自に調査している。渡辺氏についても項目を立てて詳述している。

 

まとめ

 

 渡辺秀夫飛曹長の経歴は千歳空と204空、負傷後に配属された輸送部隊1081空と少ないが、数ヶ月に及ぶラバウル航空戦を生き抜いた勇者だった。負傷によって片目の視力を失うがそれにも負けない前向きさを持った人物であった。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 宮野善治郎中佐は太平洋戦争開戦後3空分隊長、204空分隊長として比島蘭印航空撃滅戦、その後のラバウル航空戦に参加して素晴らしい統率力を発揮した名指揮官である。同時に自身も16機を撃墜するという戦闘機乗りとしての腕の良さも併せ持っていた名パイロットである。

 

宮野善治郎中佐の経歴

 

略歴

 大正4年12月29日大阪府生まれ。昭和13年65期生として海兵を卒業。昭和15年4月32期飛行学生を修了。昭和16年12空配属。支那戦線に参戦したが空戦の機会はなかった。10月大尉。3空分隊長。開戦後は3空分隊長として比島蘭印航空撃滅戦に参加する。昭和17年4月6空分隊長。6月空母隼鷹に便乗してダッチハーバー攻撃に参加する。帰還後ラバウルに進出、204空分隊長、飛行隊長として活躍した。昭和18年6月16日の空戦で行方不明となり戦死と認定された。戦死後、全軍布告、2階級特進で中佐となる。

 

士官と下士官の役割の違い

 零戦のエースには下士官が圧倒的に多い。80〜90%は下士官搭乗員ではないだろうか。これに対して欧米ではエースのほとんどは士官であるのだ。この違いは何かというとそもそもパイロットは士官という国もあれば、実戦で武勲を挙げることによって昇進するという場合もある。これに対して日本は士官でも下士官でもパイロットの道が開けており、日本の場合は多くが下士官パイロットであった。    実戦では士官は指揮官として戦闘全般を指揮し、下士官兵はその指示に従って戦うというのが基本スタイルだった。そのため実際に敵機を撃墜するのは下士官兵パイロットが圧倒的に多くなるのだ。だからといって士官パイロットの腕が悪い訳ではない。要するに役割が違うのだ。

 

士官の多撃墜パイロット

 この海軍航空隊の中で多撃墜スコアを持つこの宮野中佐というのは珍しい存在である。士官パイロットではあるが、海兵65期で日中戦争にも参加している。空戦の機会こそなかったものの、太平洋戦争開戦時にはベテラン士官であった。この海兵○○期というのは海軍兵学校卒業年次である。海軍の搭乗員をみる場合は基本的に67期が開戦直前(昭和16年10月とか)に実戦部隊に配属されたクラスということを覚えておくと戦記物を読む際は参考になる。

 当然、海軍兵学校の一期は一年なので、単純計算だと65期というのは67期の2年前に実戦部隊に配属されたことになる。宮野大尉の場合は昭和15年に初めて実戦部隊に配属されたようだ。日中戦争では空戦の機会はなかったものの、戦闘の空気には十分慣れたであろう。太平洋戦争開戦時には押しも押されぬ指揮官となっていたのだろう。  この宮野中佐もまたラバウル航空戦に参加してその若い命を散らすことになる。航空戦記物には宮野大尉は度々登場するが本当に部下から愛されていたのが分る。本当に人望のある人物だったのだろう。

 

宮野善治郎大尉関係書籍

 

零戦隊長 宮野善治郎の生涯(光人社NF文庫)

神立尚紀 著
潮書房光人新社 (2016/2/19)

 宮野善治郎中佐の母校の後輩である神立尚紀氏による本。徹底した調査で宮野善治郎中佐の人生を再現している。不器用だったりと意外な一面も垣間見れる。世間に流布している宮野善治郎中佐の誕生年を大正4年と訂正している点は重要。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。宮野善治郎中佐と若い部下達の交流も描かれている。上下関係の厳しい海軍でありながら酒の席で部下が隊長に「ため口」で話しているのが微笑ましい。本当に信頼されていたのだろう。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。宮野善治郎中佐は「エース列伝」に登場するが誕生年が大正6年となっているが4年の誤り。略歴を知るには最良の書。

 

まとめ

 

 宮野善治郎中佐は享年わずか27歳。「人望のある隊長」といっても20代の若者であることに今更ながら驚く。日中戦争で実戦の空気を感じてはいたが実戦未経験であった宮野中佐は熟練者揃いの3空分隊長を任せられる。重任であったが十分に成し遂げたのはその技量と人格によるものだろう。戦後になっても宮野中佐を慕うパイロットは多かったという。

 

 

杉田庄一
(画像はwikipediaより転載)

 

 杉田庄一は、総撃墜数は単独撃墜70機、共同撃墜40機と言われている日本海軍屈指の戦闘機搭乗員である。この撃墜数は、単独と共同が逆じゃないかという指摘もあるが、それは置いても杉田が戦死した時、全軍に発せられた布告分に記載されている数字なので公認といえば公認なのかもしれない。しかし太平洋戦争当時の混乱した戦闘の中では必ずしも撃墜の確認ができたとは言えない。撃墜数は一つの目安と考えた方がいいだろう。

 

杉田庄一の経歴

 

 大正13年新潟県に生まれる。昭和15年で海軍に志願。昭和17年3月丙3期修了。6空に配属される。ミッドウェー海戦を経験する。昭和17年6空隊員としてラバウルに進出。12月には体当たりでB17を撃墜している。昭和18年4月18日の山本五十六戦死の時は護衛戦闘機隊として空戦に参加。昭和19年3月263空に配属。7月201空に異動。昭和20年1月343空戦闘301飛行隊に配属。4月15日離陸中を奇襲され戦死する。

