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203空

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(画像はwikipediaより転載)

 

近藤政市少尉の略歴

 

 1917年11月5日愛媛県に生まれる。1935年7月27期操練を卒業。大村空を経て1936年11月空母龍驤乗組で日中戦争が勃発した。1938年加賀乗組。6月には15空に異動、11月内地に帰還した。1939年10月には12空に配属され再び中国大陸に出動した。1942年7月には瑞鳳乗組、南太平洋海戦に参加した。11月隼鷹に移動、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等に参加。1943年5月には一時的に内地へ帰還したが、7月2日にはブイン基地進出。ベララベラ攻撃にて負傷を負ったため内地に送還された。1年3ヶ月に及ぶ入院生活を終えて203空戦闘303飛行隊に配属されたが、実戦に出ないまま終戦を迎えた。

 

母艦戦闘機隊を渡り歩いた男

 

 近藤政市は操練27期出身で同期は12名、訓練は1935年1月から同年7月まで行われた。当時は日中戦争も始まっておらず、海軍の搭乗員養成は少数精鋭の教育であった。3名が事故死しており、1名が日中戦争で戦死、4名が太平洋戦争で戦死、内3名がソロモン方面での戦死で、終戦を迎えることが出来たのは4名のみであった。25%が事故で亡くなっていることからも分かるように、この時代の航空機はまだまだ危険な乗り物であった。

 わずか17歳で操練を修了した近藤一空兵は大村空を出た後、1936年11月空母龍驤乗組みとなる。母艦航空隊に配属されたことからも操縦に適性があったのだろう。この龍驤乗組時に日中戦争の勃発が勃発する。のちに3空零戦隊を率いてポートダーウィン進攻に活躍する鈴木實中尉の2番機として1937年8月には早くも撃墜2機を報告。さらに1938年には空母加賀に異動、蝶野二郎一空曹の3番機を務めた。その後、15空に異動したのち同年11月に内地に帰還した。

 内地では恐らく教員配置に就いていたものと思われるが、1939年10月、12空付として再び中国大陸に進出した。1942年7月には再び母艦戦闘機隊搭乗員として瑞鳳戦闘機隊に配属、日高盛康大尉の指揮の下、河原政秋飛曹長(操練26期)の2番機として10月26日には南太平洋海戦に参加している。この海戦で瑞鳳戦闘機隊は味方攻撃隊を護衛中にエンタープライズの攻撃隊とすれ違ったため、日高大尉率いる戦闘機隊が攻撃隊の護衛を放棄してエンタープライズ攻撃隊に対して攻撃を開始した。

 この攻撃が正否が後々問題となるのだが、近藤一飛曹もこの空戦に参加している。翌月には空母隼鷹乗組となり、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等、母艦搭乗員としてソロモン航空戦に参加している。1943年5月には一時的に内地に帰還するも同年7月には最前線基地のブインに進出、べララベラ攻撃において空戦中に左足に重傷を負い、そのまま本土に送還された。

 この療養は1年3ヶ月に及び、太平洋戦争後期には203空戦闘303飛行隊に復帰したものの、実戦に出ることなく終戦を迎えた。総撃墜数は13機といわれているが実数は不明、2007年5月12日に89歳で他界した。

 

近藤政市少尉の関係書籍

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 ゼロファイター列伝を文庫化したもので著者独自の人脈によって、それまで口を閉ざしていた戦闘機搭乗員達のインタビューを収録。登場する搭乗員は、三上一禧、田中國義、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、吉田勝義、山田良市(敬称略)である。特に日高盛康氏、志賀淑雄氏、三上一禧氏は沈黙を貫いていた方々であり、インタビューは非常に貴重である。日高盛康氏は近藤政市少尉が瑞鳳戦闘機隊時代の隊長である。

 

まとめ

 

 操練は海軍在隊者から搭乗員を選抜する課程でのちに予科練に統合されるが、在隊者から選抜されるために同期であっても経歴や階級には違いがあった。近藤少尉は17歳というほぼ最短で操練に合格したため操練20期台ではあるが、年齢的には操練34期の岩本徹三中尉、35期の原田要中尉、38期の坂井三郎中尉よりも若いし階級も下であった。しかし戦闘機搭乗員としての実戦を経験したのは早い。操練は年齢や階級と経験が一致しない場合がままある。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

尾関行治少尉の略歴

 

  1918年2月2日愛知県に生まれる。1935年呉海兵団入団。1936年1月32期操練に採用。7月大村空に配属。1937年12月12空に配属、中支戦線に出動する。1938年10月内地に帰還、佐伯空、大村空、元山空を経て、1941年9月3空に配属、太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に参加した後、1942年4月、内地に帰還、6空に配属された。6月には6空隊員としてダッチハーバー攻撃に参加、同年末204空隊員としてブイン基地に進出、ソロモン航空戦に活躍する。1943年5月内地に帰還して厚木空に配属、1944年2月203空戦闘304飛行隊に異動、10月捷号作戦の発動によりフィリピンに進出、10月24日(15日)米機動部隊攻撃で未帰還となり戦死と認定された。

 

海軍の至宝と呼ばれた男

 

 尾関行治少尉は操練32期出身で同期の戦闘機専修者は9名と少数精鋭の時代である。同期には「空の宮本武蔵」と言われた武藤金義少尉、末田利行飛曹長等がいる。この32期は太平洋戦争終戦までに全員が戦死しており、生存率0%である。尾関少尉は操練修了後大村空、さらには1937年12月、中国戦線にある12空に配属、そこから1年余りを戦地で過ごした。1938年10月には内地に帰還。教員配置に就いたのち、1941年9月には新編の3空に配属、太平洋戦争の開戦を迎えた。

 開戦後は比島蘭印航空撃滅戦に参加、多くの空戦に参加した後、1942年4月内地に帰還、新たに編成された6空に配属された。6月には空母隼鷹に便乗、ミッドウェー作戦の一環であるダッチハーバー攻撃に参加したが、ミッドウェー海戦で機動部隊が壊滅したため本土に帰還した。同年末、204空と改称された6空は南東方面に進出、ブーゲンビル島ブイン基地に展開して連日の空戦を戦った。

 1943年3月にはい号作戦のためラバウルに進出してきた同年兵の母艦戦闘機隊員岩井勉飛曹長と再会、「今まで一人として内地へ帰された者はいない」と壮絶な現実を告げている。このソロモン方面は航空隊員にとって「搭乗員の墓場」と呼ばれた場所で連日の戦闘の緊張感のためか温和であった尾関上飛曹は部下に鉄拳制裁を行ったりもしている。これに対して鉄拳制裁を受けた島川正明飛曹長は、のちに下士官となって受けた鉄拳制裁に対して不快感を語っている。

 1943年5月には尾関飛曹長は幸運にも内地に帰還、厚木空に配属された。この厚木空は後の302空と異なる錬成部隊で1944年2月には203空と改称されている。203空所属となった尾関上飛曹は名指揮官岡嶋清熊少佐率いる戦闘304飛行隊に配属、3月末には千歳基地、4月には北千島に進出して防空任務についた。

 10月になると捷号作戦の発動により、尾関飛曹長は戦闘304飛行隊の一員として南九州から台湾と進出。フィリピン島バンバン基地に進出した。この移動の最中、南九州で同年兵の乙飛5期の角田飛曹長に会いに行っている。この時には海軍航空隊の多くが比島に移動していたため、他にも西澤廣義飛曹長、岩本徹三飛曹長、母艦戦闘機隊の斎藤三郎飛曹長、長田延義飛曹長等の名うての搭乗員が角田飛曹長のところに集まった。

 その後、台湾、フィリピンと進出した尾関飛曹長は1944年10月米機動部隊攻撃に出撃未帰還となった。戦死日は15日とも24日とも言われている。総撃墜数は14機以上と言われており、6空時代に部下であった杉野計雄飛曹長は温和な人柄であったと後に語っている。さらに上官であった志賀淑雄少佐は尾関飛曹長について「上海事変、支那事変、大東亜戦争において比島上空で未帰還となるまで、烈々たる闘志と非常なる技量を持って、撃墜に撃墜を重ねた男。典型的な戦闘機乗りなりき」と評価していた。

 

尾関行治少尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

空母零戦隊―海軍戦闘機操縦10年の記録 (1979年) (太平洋戦争ノンフィクション)

 乙飛6期出身の母艦戦闘機隊で活躍した搭乗員岩井勉中尉の海軍生活10年の記録。岩井中尉は零戦の初空戦に参加した搭乗員で戦後も生き残った数少ない搭乗員。日中戦争、太平洋戦争と戦ったがその間に一度も被弾しなかったという腕と運を持ち合わせている。

 

まとめ

 

 尾関行治少尉は同期である武藤金義少尉と共に海軍の至宝と呼ばれたほどの名うての搭乗員であった。碁の名人であり、後々まで杉野計雄飛曹長は碁を見るたびに尾関少尉を思い出すという。この操練32期は多くの名人級の搭乗員を排出したが、1944年末までに武藤少尉以外は全て戦死している。その武藤少尉も終戦直前の7月24日、豊後水道での空戦で帰らぬ人となった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

田中民穂飛曹長の経歴

 

 1923年10月3日長崎県に生まれる。1939年6月乙種予科練11期に入隊。1941年9月予科練卒業後11月より23期飛練課程に入る。1942年9月同課程を卒業。1943年6月261空に配属された。1944年2月末サイパン進出、メレヨン島、ハルマヘラ島、ヤップ島、グアム島と転戦する。サイパン島陥落後、メレヨン島、パラオ経由でセブ島に移動、201空に異動、1945年1月内地に帰還、252空、203空と異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加後終戦を迎えた。戦後は全日空の操縦士として活躍した。

 

田中飛曹長と虎部隊

 

 田中民穂飛曹長は、乙飛11期出身。乙飛とは乙種予科練の略である。予科練とは「海軍飛行予科練習生」の略称で14歳以上の10代の少年を搭乗員として育成する目的で1929年に発足した制度で、1937年には新たに甲種予科練が設置されたため、それまでの予科練は乙種予科練と呼ばれるようになった。田中飛曹長はこの乙種の11期で同期の戦闘機専修者は67名。内、55名が戦死している。生存率17%であった。

 乙11期の飛練は21期と23期の二期に分けられており、21期は甲飛6期、丙飛4期と共に1942年7月、23期は丙飛6期と共に9月に飛練を修了している。多くの隊員は、訓練終了後すぐに戦地に送られており、10月には乙11期の2名が南方で戦死している。田中飛曹長はすぐに戦地に送られることなく、1943年6月には新設の261空に配属されている。

 261空は別名「虎」部隊とも称された部隊で第1航空艦隊に所属していた。この第1航空艦隊とは、海上機動戦力である第1機動部隊と基地航空隊の第1航空艦隊という二つの強力な航空部隊を創設、中部太平洋に進出してきた米機動部隊を挟撃するという源田大佐の発案の下に編成された決戦部隊で261空は第1航空艦隊の中核をなす戦闘機部隊であった。

 鹿児島基地に着任した田中飛曹長はそこから猛訓練に突入、1944年2月には東山市郎少尉の分隊の一員としてサイパン島に進出した。3月30日、米機動部隊がパラオに来襲、これを攻撃するため彗星艦爆を装備する523空が出撃、261空も援護として攻撃に参加したが、米機動部隊を発見することはできずペリリュー島に着陸したが、翌日の朝ペリリュー島は米機動部隊艦載機の総攻撃を受ける。

 この総攻撃に対して261空は迎撃戦を展開するが、出撃28機中20機を失うという大損害を受けてしまった。田中飛曹長もこの迎撃戦に参加、これが田中飛曹長の初出撃となった。4月になるとメレヨン島への大型爆撃機の来襲が頻繁となったため261空は交代でメレヨン島防空の任に就いた。このメレヨン島での防空戦で田中飛曹長は撃墜2機を報告している。

 6月6日には指宿大尉指揮の下、ダバオ南方にあるハルマヘラ島に進出、ついでヤップ島、グアム島と転戦する。7月15日までグアム島からサイパン島への艦船攻撃を繰り返した田中飛曹長であったが、グアム島への米軍上陸当日に上陸地点を爆撃後、メレヨン島へ脱出したのちパラオを経てセブ島に到着した。到着後、201空に異動となり(261空は7月10日で解隊している)特攻隊の直掩等に活躍した。

 1945年1月には1年に及ぶ激しい戦地勤務を終え内地に帰還、252空、203空と異動しつつ本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。戦後も旅客機パイロットとして活躍しており、総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 田中飛曹長の出身期である乙11期の多くは訓練後、南東方面に送られ多くが戦死している。1943年までに同期67名中30名が戦死、内20名以上がラバウル方面での戦死である。1944年2月には海軍航空隊はラバウルから後退が、以降、中部太平洋、フィリピンと乙11期の隊員達は戦い続けた。1945年に入ることには生き残った37名中15名が戦死しており、終戦までにさらに10名が戦死した。終戦時まで生き残ったのは田中飛曹長を含めわずか12名で生存率は17%という激しいものであった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

志賀正美少尉の経歴

 