 この杉田は戦前に海軍に志願し、その後丙飛3期として予科練で教育を受ける。同期には、杉野計雄、谷水竹雄がおり、彼らとは同じ教員に教育を受けている。飛練終了後、実戦部隊配属、最初にミッドウェー海戦を経験するという日本が優勢だった前半ではなく、劣勢に向かっていく中盤以降を担当した搭乗員である。

 それゆえ、予科練、その後の飛練でも太平洋戦争開戦以前の搭乗員のように十分な訓練を受けて、尚且つ、日中戦争という比較的激しくない空戦場で十分な経験を積むという恵まれた環境にはなかった。本来ならミッドウェー島航空隊となるはずだった第6航空隊はラバウルに進出を命ぜられる。当然、第6航空隊に所属する杉田もラバウルに進出する。

 杉田の性格をよく表しているのが杉田の初撃墜である。当時、18歳で最年少搭乗員だった杉田は体当たりでB17を撃墜。その後、204空と改称された第6航空隊での最多撃墜記録保持者となる。1943年4月、山本五十六連合艦隊司令長官が前線視察する際の護衛戦闘機6機の内の一人として護衛任務に就く。杉田は2機を撃墜するが、山本長官機は撃墜されてしまう。その後、負傷して内地の教員勤務を経た後、1944年3月、263空に転属、さらに同7月201空に編入される。

 1945年1月、343空戦闘301飛行隊に転属になる。この343空とは、ほぼ全機が最新鋭機紫電改で編成された決戦部隊である。この部隊でも戦果を挙げるが4月15日、離陸中を攻撃され戦死する。わずか21歳であった。杉田は坂井三郎と共に多撃墜者として表彰されるが、戦果に関しては個人撃墜(70機)と共同撃墜(40機)が逆だったのではないかとも言われるが詳細は不明である。

 

杉田庄一関連書籍

 

笠井智一『最後の紫電改パイロット』

笠井智一 著
潮書房光人新社 (2016/9/1)

 予科練甲飛10期という戦争後半を担当した零戦搭乗員。中部太平洋から比島、本土防空戦と戦い抜く。若年パイロットながら、その間の撃墜数は10機とすごい。猪突猛進の菅野直隊長、同じく杉田庄一と名だたる撃墜王のウイングマンとして戦い続け、無事終戦を迎えることができた。

 本書が上梓された時はすでにかなりの高齢だったためか全体的に漠然とした印象のある戦記となっているが、職人気質で自分の技術を部下に教えたがらない海軍パイロットの中で、杉田庄一上飛曹は包み隠さず全ての技術を部下に教えた。さらに部下に暴力は振るわず指導は優しさに溢れていた等、知られていないエピソードが満載の本。

 

高城肇『六機の護衛戦闘機』

高城肇 著
光人社; 新装版 (2011/8/1)

 『大空のサムライ』のゴーストライターであった高城肇氏による著作。山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜された「海軍甲事件」時に護衛を務めた6機の零戦の6名のパイロットを描く。彼らの内、戦争を生き残ったのは右腕を切断する重傷を負った柳谷謙治氏1名のみ。その他のパイロットはわずか2ヶ月前後で戦死してしまう。柳谷以外に唯一、ラバウルから生還した杉田庄一も昭和20年に戦死する。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。戦争中盤以降、さらに激しさを増すラバウル航空戦の壮絶な状況が克明に描かれている。体当たり撃墜で初撃墜をした杉田庄一兵曹が、「怒られるのではないか」と不安がっている姿などほほえましいエピソードもある。

 

高木晃治・ヘンリー境田『源田の剣 改訂増補版』

高木晃治・ヘンリー境田 著
双葉社 (2014/7/18)

 米国の戦史研究家ヘンリーサカイダ氏が日米の記録を徹底的に調べた名著。伝説の紫電改戦闘機隊である「343空」の全戦闘を詳しく書いている。有名な紫電改戦闘機隊は、初空戦で敵機撃墜57機の大戦果を挙げるが、米軍の損害は13機のみであったことや日米のパイロットの素性にまで調査が及んでいる。343空に関してはこれ以上ない名著。

 以上、杉田庄一上飛曹についての概要と杉田庄一氏を知るための書籍を紹介した。杉田庄一上飛曹は、猪突猛進の猛将でありながら部下への愛情に溢れた類稀な大人物であった。

 

小町定
(画像はwikipediaより転載)

 

 今日、紹介するのは日本海軍航空隊撃墜王小町定である。小町氏は1920年生まれ、操縦練習生49期を修了後、空母翔鶴に配属される。日中戦争には参加しておらず、初陣は真珠湾攻撃であった。基本的に母艦搭乗員は特に優秀な隊員が配属されるという。初の実戦配置が航空母艦であったというのは練習生時代の評価が高かったのだろう。

 

小町定の経歴

 

 小町定は、大正9年石川県に生まれる。昭和13年呉海兵団に入団。半年間訓練を受けたのち戦艦扶桑に配属された。操練49期に採用され霞ヶ浦空、百里ヶ原、昭和15年1月大分空、昭和15年6月大村空配属、昭和15年10月、空母赤城、昭和16年5月空母翔鶴乗組。インド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。

 昭和17年11月大村航空隊教員。昭和18年11月204空に転属、ラバウル航空戦に参加する。昭和18年12月253空に異動する。昭和19年2月253空と共にトラック島に後退。昭和19年6月、253空隊員として「あ」号作戦参加。トラック島から病院船氷川丸で内地に帰還する。昭和19年峰山空教員、昭和20年6月横空。

 

真珠湾攻撃・その後

 小町定は操縦練習生終了後、大村空を経て、当時の新鋭空母翔鶴乗組となる。その後翔鶴戦闘機隊隊員として真珠湾攻撃では機動部隊の上空直掩に参加した。真珠湾攻撃時の上空直掩任務には撃墜216機と言われる岩本徹三、50機撃墜の岡部健二、15〜16機撃墜の原田要、12機撃墜の佐々木原正夫等、何故か後の撃墜王が多数配置されている。

 熟練者を優先的に上空直掩に充てたという話もあるが、小町、佐々木原はこの当時、実戦未経験でありこの説は当たっていないと思う。その後、小町は珊瑚海海戦、南太平洋海戦に参加、小町は俗に損害担当艦といわれた翔鶴乗組だっただけに特に戦闘は辛酸を極めた。小町は翔鶴損傷のため空母瑞鶴に着艦したが乗機が被弾していたため海中に投棄された。

 1942年11月に翔鶴戦闘機隊を離れ、大村航空隊での教員となる。ここには坂井三郎(64機撃墜)、磯崎千利(12機撃墜)、南義美(15機撃墜)、中仮屋国盛(16機)、島川正明(8機)、本田敏秋(5機)等、多数の撃墜王達が教員として配属されていた。

 1943年11月、ラバウルに展開する204空付を命ぜられ、翌12月253空付となる。ここで激烈な航空戦を経験した後、1944年2月、小町を含む253空はトラック島に後退した。1944年6月、「あ」号作戦の一環としてサイパン島攻撃に出撃、グアム島に着陸寸前に米艦載機の奇襲を受け撃墜される。

 数日後、一式陸攻でグアムを脱出、トラック島から病院船氷川丸で日本本土に帰還する。1945年7~8月(恐らく8月)、3月に新設された峯山航空隊教員付となる。そこで美保、三重航空隊で基礎教育を修了した甲飛13期学生の中練教程を行う。1945年6月横須賀航空隊付となり終戦を迎える。戦後は戦犯として逮捕されるという噂から東京に行き、材木商となり、建設業に事業を拡大、都内の貸しビルのオーナーとなった。2012年7月15日老衰により逝去。総撃墜数は同僚によると40機以上と言われるが本人は20機程度だと語る。

 余談であるが、エース列伝には激しい性格の荒武者パイロットとなっているが、小町は教員時代、体罰を一切行わず教え子達からの信頼は絶大なだったようで、当時、小町が所属していた航空隊に教え子達が配属された時も小町の隊に入りたいと教え子同士で喧嘩になったことすらあるという。

 

小町定関係書籍

 

川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』

川崎浹 著
トランスビュー 2003/8/15

 18機撃墜と言われている小町定氏へのインタビュー本であるが、単独インタビュー形式で小町氏の戦中戦後の経験が描かれている。著者の川崎氏は、小町氏の経験を上手に引き出すことに成功している。生前の小町氏にインタビューを元にした川崎氏の著書。当時の搭乗員の気持ちや作戦に参加した際の貴重な記録が満載。この手の本はあまり人気がないのである時に買っておいた方がいい。もちろん私は発売された直後に購入した。

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 海軍搭乗員の取材に定評のある神立尚紀氏インタビューによる本。小町定へのインタビューもある。内容は主に戦争中の話だ。『日本海軍戦闘機隊』『日本海軍航空隊のエース』にはない人間小町定がここにいる。

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 神立尚紀氏による海軍戦闘機搭乗員へのインタビュー集。小町定へのインタビューは主に戦後について語っている。元軍人は民間で通用する職歴も技術もなく苦労する。騙されたりしながら真心を大切にしてビルオーナーにまでなる。戦後、海軍戦闘機搭乗員の集まりである「零戦搭乗員会」が結成されるが事務所は小町定所有のビルに設置された。

 

まとめ

 

 小町定は太平洋戦争初期から終戦まで戦い抜いた熟練搭乗員だ。小町の出身である操練40期台は太平洋戦争初戦から「新米」として実戦に投入され他のクラス以上の死亡率を記録した。小町は当時の海軍航空隊のエリートである母艦搭乗員から始まり激戦のラバウル、海軍航空の殿堂と言われる横須賀航空隊で終戦を迎える。

 強面の見掛けと異なり、心が優しく部下に対して暴力を振るうこともなかった。故に部下には慕われ列機の位置の取り合いも起こった。戦後、神立氏のインタビューに対しても「ツンデレ」の部分を見せている。このインタビューを読むと小町定がどうして人望を集めたのかが分かる。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 この大原亮治は丙飛4期出身。丙飛4期とは太平洋戦争開戦後に卒業したクラスだ。つまり卒業後、いきなり練度の高い米軍航空隊と戦わなければならないという非常に厳しい状況に置かれていた。ただ、この丙飛4期はまだ初戦期であったせいか後半に比べればまともな訓練を受けていたようだ。この丙飛4期には他にも70機を撃墜したといわれる杉田庄一がいる。

 

大原亮治の経歴

 

概要

 大正10年2月25日宮城県生まれ。昭和15年6月一般航空兵として横須賀海兵団に入団。昭和16年2月丙種予科練を受験し合格する。昭和16年5月、丙飛4期として土浦空に入隊。昭和17年7月21期飛練卒業。大分空で戦闘機専修延長教育。卒業と同時に6空へ配属される。10月7日204空本隊としてラバウル進出。10月12日初出撃をする。10月13日ブイン飛行場に進出。10月19日初空戦を体験する。昭和18年10月内地に帰還。11月横空に勤務し終戦を迎える。終戦時海軍兵曹長。戦後は米軍キャンプで働くが、昭和28年海上警備隊入隊。第一回操縦講習員となり修了後教官となる。昭和46年三等海佐で退官する。退官後は航空振興財団に勤務する。2018年11月2日死去。

 