  1919年茨城県出身。1937年海軍に入隊後、整備兵となった。1940年6月50期操練を卒業して戦闘機操縦者となった。1941年9月千歳空に配属。内南洋タロア島で開戦を迎える。その後マーシャル群島に移動。1943年7月201空隊員としてソロモン群島ブイン基地に進出した。1944年2月横空に異動。1944年6月には八幡空襲部隊として硫黄島に派遣される。1945年2月203空に異動、終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊、定年で退職した。

 

長期間にわたり南方で戦った男

 

 志賀少尉は操練50期、太平洋戦争開戦直前に訓練を修了したクラスでこの前後のクラスが開戦後、もっとも消耗したクラスといって良い。事実、操練50期は11名が戦闘機専修として卒業しているが、終戦まで生き残ったのは志賀少尉只一人である。同期にはラバウルの活躍で有名な石井静夫飛曹長、母艦戦闘機隊で活躍した山本一郎少尉がいる。

 志賀少尉は開戦時は千歳空所属として内南洋で防空任務に就いていた。この当時の千歳空には後に太平洋戦争のトップエースとなる西澤廣義一飛曹、予科練同期の福本繁夫一飛曹等、のちに活躍する搭乗員が多く在籍していた。こららの搭乗員が次々と南方に引き抜かれていく中で志賀少尉は千歳空、201空(1942年12月改称)隊員として防空任務に就いていたが、1943年2月内地に帰還する。7月には201空の南東方面進出が下令されたため志賀少尉を含め搭乗員52名は、7月15日にラバウルに進出する。

 さらに志賀少尉は最前線のブイン基地に進出する。ブイン基地とはラバウルとガダルカナル島の中間地点にある日本軍の最前線基地で同年4月にはブイン基地に現地視察に向かった山本五十六連合艦隊司令長官が戦死している。それまでは比較的平穏な内南洋で腕を撫していた志賀少尉は、この最前線基地で過酷なソロモン航空戦に活躍することとなる。

 1943年10月下旬には戦局の悪化のため201空はラバウルに後退、翌年2月まで連日の航空戦に活躍することとなる。1944年1月には201空はサイパン後退が命ぜられ、2月にはサイパンに進出するが、志賀少尉は海軍航空の殿堂と呼ばれる横須賀航空隊に異動する。横空は内地の部隊であったが、戦局の悪化はそれを許さず、6月には八幡空襲部隊を編成して硫黄島に進出する。

 この硫黄島進出に志賀少尉は坂井三郎少尉の2番機として参加、米機動部隊相手に劣勢ながら健闘している。特に7月4日の米機動部隊特攻攻撃では空戦中にカウリングが吹き飛んでしまうほどの過過酷な空戦をくぐり抜けて生還している。1945年2月には203空に異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 203空時代に同じ部隊に所属した阿部三郎中尉は落下傘を付けずに出撃する志賀少尉に驚愕している。それを志賀少尉に訊いたところ「撃墜されるようなへまをやるくらいなら、自爆しますよ。」とさりげなく答える姿に自信と決意を感じたという。現に八幡空襲部隊で米機動部隊に特攻攻撃を命ぜられた際、志賀少尉は顔色一つ変えなかったという。戦後は航空自衛官として定年まで活躍した。

 

志賀正美少尉関係書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。志賀少尉は坂井三郎中尉が硫黄島進出した際に列機として登場する。

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

 書名に著名な搭乗員、藤田怡与蔵少佐の名前があるが、中身は阿部氏自身についての記載が多い。阿部氏は戦争末期に戦闘303飛行隊にいたこともあり、トップエース岩本徹三についての記述がある。どうも岩本徹三に気に入られていたようで、いろいろ教えてもらったようだ。著者の経験も興味深いが岩本徹三の別の顔も見られて面白い。志賀少尉は「エース岩本少尉という男」の段に登場、上記のエピソードが掲載されている。

 

まとめ

 

 志賀少尉は操練50期中ただ一人の生き残りであった。経歴は非常に特徴的で太平洋戦争前半は内南洋でほとんど空戦をすることなく過ごしたが、中盤以降は突然、最前線のブイン基地に配属、半年以上熾烈なソロモン、ラバウル航空戦に活躍することとなる。その後も内地に帰還したものの八幡空襲部隊として少数機で米機動部隊と戦い、本土に帰っても最前線の九州で戦闘に参加し続けた。その実戦に裏打ちされた自信は落下傘を装着せずに出撃する姿に良く表れている。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 長野喜一は戦闘機搭乗員の操練最後の期である56期出身で総撃墜数は20機以上ともいわれる搭乗員である。開戦時にはまだ10代という非常に若いパイロットであったが、激烈なラバウル航空戦に参加、幾度も死線をくぐり抜けていった。戦争後期には台湾沖航空戦、比島航空戦に参加するが比島において空戦中に戦死する。

 

長野喜一の経歴

 

概要

 1922年静岡県生まれ。1939年6月海軍に入団。1941年7月56期操練を卒業。10月千歳空に配属され、開戦を迎えた。1942年6月2空に異動。内地帰還。8月ラバウルに進出。1943年7月厚木空、ついで203空戦闘304飛行隊に異動。1944年4月北千島に進出、防空任務に就く。捷号作戦、台湾沖航空戦、比島航空戦に活躍したが、11月6日バンバン上空で戦死。

 

操縦練習生とは

 長野が修了した操練56期とは冒頭にも書いたが戦闘機搭乗員最後の操練であり、以降の戦闘機搭乗員養成は予科練に統合される。ここで予科練について説明しておこう。予科練とは海軍飛行予科練習生の略称で1930年に成立した搭乗員養成課程であった。応募資格は高等小学校卒業程度の学力を有する14歳〜20歳までのむろん男性だ。

 当時の学制が分らないと予科練の制度は理解できない。当時は義務教育として尋常小学校があった。これは現在と同じで6歳から12歳まで教育を受ける。その後、進学する者は2年間の高等小学校、若しくは5年間の中等学校に通う。予科練は高等小学校卒業程度の学力が必要であった。 1937年に新たに旧制中学校4年生以上の者を対象に甲種予科練制度が発足する。これによりそれまでの予科練は乙種予科練となる。さらに1940年、海軍の部内選抜である操縦練習生も予科練に統合されて丙種予科練となる。因みにこの甲乙丙というのは学歴基準の序列であり乙、丙種予科練出身者にわだかまりを残すこととなった。

 

操練同期とラバウルの死闘

 長野喜一に戻ろう。長野は最後の操練56期を修了した。同期には台南空の撃墜王吉村啓作(12機撃墜)、河西春男(11機撃墜)、さらに水上機から陸上機に転科したエース、ジェロニモこと甲木清実(16機撃墜)、艦隊戦闘機隊のエース白浜芳次郎(11機撃墜)がいる。