予科練修了、そのままラバウルへ

 大原は、大正10年宮城県生まれ、昭和15年6月海軍に入隊。昭和16年2月丙種予科練4期生として土浦航空隊に入隊した。昭和17年7月21期飛練課程を修了し、さらに戦闘機操縦者として大分航空隊に配属。その後いきなり第六航空隊に配属された。第六航空隊とは後の204空のことでのちにラバウル航空戦の中核となる部隊である。

 昭和17年10月に激戦地のラバウル、それも悪いことに最前線のブーゲンビル島ブイン基地に六空は進出する。10月19日、大原は初空戦を体験する。大原は空戦に入る前に増槽を落とすのを忘れてしまう。その後、数々の戦闘をくぐり抜けて大原氏は204空の中核として成長しながら激烈なラバウル航空戦を生き抜いた。昭和18年10月内地に移動になった頃には当初の六空搭乗員は大原、大正谷宗市、坂野隆雄の3名しかいなかったという。

 

ラバウルから生還。横須賀航空隊勤務

 昭和18年11月、204空生存者3名は、ともに海軍航空隊の殿堂、横須賀航空隊に配属される。1年に亘り激戦地のラバウルで生き抜いてきた彼らには当然海軍の殿堂に所属する権利はあるということだ。その後終戦まで横須賀航空隊所属となる。

 これが大原の経歴であるが、大原の経歴で面白いのは転属が一回しかなかったことだ。海軍は転属が多い。例えば岩本徹三は12空、瑞鶴戦闘機隊、281空、201空、204空、253空、252空、203空と転属し、その間に教員配置もこなしている。これをみれば大原氏の転属一回というのが特異なのが分るというものであろう。

 

大原亮治関係書籍

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 神立尚紀氏に戦中派エースとして取材された記事が載っている。戦中戦後まで幅広くインタビューに答えている。大原の前向きな性格が良く分かる。

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 上掲『零戦の20世紀』とほぼ同じ内容。大原以外には生田乃木次、鈴木實、進藤三郎、羽切松雄、原田要、角田和男、岩井勉、小町定、渡辺秀夫、岩下邦雄、笠井智一等へのインタビューがある。ほとんどの方は他界されているのでこのインタビューは貴重。

 

零戦、かく戦えり! 搭乗員たちの証言集

零戦搭乗員会 編
文藝春秋 (2016/12/1)

 大原はソロモン航空戦についてと先輩搭乗員羽切松雄氏についての思い出を寄稿している。

 

まとめ

 

 大原亮治は太平洋戦争開戦後に実戦に参加した戦中派パイロットである。開戦時には実戦経験を持っていた岩本徹三や坂井三郎と異なり、教育課程も短縮された上に、最初の戦闘は練度の高い連合国軍との戦闘であった。その劣悪な条件下で生き残りラバウルを去った時、進出した時の隊員はわずか3名になっていたという。その後も終戦まで戦い抜き、戦後も長命を保ったが2018年11月2日惜しくも他界した。

 

 

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 また本のレビュー。今日紹介するのは小高登貫著『あゝ青春零戦隊』である。この小高登貫とは、意外と知られていないエースなのではないかと思う。坂井三郎のように本を多数執筆していたり、岩本徹三西沢広義のように多撃墜記録を持っていたり、赤松貞明のように自著こそはないがあまりの奇人ぶりで有名になった人でもない。しかし、この小高登貫という人、すごい人なのだ。

 総撃墜数はエース列伝によると12機、本書の冒頭の文章によると共同撃墜含め105機。潜水艦2隻撃沈という類い稀な記録を持つ撃墜王なのだ。昭和18年に202空隊員として実戦初参加、その後ラバウルに派遣されあのラバウル航空戦に参加、トラック島、フィリピンと転戦した後、伝説の航空隊343空、剣部隊に配属される。そこで新鋭機紫電改を駆り終戦まで戦い抜いた。詳しい経歴については別に書いたのでそちらを見てもらいたい。

 

 

 小高氏含め同期13名は202空に配属される。一旦は母艦戦闘機隊に配属が決まっていたために落胆するのだが、この202空こそは連合国軍からは「まぼろし部隊」と言われ恐れられていた202空なのだ(部隊番号がXだったから)。そこで連日の戦闘に参加する。この中で当時のチモール島の風俗についても書いてあるので面白い(エッチな方ではない)。慰問団として森光子が来たり等、知らない人には結構ビックリしちゃうエピソードなどもある。

 その後ラバウルに派遣されるのだが、おたく的に面白いのは小高氏の機体にも撃墜マークが付いていたという。岩本徹三著『零戦撃墜王』にはピンクの撃墜マークが付いていたというのは有名であるが、小高氏の機体には黄色い撃墜マークが付いていたようである。部隊によってマークを統一していたのか否か等考えると面白い。撃墜マークは当然、公認されたものではないが、現地部隊では戦意高揚のために書いていたのだろう。

 本書で興味深いのはフィリピン時代に「かたき討ち作戦」と称される作戦に参加したことだろう。小高氏は命令により何も知らずに「わが軍の重要人物を捕まえているはずだ。早く戻せ」というようなことを書いたビラを撒き、その後、銃爆撃をしていることだろう。当時は意味も解らずやっていたが、戦後、古賀峯一長官が遭難した「海軍乙事件」であったことを知る。近代史研究の上でも価値のある記述だ。

 小高氏はそのフィリピンで特攻隊に志願するが、小高氏はみんな心から志願したという。これも当時の搭乗員個々人によって意見が異なっている。これらを比べてみるのも面白い。さらに世間では特攻隊の第一号は関行男大尉の敷島隊であることになっているが、実は4日前に最初の特攻隊が出撃していることなども興味深い。

 戦後はオートバイの売上日本一になったりと何でも一生懸命やる性格だったようだ。現在(2020年)ご健在であれば97歳となるはずであるが、残念ながら1992年3月に他界している。内容はかなり面白いのでおすすめだ。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 仲道渉飛曹長とは丙飛4期という戦中に不十分訓練しか受けられなかった世代の搭乗員で未熟な状態で激烈な航空戦が展開されているラバウルに送りこまれた。そして無事生還しただけでなく、20機もの撃墜を報告した稀有な搭乗員である。

 

仲道渉飛曹長の経歴

 

概要

 大正11年大阪に生まれる。昭和15年呉海兵団に入団。昭和16年5月土浦空に入隊して、同年7月丙4期予科練を卒業後、霞ヶ浦空、大分空で操縦教育を受けた。昭和17年7月21期飛練課程を修了、12月隼鷹乗組を命じられた。昭和18年夏に204空へ異動、ブイン基地に進出、激烈なラバウル航空戦に参加する。昭和19年3月内地に帰還。11月より721空(神雷部隊)戦闘機隊に属し、神雷特攻隊の直援に当った。

 近年、彼我の文献から客観的な戦果を割り出そうという研究が梅本弘氏等によって行われているが、梅本氏によると仲道飛曹長が撃墜を報告している日に間違いなく米軍が該当の機種を失っているケースが12件あったそうだ。むろん他の搭乗員も撃墜を報告しているが仲道飛曹長は客観的に見極めて戦果を報告しているという(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。

 

丙飛4期

 仲道渉飛曹長は丙飛4期出身の戦中派パイロットである。丙飛とは丙種予科練習生の略で他に甲種、乙種があった。甲乙は外部からの受験で採用されるが丙種は下士官兵から内部選抜により採用されるコースだ。以前は操縦練習生と呼ばれていたが予科練に一本化された結果丙種と呼ばれることとなった。

 丙飛4期は太平洋戦争開戦後に実戦に投入され、主に太平洋戦争中期から活躍したクラスだ。同期には中盤のラバウル航空戦で活躍した大原亮治飛曹長、中沢政一一飛曹等がいた。すでに操練(操縦練習生)後半からは以前のような十分な訓練を受けたとは言えない状態で連合国軍の反抗が始まった戦場に送り込まれたために多くの犠牲者を出した。

 

母艦戦闘機隊

 基本的に搭乗員の中で母艦搭乗員に選抜されるのは優秀な搭乗員であったと言われている。仲道も練習生修了時点でやはり才能のようなものがあったのだろう空母隼鷹乗組を命ぜられたが、昭和18年夏にラバウルに展開する204空に配属される。  昭和18年9月14日にB-24協同撃墜したのを皮切りに翌年1月23日にまでに20機(不確実、協同含む)を撃墜した。

 

正確な撃墜判定

 日米双方には多撃墜エースと呼ばれているパイロットが多数いるが意図的ではないにしろ戦果が過大に報告されているケースが多い。5倍から多い時は10倍以上に実数と戦果が異なる場合がある。当然、エースの撃墜数も実際の数でない可能性が高いのだ。これは世界のエースに対して同様のことがいえる。  しかし、梅本氏によると仲道一飛曹は、協同撃墜の場合、搭乗員の多くが自分の単独撃墜を主張するのに対して仲道氏は、自身の成果は共同撃墜であったと報告しており、戦闘状況をよく見極めて判断しているという。

仲道一飛曹の報告している撃墜数は20機である。この謙虚な性格の仲道一飛曹の性格からすると12機以外にも実際に撃墜している可能性は高い。少なくとも実際に成果が確認された上での「ダブルエース」である。ラバウルから生還した後には、有名な人間爆弾桜花を擁する721空戦闘機隊に配属され終戦を迎える。

 

仲道渉飛曹長関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。
梅本弘 著
大日本絵画 (2013/12/10)

 日本・連合国軍の資料を突き合わせて実際の空戦の模様を描き出そうとしている力作。仲道渉飛曹長はP98から登場する。熾烈なラバウル航空戦の様子を高い精度で知ることが出来る貴重な本。

 

まとめ

 

 母艦戦闘機隊に配属された仲道一飛曹は、元々搭乗員としてのセンスは良かったのだろう。しかし、戦前の搭乗員のように十分な訓練を受けられず、戦場に送り込まれた。しかもその戦場は戦争中期の最も激烈であったラバウルである。この条件の中で無事生還しただけでなく、多撃墜を記録したというのは驚異的である。

 

 

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ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

 末期のラバウル航空戦を戦った搭乗員である。あまり知られていないが、ラバウル航空戦においてトップエース岩本徹三、小町定等と共に連日の戦闘をこなした。この市岡二飛曹、実はすごい記録を持っていることが近年の調査により判明した。もちろん私が調査した訳ではない。今日はこの市岡又男二飛曹についてみてみよう。

 

市岡又男二飛曹の経歴

 

略歴

大正14年岐阜県生まれ。昭和17年8月、丙12期予科練に採用。昭和18年7月28期飛練課程を修了。昭和18年9月末ラバウルに展開する204空に配属された。1月26日204空本隊のトラック転進により、トベラ基地の253空に転属、4月19日戦死した。

 

予科練と飛練

 市岡二飛曹は昭和17年8月、丙種予科練12期に採用される。丙種予科練とは下士官兵から選抜するパイロットのコースで以前は操縦練習生と呼ばれていたが航空兵育成は予科練に一本化されたため丙種と呼ばれることとなった。

 同期には19機撃墜の川戸正治郎がいる。飛練とは飛行練習生の略で航空機の初級教育をする課程だ。飛練28期は昭和17年9月に始まり昭和18年7月に終了した。予科練の他のコースと共同で訓練が行われる。この飛練28期だと甲種予科練8期が該当する。甲飛8期は75名が採用されたが、終戦時の生存者は14名、戦死率81%というクラスである。当時のパイロットの戦死率がどれだけ高かったのかが分かるだろう。市岡二飛曹は教育修了後、即座にラバウルに派遣されたようである。