 長野は操練終了後、千歳空に配属される。千歳空は内南洋防衛の陸攻、艦戦の混成部隊である。この方面ではほとんど戦闘は無く、哨戒と訓練に日々勤しんでいた。しかし、1942年1月にラバウル占領と共に千歳空派遣隊として一部がラバウル進出。さらに5月にも一部部隊がラバウルに派遣されている。

 長野はこれら2度にわたるラバウル派遣隊に参加することはなく、6月には、同年兵の山本留蔵とともに艦戦、艦爆の混成部隊である2空(のちの582空)隊員として内地に帰還する。しかしこの2空も2ヶ月後の8月にはラバウルに進出する。長野も2空搭乗員としてラバウル進出する。この2空の戦闘については同時期に2空に在籍した角田和男の著書『零戦特攻』に詳しい。1年に及ぶ激烈なラバウル航空戦を生き抜いた。この間の撃墜数は582空一だったという。

 

厚木航空隊(203空)配属以降

1943年7月、1年振りに内地に帰還、厚木航空隊に配属される。厚木航空隊は、のちに首都防空のエース部隊として活躍するが、この時点では艦隊搭乗員の錬成部隊であったので、恐らく教員配置であろう。厚木航空隊は1944年2月20日に203空と改称される。203空は本隊と木更津の派遣隊に別れるが、長野は本隊に所属した。因みに木更津派遣隊は3月14日、302空に編入される。長野は203空隊員として北千島に進出。北方の防空任務に就いた。この時期、203空には、開戦以来、共に転勤をしてきた山本留蔵、さらには、当初、長野と同じ千歳空に所属していた西澤廣義飛曹長もいた。この時期、203空は戦闘303、304飛行隊の2個飛行隊に別れるが、長野が所属した戦闘304飛行隊の隊長はのちに343空で活躍する鴛渕孝大尉であった。

 長野はその後、203空と共に九州に移動するが、6月には北千島で開戦以来、同じ部隊で過ごしてきた同年兵の山本留蔵上飛曹が戦死している。九州に移動した長野は、10月には台湾沖航空戦に参加する。長野も戦闘304飛行隊隊員として九州出水基地から沖縄に進出。敵機動部隊攻撃に加わった。台湾沖航空戦ののち203空は、比島に展開。米機動部隊と熾烈な航空戦を展開する。長野も多くの空戦に参加するが、1944年11月6日バンバン上空で戦死する。

 

まとめ

 

 長野喜一は太平洋戦争の開戦をマーシャル諸島で迎える。それまでに実戦経験はない太平洋戦争で初めて実戦を経験した搭乗員である。開戦後、しらばくしてラバウルに送られ多くの激戦を生き抜いた。「死ななきゃ内地に帰れない」と言われれたラバウル航空戦を1年近くも戦い抜き生還したのだが、その長野も激戦のフィリピンで戦死する。当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員の最期であった。

 

坂井三郎01 (画像はwikipediaより転載)

 

 日本でもっとも有名な撃墜王。大空のサムライこと坂井三郎である。坂井は海兵団から操縦練習生を経て最終階級は少尉、戦後に何だか分らない昇進で中尉となったという正真正銘の叩き上げ軍人で、昭和18年、大村航空隊教員時代に多撃墜搭乗員として杉田庄一と共に表彰されている熟練搭乗員である。

 

坂井三郎の経歴

 

 大正5年8月26日佐賀県に生まれる。昭和8年5月佐世保海兵団入団。9月戦艦霧島乗組となる。昭和10年海軍砲術学校入校。昭和11年5月戦艦榛名乗組。昭和12年3月、第38期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊する。同年11月30日第38期操縦練習生を首席で卒業。昭和13年4月大村空に配属される。同9月第12空配属される。昭和15年大村空で教員配置。昭和16年4月、再び第12空に配属され、同10月台南空に配属される。昭和17年4月ラバウル進出、連日の航空戦に参加。同8月、ガダルカナル上空の空戦で負傷。内地送還。横須賀海軍病院、佐世保病院での療養を経て、昭和18年4月大村空配属。昭和19年4月横空配属。7月横空戦闘701飛行隊配属。11月203空配属。12月343空配属。昭和20年再び横空配属で終戦を迎える。平成12年9月22日逝去。84歳。

 坂井三郎を有名にしたのは戦後に書かれた坂井三郎空戦記録、そしてそれを元にした『大空のサムライ』であろう。さらに90年代まで執筆を続けた。主な著書は『大空のサムライ』『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』等がある。  坂井は上記のように操縦練習生38期を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜されている。38期の同期には撃墜50機と言われる岡部健二がいる。坂井は日中戦争に参加するも実戦に参加することはほとんどなかったようであるが、1機を撃墜している。太平洋戦争が始まると台湾の台南航空隊に配属され、開戦と同時にフィリピンから始まる東南アジアの航空撃滅戦に参加している。

 航空撃滅戦を行ったのは台南航空隊と第3航空隊であるが、第3航空隊はチモール島クーパン基地へ、台南航空隊は17年4月、ニューブリテン島ラバウル基地へ展開した。当初はニューギニア東部のラエ基地に展開してポートモレスビー攻撃に参加した。1942年8月にガダルカナルに米軍が上陸すると台南空はすぐさま攻撃に向かうがここで坂井は負傷してしまう。記録によるとここまでで少なくとも33機は撃墜しているようである。因みに1942年8月7日のガダルカナル攻撃では坂井は4機撃墜を報告している。ヘンリーサカイダ氏の調査でも4機は誤認だとしても1機は確実に撃墜しているとのことだ。

 トップエースである西沢広義は6機を撃墜しており、日本軍の総撃墜数は48機、損害は12機となっている。しかし米軍の損害は実際には12機であり、ベテラン搭乗員で編成されたこの時期の零戦隊であっても4倍の誤認戦果を出してしまっている。因みに日本軍の損害は陸攻5機、艦爆5機、戦闘機2機である。撃墜した米軍機のほとんどが戦闘機であったとすれば日本軍は相当優勢であったといえるが、損害の数だけを比較するのであれば互角の戦いであり、搭乗員の死亡者で比較すれば惨敗である。

 坂井は目を負傷してしまったためその後はほとんど前線に出ることは無かったようである。内地帰還後は大村航空隊で教員勤務が続いた。1944年5月横須賀航空隊へ転勤し、6月には八幡空襲部隊として硫黄島に進出する。そこで迎撃戦に参加した。坂井氏はここで特攻出撃を命ぜられているが、特攻出撃後、空中戦を行い、同じく撃墜王である武藤少尉と共に帰還している。1944年12月、有名な343空、通称「剣」部隊に転出するがこれは極短期間であったようだ。1945年には再び横空付となり終戦を迎える。