 

撃墜21機で部隊トップ

 さて、前述のすごい記録とは、実はこの市岡一飛曹、戦闘行動報告書によると撃墜21機、岩本徹三の撃墜20機を抜いて253空のトップエースなのだ(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。無論実際に撃墜していたかは誰にも分らないが戦闘行動報告書に記載される戦果であるので空戦技術に関しては部隊内で一定の評価があったと思っていい。

 

市岡又男二飛曹関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日本、連合国軍双方の資料から空戦の実態を可能な限り正確に描き出した労作。実は公文書から確認できる撃墜数では市岡二飛曹がトップであるという。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。後半のエース列伝に市岡二飛曹についても記載がある。

 

まとめ

 

 その後253空本隊はトラック島に撤退するが、市岡一飛曹はラバウルに残ったようだ。昭和19年4月19日不帰の人となる。エース列伝によると撃墜11機、梅本弘氏の調査によると撃墜21機とある。どちらが本当なのかは分からないが才能のあるパイロットだったのだろう。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

予科練で飛行訓練を受ける

 

 「トッカン兵曹」とあだ名される戦中派エース小高登貫は、1923年2月26日、長野県東筑摩郡島内村に生まれた。1941年6月に横須賀海兵団に入団。海兵団終了後は、自著によると小高は搭乗員になる前には整備兵として中国大陸に展開する第12航空隊にも所属していたようだ。元々飛行機好きだったという小高は、1942年2月丙飛第10期予科練習生に採用され、霞ヶ浦航空隊に配属される。自著によると、そこで3ヶ月、さらに土浦航空隊3ヶ月、百里ヶ原航空隊で4ヶ月の訓練を受けたとなっている。

 この小高が採用された丙種予科練習生とは、複雑になり過ぎた海軍の航空要員育成過程を予科練に一本化したもので以前の予科練習生は乙種予科練、操縦練習生は丙種予科練、さらに高学歴者が採用される甲種予科練というのがある。名称こそ変わったが、丙種予科練と操縦練習生はほぼ同じであり、練習生も操練と同様に兵から採用された。丙種といっても採用基準は厳しく、採用後も不適格として原隊に帰らされる隊員が多く出るという難関であった。

 しかし丙種予科練通称「丙飛」10期生は太平洋戦争開戦後の採用であり、航空要員の需要拡大により大量採用がなされたクラスだ。丙飛10期は戦闘機搭乗員だけでも修了者は88名に上る。だが、以前ほどの質の高い教育を行うことが出来ずに実戦に投入せざる得ない状況であり、日本海軍の防弾性能の低い航空機と相まって多くの戦死者を出すことになる。

 丙飛10期88名中、戦死が72名、終戦時に生き残った隊員はわずか16名であった。1943年1月、小高氏は大村航空隊での第25期飛練過程を卒業、晴れて戦闘機搭乗員となる。この時の教員にはのちに実戦部隊でも一緒に戦うこととなる山中忠男上飛曹(操練44期)、赤松貞明(操練17期)や敵飛行場に強行着陸したことで有名な大石英男(操練26期)がいたとある。当時の大村航空隊にはこの他にも大村空飛行隊長である横山保を始め「ゼロファイターゴッド」の異名を持つ亀井勉、操練9期の古豪、望月勇、操練19期の磯崎千利等の戦地帰りの熟練搭乗員が多くいたようだ

 

チモール島クーパン基地に配属

 

 小高は優秀者が選抜されるという母艦搭乗員に選抜されたようで、宮崎県冨高空で零戦による実戦訓練、母艦着艦訓練を受ける。配属先は当時、南太平洋海戦で搭乗員の多くを失い再建中であった空母翔鶴戦闘機隊であった。しかし急遽南方に展開している第202航空隊に変更される。この202空は開戦当初、台南航空隊と共に航空撃滅戦を展開した第3航空隊が名称を変更したものでポートダーウィン攻撃で圧倒的な強さを誇った無敵部隊だった。小高は母艦搭乗員になれずに落胆したようだが、結果的にはこれが小高氏の命を繋いだのかもしれない。

 202空は海軍航空隊でも随一ではないかと言われる程の熟練搭乗員で編成されていた。そのため若年搭乗員はなかなか搭乗員割に入ることが出来なかったと言われるが、同時にチモール島には近くに油田があったため燃料が豊富で十分な訓練をすることができたようだ。1943年2月、小高は202空に合流するため山中忠男上飛曹と共にケンダリー基地へ向かう。

 この時、零戦21型と新鋭機である零戦32型で進出したようだが、どうも新型機には小高氏が乗り熟練搭乗員の山中上飛曹は21型に乗ったようだ。若年者に最新鋭機を与えて腕を補わせたのか、熟練者が得体のしれない新型機を嫌ったのかは不明だが、丙飛16期を卒業して254空に着任した今泉利光氏も江馬友一(操練22期)や田原功(操練45期)の熟練者がいながらも最新鋭の零戦52型丙を与えられた

 それはともかく小高は着任早々空襲を受けるが、独断専行で出撃をしてしまう。着陸後、意外にも司令に褒められる。この行動力や判断力の正確さはさすがといえる。その小高も初空戦では増槽を落とすのを忘れてしまった上に深追いをしてしまったようだ。増槽は新米搭乗員は良く忘れるようで零戦隊の名指揮官として知られる進藤三郎や撃墜王として有名な大原亮治、山田良市も初空戦では増槽を落とすのを忘れたという