 総撃墜数64機としているが、公文書で確認できるのは30機前後と言われている。しかし坂井の上官である笹井醇一が親に書いた手紙に坂井の撃墜数を50機としていることから一概に嘘であるとは言えない。戦後の坂井に関してはあまり良くない噂等もあるが、日中戦争以来のベテラン搭乗員であり、海軍航空隊の勇者であることは間違いない。

 

坂井三郎関連書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。

 

坂井三郎『大空に訊け!』

坂井三郎 著
光人社 (2000/11/1)

 週刊プレイボーイ紙上で連載していた坂井三郎氏の悩み相談集。読者から寄せられる様々な悩みに坂井氏が答えていく。坂井氏の答えは、死線をくぐり抜けてきた人間が持つ圧倒的な説得力と同時に非常に論理的かつ広い視野から答えている。世間一般とは違う考え方をしている部分が多いが、それも論理的であり、正論である。実は私は坂井氏の著作の中で本書が一番好きである。

 

坂井スマート道子『父、坂井三郎』

坂井スマート道子 著
潮書房光人新社 (2019/7/23)

 坂井三郎氏の娘、坂井スマート道子氏から見た坂井三郎。奥さんの連れ子と自身の子を一切差別することなく育てた坂井氏。義理の息子が「坂井」姓を名乗るようになるが、御子息は喜んでいたという。道子氏が学生運動に熱を上げている時に一喝したこと、外に出た時は前後左右「上下」を確認しろと教えていたことなど搭乗員らしく面白い。「アメリカ人は楽しいぞ」と言っていた坂井氏、道子氏はアメリカ軍人と結婚しており、アメリカ人とは気質があったようだ。誰も知らなかった坂井三郎の姿があった。

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。

 

01_谷水竹雄
(画像はwikipediaより転載)

 

 模型愛好家だったら、米軍の星マークに矢が刺さっている撃墜マークの横に立っている搭乗員の写真を見たことがあるかもしれない。零戦の写真集には必ずと言っていいほど掲載されている有名な写真だ。この写真の男は谷水竹雄飛曹長。初陣から終戦までに撃墜した敵機の数は18機とも30機以上ともいわれる、太平洋戦争中期から終戦まで戦い続けた熟練搭乗員だ。

 

海軍へ。。。

 

02_九三式中練
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水は、大正8年三重県生まれた。母は真珠を採る海女だったという。昭和16年2月に丙種予科練習生3期に採用された。丙飛卒業生の飛練は17期、18期の2期あり、谷水は16年4月に始まる17期飛練に分けられた

 飛練の教員は操練40期の中島隆三空曹で同じ教員に割り当てられたペアには杉野計雄、杉田庄一、のちにソロモン航空戦で戦死する加藤正男がいた。撃墜数は不確定要素が強いので参考にしかならないが、杉野は32機撃墜、杉田は70機撃墜と言われる著名な撃墜王となっていく。この中島隆教員はよほど教えるのが上手かったのだろうか谷水も18機の撃墜記録を持っていたと言われている

 そのまま大分空へ転勤、戦闘機搭乗員として訓練を受ける。この時期には海兵67期、甲飛5期、乙飛10期が訓練を受けている。のちに翔鶴戦闘機隊で分隊長となる小林保平も同時期に訓練を受けていた。これらの期は太平洋戦争中盤から中核として戦ったクラスであり、その分、犠牲も多かった。

 

6空配属。ミッドウェー海戦

 

03_ミッドウェー海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和17年3月飛練を修了。4月1日に新たに木更津で編成された6空に配属される。6空は司令森田千里大佐、飛行長玉井浅一中佐、飛行隊長新郷英城大尉を主要幹部に迎えた特設航空隊である。その後、204空と改称され、のちのラバウル航空戦の主力として戦線を支え続けた部隊だ。

 4月18日のドーリットル隊の空襲では6空も陸攻隊を援護して敵機動部隊攻撃に向かうが発見できずに帰投している。空襲は日本側の防御網の貧弱さや油断から成功し、日本側の死傷者は500名以上に上った。この空襲の大本営からの発表では日本側の損害は「軽微」、米軍機を9機撃墜したことになっている。実際には、日本側は陸海軍共に航空機が飛行していたが誤認や油断のために1機も撃墜することはできなかった。

 この空襲がきっかけでミッドウェー作戦が決定されるのだが、6空もミッドウェー島占領後の基地航空隊としてミッドウェー作戦に参加する。6空は南雲機動部隊と陽動のため実施されるアリューシャン作戦に参加する空母隼鷹に分乗するのだが、谷水は隼鷹に乗っていたため難を逃れた。

 

空母大鷹へ

 

03_大鷹
(画像はwikipediaより転載)

 

 ミッドウェー作戦失敗後、隼鷹は大湊に寄港、谷水他6空搭乗員は陸路木更津に移動する。6空はその後ラバウルに進出するが、谷水や同期の杉野は7月7日、母艦搭乗員として大分空で編成中の「大鷹」戦闘機隊に着任する

 空母大鷹は日本郵船の貨客船春日丸を海軍が徴収したもので排水量17830トン、最高速力22ノットの航空母艦である。谷水が配属された時点ではまだ特設空母春日丸であったが、昭和17年8月に大鷹として正式に航空母艦となる。空母としては小型で速力も22ノットしか出せないため戦闘機は未だ九六式艦戦であり、搭乗員には熟練者が選抜された。

 谷水は数ヶ月前に実戦部隊に配属されたばかりであるが、飛練も同期の中では早い17期に編入されていることや母艦搭乗員に選抜されていることからも当初から搭乗員としてのセンスに恵まれていたのだろう。この時の大鷹戦闘機隊の構成は、丙3期の谷水、杉野、米田以外は飛行隊長は海兵66期の塚本祐造、分隊士は操練26期の松場秋夫、その他の搭乗員も操練26期の青木恭作、同27期大久保良逸、甲飛1期の前田英夫等の熟練者が揃っていた。

 

母艦搭乗員としての猛訓練

 

 昭和17年7月7日着任後、大分基地で母艦搭乗員としての猛訓練を受ける。この猛訓練のお陰で谷水は終戦まで生き抜くことができたという。8月17日、春日丸は戦艦大和の護衛としてトラック諸島に進出、谷水も戦闘機隊員として乗艦する。以降、航空機の輸送任務に従事するが、10月にはデング熱にかかってしまう。その後谷水は空母大鷹と共に呉着、大村空で教員配置に就く。短期間ではあるが飛練24期の教員となる。