 その後も数次のポートダーウィン攻撃や「空中爆雷」3号爆弾での大型機攻撃等、着実に実戦の経験を積んでいった。この間に小高は9機を撃墜したという。戦闘とは関係ないが慰問団として来た森光子にあったりもしていて面白い。その小高に204空への異動命令が下る。204空とは第6航空隊として編成された部隊で南方の激戦地ラバウルに展開している部隊であった。このラバウルでは連日激戦が繰り広げられ「搭乗員の墓場」とまで言われる場所であった。

 

「搭乗員の墓場」ラバウルに異動

 

 実際、小高の出身期である丙飛10期戦闘機専修の戦死者72名の内、戦死場所が分かっている57名中20名がラバウル周辺で戦死している。まさに搭乗員の墓場である。小高は飛行時間わずか150時間程度でラバウルに送りこまれたという。このラバウル進出は小高の自著では1943年8月となっているが、多くの書籍では1943年12月となっている。当時、同じ202空の分隊士として1943年10月に着任した梅村武士も森光子の慰問団が来た時居合わせているので、恐らく1943年12月の誤りであろう。

 204空に転属した小高は1943年12月10日の船団護衛を皮切りに数多くの戦闘に参加する。特に翌、1944年1月17日の戦果は部隊最高個人撃墜者として司令賞を受けた。この時の戦果は、一般には敵機撃墜69機と言われているが、梅本弘の調査だと戦闘行動調書に記録されている数は88機だそうだ。小高の個人撃墜もP-38 3機ではなく1機撃墜、1機不確実という。

 実際のところは戦闘行動調書を見ないと何とも言えないが、資料上はこれがラバウルでの唯一の小高の撃墜戦果だそうだ。因みにこの1月17日の空戦の連合軍側の損害は10〜11機であり、かなり過大な戦果報告であったことが分かる。その後も多くの迎撃戦や爆装零戦でのマーカス岬攻撃等に参加した小高であるが、1944年2月、204空と共にトラック島に移動することになる。

 

トラック島から内地に帰還

 

 トラック島に移動した小高はそこに内地から送られた150機の零戦を見る。この零戦は最新の52型丙であったというが、零戦52型丙はマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れ改良された型で、改良が指示されたのが1944年7月23日、試作機完成が同年9月10日、制式採用が同年10月1日なので、制式採用前に量産されていたのか、或いは小高氏の記憶違いなのかは不明である。このトラック島で小高は米海軍機動部隊の艦載機群を迎撃、劣勢の状態の中、数度にわたる出撃を行い奮闘した。この戦闘は熾烈であり、同じ204空のベテラン前田英夫も帰還せず、地上で見ていた加藤氏によると帰ってきたのは小高のみであったという

 その後、小高は内地に帰還、第201空戦闘306飛行隊に配属される。この時に戦闘機受領のために中島飛行機に向かうがそこで行われていた性能試験に満足せずに戦地で鍛えた実戦的な試験を行い中島飛行機側を驚かせた。ここで小高達が三菱製の零戦を中島飛行機に受領に行っているのを不思議に思われる方もいるかもしれない。実は、戦時中、零戦は中島飛行機でも生産されていたのだ。それどころか52型に至っては三菱製の総数が747機であるのに対して中島製は3573機製造されており、むしろ中島飛行機の方が圧倒的に零戦を生産していたのである

 しかし両社の製作した零戦を比較してみるとやはり開発した三菱製の零戦の方が性能が良かったらしい。逆に中島製零戦は搭乗員からは評判が悪く、性能の劣悪さから「殺人機」とまで呼ばれていたという。その中島製零戦を戦地帰りの小高がテストすればどうなるか想像に難くない。

 

内地からフィリピン進出

 

 この時期に小高は日本海軍戦闘機の「必殺技」ひねり込みを教わったという。このひねり込みとは宙返りの頂点で左に機体を捻り一時的に失速状態になることで旋回の半径を小さくする特殊な技術だ。これは搭乗員それぞれやり方が違っており、職人気質の搭乗員の多い戦闘機の世界ではなかなか教えてくれなかったようだ。このひねり込みを教えたのは門田上飛曹とあるが、恐らく乙10期の門田岸男であろう。乙10期は1942年3月に飛練21期を修了したクラスで丙飛では4期にあたる。戦前に訓練を受けたほぼ最後のクラスといってよい。この後、小高氏の所属する201空戦闘306飛行隊はフィリピンに進出するが門田上飛曹は同飛行隊付で1944年9月12日戦死している。

 上記のように第201空戦闘306飛行隊は木更津基地で錬成訓練の後、1944年4〜5月に逐次セブ島に進出した。進出後の5月25日、小高は爆撃を命じられ、言われるままに爆撃するが、それが海軍乙事件の交渉のための爆撃だったことがのちに分かる。海軍乙事件とは当時の連合艦隊司令長官古賀峰一大将搭乗の二式大艇2機が低気圧のため墜落した事件である。古賀大将は殉職するがもう1機に登場していた福留繁参謀長はフィリピンゲリラの捕虜となり暗号書を始めとする機密書類を奪われるという大失態をやらかした。小高が行った爆撃は、この福留参謀長解放のための威嚇だったようだ。

 この後、201空は「あ」号作戦、レイテ作戦に参加するが、ここで小高らは特攻隊に編入される。特攻に関しては同時期にフィリピンにいた熟練搭乗員の岩本徹三は「一回の攻撃で死んでたまるか」と特攻を明確に拒否した。同じく操練31期の田中國義も後年、インタビューで一回の攻撃で死ぬのは嫌だったと語っている。どちらも日中戦争以来の熟練搭乗員であり、腕に自信があるだけに一度の攻撃で死ぬのは嫌だったのだろう。同様に激戦のラバウルから生還した小高だが、意外にも特攻に賛成した。

 

私たち四十人の搭乗員は、みんな心からこれに賛成し、敵艦に体当たりする戦法をとることになり、全員がこの特別攻撃隊への願書を提出した。
小高登貫『あゝ青春零戦隊』P204

 

 さすがに全員が心から賛成したかどうかは分からないが少なくとも小高は賛成したようだ。特攻隊には、ほとんどの隊員は心の中では反対だったというが、こういう意見もあることが分かるのは貴重だ。小高は特攻隊には編入されるが爆装隊ではなく戦果確認機としてであった。ラバウル帰りの熟練搭乗員であったためだろうか。

 

343空に転属

 

 1944年12月、小高は谷田部航空隊教員として内地に戻る。すでに前線はフィリピンから日本本土になりつつあった。自著には乙18期、飛行学生17期を教えたとなっているが、飛行学生17期は誤りである。飛行学生であればこの時期に教育されていたのは42期である。それはともかく戦地帰りの小高の教育は訓練生には評判が良かった。そして教育に当たる一方迎撃戦にも出動した。1945年2月16日の米海軍艦載機関東地区来襲では数機の撃墜を報告しているようだ。

 この時期、真珠湾攻撃の航空参謀源田實は、新たな戦闘機隊、第343航空隊を編成していた。この部隊は最新鋭機紫電改を集中配備し、基幹搭乗員には当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員を配していた。小高はこの343空に指名転勤により異動となる。343空は戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊、戦闘301飛行隊と偵察隊からなっていた。小高は戦闘407飛行隊に配属された。小高の配属された戦闘407飛行隊は最も遅く訓練を始めた部隊であった。そして小高はこの部隊の「一番のやかまし屋」本田稔少尉の2番機となる。

 この本田少尉は甲飛5期出身でラバウルで激戦をくぐり抜けてきた強者だった。あまりの「やかまし屋」振りに2番機が務まる者がいなかったという。厳しく教育された者は厳しく教育する。本田少尉の練習生時代の教員は厳しくて有名だったオール先任搭乗員とあだ名された海軍航空隊の名物男、菊池哲生上飛曹であった。因みにこの343空に菅原少尉という撃墜120機の記録を持つ分隊士がいたというが、該当する人物は見つけられなかった。

 

トッカン兵曹の撃墜数

 

 小高はこの343空で終戦を迎える。戦後は自動車販売店を経営していたが、平成4年(1992年)3月歿する。自著の前書きによると協同撃墜含め撃墜105機、潜水艦撃沈2隻というすさまじい戦果を挙げたことになっている。その105機の内訳は単独77機、協同38機ともいわれる。その小高の撃墜数について書いてみよう。1970年代に戦史研究家の秦郁彦氏は海軍戦闘機隊の公文書に記載されている撃墜数をカウントしエースリストを作成した。そのリストは8機以上の撃墜記録が確認された搭乗員を記載したものだが、その中に小高氏の名前はない。恐らく公式記録上は小高の撃墜数は7機以下であったのだろう。

 2000年には出版された、米国の戦史研究家ヘンリーサカイダの著書『日本海軍航空隊のエース』には、小高の撃墜数は12機となっているが、その出典は不明である。小高の撃墜数全体についてではないが、近年、ラバウルでの海軍航空隊の活動の精緻な調査をした梅本弘氏によるとラバウル時代に小高の戦果で公文書上に確認される撃墜戦果は2機だけだという。これらから考えると撃墜105機というのはちょっと過大である。小町定が指摘するように部隊の戦果も含めた数字であるのかもしれないが、高木・境田両氏が指摘するように誇大気味な感は否めない

 では小高は口だけの無能な搭乗員であったのかというとそれは違う。坂井三郎によると戦闘機の搭乗員は総じて威勢がよく元気者で負けず嫌い、そして彼らは有言実行であった。中には有言実行に留まらず、大言壮語する者もあったという。そして、むしろ大言壮語型から多くのエースが生まれたと語っている。実際、日本海軍のトップエースで自称216機を撃墜した岩本徹三は、空戦の腕も達者だったが口も達者でいつも大風呂敷を広げていたそうだ。さらに大ベテラン赤松貞明は自称撃墜350機であるが、空戦の腕の良さは海軍戦闘機隊では有名であった。

 恐らく小高もこの部類に入るのだろう。撃墜数は誇大であるかもしれないが、343空で小高の編隊長を務めた本田稔が小高の空戦の腕の良さを評価していることからも、空戦の腕が良かったことは間違いなさそうだ。母艦搭乗員に指名され、激烈なラバウル航空戦を数ヶ月間生き抜き、新鋭機紫電改で編成された343空に指名されて転勤した事実がそれを証明している。

 

まとめ

 

 太平洋戦争は徐々に過去から歴史になりつつある。そして人間は歴史に理想を投影する。海軍航空隊搭乗員は理想を投影する対象としては十分な価値がある。実際の人物とは違った自分の中の英雄像を過去の搭乗員に投影するようになる。これは人間が主観的な生き物である以上仕方のないことだ。そして日本人は得てして自己アピールの上手い人間を嫌う。逆に寡黙に自分の功績を語らない人や謙遜する人を好む。いつしか「好む」は「でなければならない」に代わり、過去の人物に自分の理想的な英雄像を投影するようになる。

 しかし過去の英雄とはその時代を生きた生身の人間だ。零戦搭乗員は自分の心の中にいる「理想的なサムライ」ではない。アピールが上手かったり饒舌だったり大風呂敷を敷いたりもする。撃墜数がどうあれ小高氏は激戦地で命がけで戦い続けた。岩本徹三、赤松貞明、坂井三郎も同様だ。その事実は凄まじいものがある。それはみんなが考える理想的なサムライではないかもしれないが、生死の狭間を生き抜いた戦士であったことは間違いない。

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。

 

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