 飛練練習生卒業後は、練習生の一部と共に12月1日付で佐世保軍港防衛戦闘機隊に転勤する。戦闘機隊といっても新人の錬成も主な任務だったようだ。この時期に谷水はじめ搭乗員達が憲兵と喧嘩になった。その後問題となり谷水が暴行の犯人として名乗り出たという。どうも実際にはやっていないようだ。

 昭和18年1月、谷水は同期の杉野と共に冨高基地に移動する。冨高基地は艦隊航空隊の訓練基地で1月15日には訓練部隊である第50航空戦隊が開隊している。ここで艦隊航空隊の訓練を行うための移動だ。この時点で艦隊戦闘機隊への編入が決まっていたようだ。

 この異動は同期の杉野と一緒であるが、驚いたことに谷水と杉野は飛練の練習生時代に同じ教員のペアになって以来、9回の異動でもいつも同じ部隊であった。海軍ではかなり珍しいことだ。この冨高への移動の途中、谷水と杉野は「私たちはピーナッツですね「本当だ、二人は二枚貝のようだな。いっしょにいるから強く生きているのかね」と話し合ったという

 同期とはいっても同年ではなかったが、二歳年上の谷水に対して8ヶ月海軍への入隊が早い杉野と、年齢では谷水が先輩だけど、海軍では杉野が先輩ということで対等な付き合いだったようだ。冨高基地では艦隊航空隊の訓練が行われていたが、この時、のちに「トッカン兵曹」と呼ばれる小高登貫もこの冨高基地の訓練に参加していたようだ。小高は翔鶴戦闘機隊に配属予定であったが急遽202空に変更されてしまった

 それぞれの搭乗員の記録を読むと当初から所属する母艦が決まっていたというのではなく、「艦隊航空隊搭乗員」として冨高基地に集められ、のちにそれぞれの母艦に振り分けが行われていたようだ。当時、翔鶴戦闘機隊に所属していた操練43期の熟練搭乗員小平好直の手記によると、築城航空隊附となったが築城飛行場が完成していないため築城空冨高派遣隊となっていた。築城空は昭和17年10月に新設された艦上機搭乗員練習航空隊である。

 

空母翔鶴に転属

 

04_翔鶴
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水や杉野、小高はいったん築城空に配属されたのちそれぞれの航空隊に配属されたのだろう。昭和18年2月に転勤命令が出て、谷水はまたもや杉野と共に翔鶴戦闘機隊に配属されるが、この時期には空母翔鶴は南太平洋海戦での損傷を修理中であったようだ。4月には谷水達翔鶴戦闘機隊は訓練のため笠之原基地に移動した。

 笠之原基地で谷水は戦闘機爆撃の研究員となる。戦闘機爆撃とはその名の通り戦闘機による爆撃をすることである。これは空母の飛行甲板を一時的に破壊することを目的している。ミッドウェー海戦や南太平洋海戦での経験からの着想だろう。当然、戦闘機は爆撃用ではないので急降下爆撃機のようにエアブレーキがない。急降下すると自然に浮き上がってしまったりと爆撃機のように目標に命中させるのは難しいようだ。

 この戦闘機爆撃という戦法は一見合理的に見えるが、実はかなり危険な戦法のようだ。昭和18年11月24日、マキンに上陸した敵を爆撃するために252空の周防大尉以下19機の爆装零戦が出撃したが、内10機がたどり着く前に敵戦闘機に撃墜されてしまっている。零戦は爆装すると全く自由が効かず敵が襲ってきても手も足も出ないという

 同様に昭和18年12月15日、マーカス岬の米軍上陸地点に爆撃をかけたラバウルの爆装零戦隊15機も、15機中14機が被弾、3機が不時着するという大損害を受けた。米軍には損害はほとんどなかった。この戦闘機爆撃の危険性は翔鶴戦闘機隊でも訓練前から把握していたようで、南太平洋海戦にも参加した分隊長の小林大尉は谷水の同期の杉野に対して戦闘機爆撃隊は決死隊であると語っている

 

トラック島へ進出

 

 昭和18年7月10日、笠之原基地での数ヶ月に及ぶ訓練を終え、翔鶴戦闘機隊は空母翔鶴に収容され呉を後にした。15日には南方の連合艦隊の拠点トラック諸島に到着する。全くの余談だが、呉トラック間の距離は3573km、5日間で到着したので一定の速度で航行していたと仮定すると、速度は時速29.7km、ノットにすると16ノットでの航海となる。戦時中の機動部隊の航行速度が分かって面白い。

 トラック諸島に着いた谷水たちを待っていたのは引き続きの猛訓練であった。珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と相次ぐ海戦に搭乗員が消耗してしまったため、若手搭乗員の技量を早急に上げる必要にせまられてのことだった。

 戦闘機爆撃の訓練も引き続き行われた。その結果、戦闘機爆撃の命中率は50%以上に達したという。2回に1回は命中するというのは相当な練度といえる。しかしこの訓練中、脇本二飛曹が標的艦矢風のマストに接触、空中分解するという事故も起こった。脇本二飛曹は死亡。遺体は手足の無い胴体のみが回収されたという

 そんな中、第一航空戦隊の三空母合同の大演芸会が企画された。娯楽の少ない戦地では演芸会というのは本当に楽しいようだ。翔鶴戦闘機隊は谷水が座長になり漫才や寸劇等が行われた。谷水は寸劇を担当した。特に女形の声色が素晴らしかったようだ

 

搭乗員の墓場ラバウルへ

 

05_ラバウル航空隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和18年11月1日、谷水達翔鶴戦闘機隊員は「ろ」号作戦に参加するためラバウルの西、ブナカナウ飛行場に進出した。「ろ」号作戦とは、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の艦隊航空隊をソロモン方面の戦闘に投入し、一挙に体制を立て直そうとした作戦であった。

 この時の進出機数は資料によって若干の違いがあるが、翔鶴戦闘機隊32機、瑞鶴戦闘機隊32機、瑞鳳戦闘機隊18機の計82機の戦闘機隊が進出した。翌11月2日、米軍機のラバウル来襲に対して、ラバウルに展開する204空、201空等と第一航空戦隊の零戦隊は迎撃戦を展開する。

 翔鶴戦闘機隊は2機を失うも撃墜40機という大戦果を挙げた。この日の迎撃戦では全部隊での撃墜戦果は撃墜97機、不確実22機、総合戦果は、当時の新聞報道によると対空砲火の戦果まで含めると201機の撃墜であったという。しかし実際の米軍側の損害はP38、9機、B25、8機の計17機であった。これに対して零戦隊は18機が撃墜されている。損害だけで見るとほぼ互角の戦いといっていい。

 この空戦で谷水はP38、2機を撃墜し初陣を飾る。飛練を卒業してから1年半での初陣であった。他の丙3期出身の同期の中には1年以上前に戦地に送られている者もあり、十分な訓練期間を与えられた谷水は幸運であったといえる。「ろ」号作戦は11月13日を以って終了する。ラバウルに進出した第一航空戦隊零戦隊82機の内、43機を失った。艦攻、艦爆に至っては8割以上が失われた挙句、特筆すべき戦果は何もなかった。この後、翔鶴戦闘機隊はマーシャル諸島に進出する。谷水が参加したかどうかは不明であるが恐らく参加しただろう。帰還後、谷水は次期作戦のため、しばらく休養を命ぜられた。

 

トラック島に後退

 

06_トラック島
(画像はwikipediaより転載)

 

 この数週間の戦闘で消耗しつくした第一航空戦隊は再建のため本土に帰還する。昭和18年12月13日、中川大尉を隊長として母艦戦闘機隊より選抜された谷水、杉野を含む21名は、派遣隊としてラバウル、トベラ基地に展開している253空の指揮下に入った。昭和19年2月1日付で台南空への転勤命令がでるまでの2ヶ月間、谷水は「搭乗員の墓場」と言われたラバウルで連日の航空戦に参加した。谷水は、このラバウルでの戦闘においてヘルキャットが最も強敵であったという。

 

「機動性に富み、素早く横転ができるヘルキャットがいちばん手ごわい相手でした。P-38やF4Uコルセアは小回りが効かず、一撃して離脱していくだけでしたから。米軍機は総じて空中で火を吐かせるのは至難の業でした。弾丸を命中させても、いくらか煙をひくだけなのです。煙が出るようすをみれば、それがアメリカ機か零戦かすぐわかりました」 ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P82

 

 さらにF4Uコルセアについてはこう語っている。

 

 「F4Uコルセアを確実に落とそうと思うなら、気づかれてはいけません。そして、後方のある特定の角度からでないと、銃弾がはね返されてしまいます。また、私はコルセアが低高度から機種を上げきれずにそのままジャングルや海中に突っ込んでいくのを目にしています。機体が重すぎるのでしょう。我々はときにはコルセアを追いかけて海に突っ込ませたものです。零戦は軽かったのでそんな心配はありませんでした」 ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P82

 

 憲兵隊との事件で犯人として名乗り出たことからも分かるように谷水は優しい性格だったのだろう。昭和19年1月4日、パラシュートで海面に降下する敵パイロットに対して救命用浮き輪を投げたこともあった。残念ながらその米軍パイロットは生還できなかった

 数々の空戦を生き抜いた谷水達第一航空戦隊派遣隊は1月25日、ラバウルを後にする。進出した時、21名いた隊員はわずか7名になっていた。第一航空戦隊派遣隊以外にも長期間にわたってラバウル戦線を支えた204空、501空がトラック島に後退したが、代わりに第二航空戦隊がラバウルに進出した。この中には「オール先任搭乗員」菊池哲生上飛曹もいる。

 トラック島に帰還した谷水は春島基地で錬成中の202空に仮入隊する。次の転勤先は谷水が台南空教員、杉野が大分空教員と土浦以来いつも一緒だった二人がとうとう別々の勤務先に配属されることとなった。2月4日、トラック島にB24が飛来、谷水と杉野は迎撃に出撃するがこれが谷水と杉野が一緒に戦う最後の空戦であったようだ。

 

内地帰還。親友との別れ

 

 2月10日、本土とトラック島の輸送任務に従事していた空母瑞鳳に乗艦しトラック島を出発、2月下旬、横須賀に入港した。ここからの移動手段は不明だが、恐らく電車であろう。途中で谷水は実家の志摩によるため、大分に直行する杉野と別れることになる。別れる時はただ一言「元気でな」だけであった。谷水と別れた杉野は何か気の抜けたような感じであったという。生死を共にした仲間の別れとしてはあっけないが、本当の親友に言葉はいらないのだろう。

 昭和19年2月下旬、横須賀に着いた谷水は飛練以来の戦友、杉野と別れ実家のある志摩に向かった。志摩で母親にあったのち、台湾方面行きの航空便を待つため鹿屋に向かった。そこで台南空より大村航空廠に練戦の領収に来ていることを知り一路大村基地に向かった。台南空とは台南航空隊の略で台湾の台南を拠点とする航空隊である。台南空といえば、坂井三郎や西澤廣義、笹井醇一等が活躍した部隊として有名であるが、この台南空はその部隊とは異なり、昭和18年4月に台南に開隊した練習航空隊である。

 

台湾へ異動

 

 その台南空では機材受領等のために大村の第二一航空廠との間で機材輸送を行っていた。谷水達が便乗したのはこの内の練戦受領の便だった。練戦には九六式艦戦をベースにした二式練戦と零戦ベースの零式練戦があったが、恐らく練戦とは第二一航空廠で試作、生産が行われた零式練戦のことだであろう

 零式練戦とは零戦21型を複座式にした練習機で昭和18年に試作機が完成、昭和19年3月17日に正式採用された。谷水が台南空に着隊した時期は恐らく3月上旬だと思われるので完成したばかりの正式採用前後の機体であったのだろう。谷水は、空輸隊指揮官松田二郎飛曹長に理由を話して領収飛行に参加、沖縄経由で台南空に着任した。谷水が担当したのは特乙1期、2期であった。特乙とは乙飛合格者の中から年長者を選び短期間で教育する制度だ。特乙は1期〜10期まで採用されたがこのうち戦闘機専修があったのは4期までである

 谷水の手記には、その特乙1期も昭和19年5月には卒業したとあるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』には特乙1期の卒業は7月とありどちらが正しいのかは不明である。ただ、特乙2期は飛練も2期に分けれられているのでより人数の多かった特乙1期も2期に分けられていた可能性もある。その後、特乙2期も終了、前後して13期予備学生が入隊する。これら訓練生の教育と共に教官や教員には哨戒任務も課せられていた。特に、これら教官、教員の中でも、この時期の台南空では夜間戦闘ができるのは谷水と零戦初空戦に参加した熟練搭乗員岩井勉(撃墜22機)のみであったという。

 

B24を撃墜

 

07_B24
(画像はwikipediaより転載)

 

 夜間空襲の場合、一つの目標に対して二機が立ち向かうことはお互いに衝突する恐れがあるので、邀撃は零戦1機のみで行うこととなり谷水と亀井が交互に待機任務に就くことになった。昭和19年8月31日、B-24、11機の接近に対して、待機中の谷水に出撃命令が下った。谷水は最初に1機を銃撃、手ごたえを感じたというが損害を確認できず、さらに対空砲火が止んだのを見計らって別の1機のエンジンに一撃し1機撃墜戦果を報告している。これは425thBSのノーマン・Bグレンドネン中尉操縦のB-24で墜落して1名が捕虜になっている。

 谷水が最初に銃撃をかけた1機もその後中国大陸で山に衝突しているので、谷水はこの空戦で2機を撃墜していることになる。9月3日にも夜間に大型機の邀撃をするが、この時は陸軍の一式戦から攻撃を受け撃墜に失敗している。この時の一式戦は風防を開けたままであったということに谷水は驚いているが、加藤隼戦闘隊こと、第64飛行戦隊のエース安田義人によると、陸軍の戦闘機乗りは死角を減らすために風防を開けたまま戦うのが普通だったようだ

 台南空での勤務時、谷水は特攻隊の話を聞かされ志願している。特攻隊の編成は志願による場合と、志願という建前で強制される場合があったが、台南空の場合は前者の方だったようだ。谷水は当初、母一人子一人であったため特攻の話から外されていたが、特攻であることを知り改めて志願している。昭和19年10月になると、台湾も米軍機動部隊の攻撃を受けるようになってきた。谷水もしばしば邀撃戦に参加している。さらに台南空教員でありながら、「飛び入り」で台湾沖航空戦にも参加している。しかし11月3日、ちょっとした油断から撃墜されてしまう。

 撃墜したのは74FSのボリアード中尉でP51を駆り、谷水と列機の伊藤上飛曹機を撃墜、最終的には5機を撃墜するエースとなる。伊藤は戦死、谷水は一命を取り留めるものの大やけどをしてしまう。病気療養中、台南空は練習航空隊としての機能を失った結果、教官、教員で特攻隊を編成することになった。当然谷水も特攻隊員に任命されたのだが、台南空司令の判断により内地の戦闘308飛行隊への転勤を命ぜられる。因みに教官とは士官、教員は下士官の指導員のことを指す。

 

戦闘303飛行隊へ

 

08_零戦52型丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和19年12月6日、谷水は鹿屋に到着、笠之原基地で戦闘308飛行隊へ入隊した。その戦闘308飛行隊も前線に進出してしまったが、谷水は被撃墜時の傷のため内地に残留となり、そのまま戦闘312飛行隊に編入された。傷の癒えた谷水はこの戦闘312飛行隊で数度の空戦に参加する。

 昭和20年3月26日戦闘303飛行隊に編入された。戦闘303飛行隊は昭和19年3月1日に発足した飛行隊で太平洋戦争末期、海軍戦闘機隊の中で最も練度の高い部隊であった。隊長は海兵63期のベテラン指揮官岡嶋清熊で、隊員には戦地帰りの熟練者が多く、太平洋戦争のトップエースと言われる西澤廣義、零戦虎徹を自称するエース岩本徹三、操練27期のエース近藤政市、ラバウル帰りの西兼淳夫等、太平洋戦争末期においてもA級搭乗員の比率は30%に及んだ

 戦闘303飛行隊は編成後、フィリピンに進出し壊滅的な打撃を受ける。谷水が戦闘303飛行隊に編入されたのは、この消耗した戦闘303飛行隊が再編成された時であった。谷水の編入に前後して岩本徹三や近藤政市も戦闘303飛行隊に着任したようだ。いくら精鋭部隊といえども1945年にもなるとさすがに彼我の戦力差から士気が低下してきたようだ。谷水は隊員の士気を高めるため隊歌を作詞したりもしたようだ。その隊歌が以下のものだ。

 

<岡嶋戦闘機隊の歌>
一 乱雲南にまた北に 乱れ飛ぶ世に生を得て
  意気と度胸のますらおが 建てし誉れの進軍賦
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

二 衆を頼みつ驕りつつ 神州汚す醜敵を
  死を期し破邪の剣もて 国の勝利を我が胸に
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

三 身は何冥の雲を染む 功は永遠に若鷲の
  生気放光錦江湾 七生報国意気高し
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

(土方敏夫『海軍予備学生空戦記』より引用)

 

 当初は二番目の「国の勝利」は「遂の勝利」であったが、共同通信の記者の意見によって変えたという。この歌詞にさらに士官の土方敏夫が曲をつけ隊歌が完成した。さらに士気高揚のために撃墜マークを機体に描いたのもこのころであった。安部氏の手記の時系列が正しければ、撃墜マークを描いたのは昭和20年6月〜7月中旬あたりだろう。

 戦闘303飛行隊は九州に展開していた第五航空艦隊随一の制空戦闘機隊として八面六臂の活躍をしていたが衆寡敵せず昭和20年8月15日終戦となった。当時、戦闘303飛行隊が所属していた五航艦は作戦継続を指令していたようだが、結局、停船命令が出た。最後は五航艦司令宇垣纏中将の特攻によって五航艦の戦闘は幕を閉じたようだ。

 

終戦

 

09_空母天城
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水は宇佐基地で終戦を迎えた。玉音放送後、厚木の陸上爆撃機銀河が徹底抗戦を主張するガリ版刷りの檄文を撒いていった。ただ、15日を以って完全に戦闘が終了した訳ではなく、16日も迎撃戦が行われ未帰還機も出したようだ。最精鋭の飛行隊だけに武装解除時にも零戦搭乗員が拳銃を持ち零戦に乗りプロペラ外しと燃料を抜きに来た整備員を近づけなかったという。谷水も終戦を認めず終戦後も5日間にわたって敵機を追い求め徹底抗戦を主張するビラを撒いたりしたようだ

 その後、谷水の手記によると、8月19日夜、総員集合命令があり、集合すると総員無期休暇が発表された。さらに20日零時までに本州に入ること、またそれが出来なかった場合は山に入ること。さらに敵がポツダム宣言を履行しなかった場合は24時間以内に原隊に復帰することが言い渡されたという。土方敏夫の著書によると若干異なる。土方によると24日に搭乗員集合の命令がかかり24時間以内に退隊すること、搭乗員の証拠になるようなものは一切身に着けるな。さらに隊から正式に帰隊命令があるので地下に潜伏し、隊長とは連絡が取れるようにすることが言い渡されたという

 どちらが正しいのか(またはどちらも正しい)は不明だが、速やかに基地から離れること、帰隊の指示を待てというのは共通している。どちらも血の気の多い搭乗員を復員させるための方便であったのかもしれない。谷水は重要書類を焼却したのち、送別会を行い、全員で泣きながら同期の桜を歌ったという。谷水の総飛行時間は1425時間、その間に撃墜した敵機は18機とも32機とも言われている

 

 

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