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202空

01_スピットファイア
(画像はwikipediaより転載)

 

ポートダーウィン空襲

 

ジークは右上方に急旋回をして攻撃を回避したあとあと(ママ)降下した。私もそのあとを追って急降下を行ない、300ヤード(274.3メートル)付近から3分の2秒の連射を行なった。そのままでは攻撃を受けることが予期されていたため、右に急旋回する回避行動をとったのち、ジークの動きを見るために左に旋回した。さらにそのジークを追って急降下を続けると、5,000フィート(1,524メートル)付近で敵機から白い煙が上がり始め、相手はそのまま地上に墜落炎上した。
クリステンアレキサンダー『キラーと呼ばれた男』P215

 

オーストラリア空軍のトップエース、コールドウェル大佐

 これは1943年6月30日、日本海軍航空隊とオーストラリア空軍の戦闘に参加したオーストラリア空軍のエースパイロット、コールドウェル大佐が日本の戦闘機ジーク(零戦)を撃墜した記録である。コールドウェル大佐とは、オーストラリア空軍史上最高の敵機を撃墜したエースで総撃墜数は27.5機にもなる。1910年シドニーで生まれた。30歳の時に年齢を偽り空軍に入隊、翌年少尉に任官した。天性の才能があったようでわずか157時間の飛行時間で実戦に参加、1ヶ月半後にはドイツ空軍のBf109を撃墜して初戦果を挙げた。

 オーストラリア空軍は実力主義であったようで、実績を挙げたコールドウェル少尉はトントン拍子に出世、わずか4年で第11航空団司令に任命され、階級も中佐となる(秦P97)。英国の名機スピットファイアで編成されたこの飛行隊はポートダーウィンに展開、日本空軍と対峙することになる。

 これに対する日本空軍戦闘機隊は、主に海軍の202空で太平洋戦争開戦と同時に台南空と共に比島で航空撃滅戦を展開、南方作戦を終了した後、チモール島に展開していた部隊である。台南空以上にベテランが揃えられていた部隊で赤松貞明中尉や横山保中佐等が在籍していた部隊でもある。海軍航空隊の中でも特にベテランが多い精鋭部隊であった。6月30日の空襲時の202空の指揮官は鈴木實少佐でこれまた日中戦争以来のベテランであった。爆撃機隊は主に陸攻部隊である753空で、一時的に陸軍の戦闘機隊である飛行第59戦隊、爆撃機隊である61戦隊も参加している。

 この空戦の結果、スピットファイア隊は6機が撃墜されたものの、敵戦闘機3機、爆撃機4機を撃墜、不確実撃墜4機を報告している。6機の損失を出したものの、7機(資料によっては8機)を撃墜しているのでスピットファイア隊としては互角の戦いであったといってよい。コールドウェル大佐自身はこの空戦で零戦1機を撃墜し撃墜数は26.5機となった。

 

 

日本側から見てみると。。。

 ここで日本側からこの空戦を見てみたい。6月30日の空襲の目標は内陸に位置するブロックスクリーク基地で、ここには米軍の新鋭爆撃機B24が大量に配備されていた。航続距離3,540kmという性能を誇るB24を地上で破壊するのが作戦の目的である。しかしブロックスクリークは内陸に位置するため攻撃には非常な危険が伴う。このため戦闘機隊の指揮官鈴木實中佐は、6月30日の出撃に関しては特に熟練搭乗員を選んでいた。日本海軍の搭乗員は下士官が一番練度が高い。今回の編成は下士官と下士官からの叩き上げである准士官のみで編成され、唯一の士官である鈴木中佐が指揮官となるという特異な編成で行われた(神立P247)。

 鈴木隊長に率いられた202空零戦隊27機と754空の一式陸攻24機は一路ブロックスクリークに向かう。これに対してコールドウェル大佐率いるスピットファイア38機が激撃に上がった。ここに空戦の火ぶたが切って落とされた。この空戦は予想通りの激烈な空戦となり、百戦錬磨の指揮官である鈴木中佐ですら自分の身を守るのが精いっぱいであったようだ。空戦が終わり基地に帰還してみると出撃27機中帰還したのは25機であった。しかししばらくするともう2機も帰還。全機無事に帰還したのだった。しかも陸攻隊にも2名が機上戦死したものの撃墜された機は無かった。

 

 

撃墜された零戦は1機もない

 そう、実は冒頭のあの精緻な空戦の様子。間違いなのだ。6月30日の空戦では日本側に損害は1機もない。故にあの煙を噴きながら地上に激突した零戦というのは存在しないのだ。しかしこれはコールドウェル大佐が問題なのではない。コールドウェル大佐率いるスピットファイア隊の空戦技術が高かったことは当の鈴木中佐も認めているし、コールドウェル大佐の撃墜戦果も確認されたているものも多い。この空戦では日本側もスピットファイア13機の撃墜を報告しているが、実際に撃墜したのは先ほども書いたように6機のみだ。

 よく「何十機撃墜のエース」というようなものがあるが、実際には本当に撃墜していたのかは誰にも分からない。台南空のエースパイロットである坂井三郎氏に言わせると「戦果報告というのは、まずそのほとんどが誤認」だそうだ(梅本P2)。実際、坂井氏が参加した1942年8月7日の空戦では台南空と米海軍戦闘機隊が激突した結果、台南空は撃墜40機を報告したものの実際撃墜したのは12機であった。戦果が3倍以上に膨らんでいるのだ。当時の台南空の精鋭を以てしてもこれほどの誤認戦果が出るのだ。

 そして彼我の搭乗員の練度が低下してくる上に混戦となってくる太平洋戦争後期の空戦では戦果報告と実際の戦果の差はさらに激しくなる。1943年7月17日、つまりは今回のブロックスクリーク攻撃の翌月行われたブイン基地での迎撃戦では海軍航空隊は45機の撃墜を報告しているが、実際に撃墜していたのは6機、同年11月11日に行われたラバウル迎撃戦では海軍航空隊は71機の撃墜を報告しているものの実際に撃墜したのは7機のみであった(⊃P305,306)。これは報告と実数の極端な乖離があったものを抽出したのだが、それ以外の空戦をみても、平均的に戦果は3倍程度は膨らんでしまうようだ。空戦での戦果確認というのはそれほど難しいものなのだ。

 

 

コールドウェル大佐は零戦を1機も撃墜したことがない?

 コールドウェル大佐が生涯で撃墜した航空機は合計で27.5機。28.5機という資料もあるようだが、27.5機というのが正解のようだ(クリステンP327)。この中でコールドウェル大佐は7機の日本機を撃墜している。その内訳は、零戦4機、一式戦闘機1機、九七式艦攻1機、百式司偵1機で、日時を書くと1943年3月2日に零戦1機、九七式艦攻1機撃墜、5月2日に零戦2機撃墜、6月20日に一式戦闘機1機撃墜、6月30日に零戦1機撃墜、8月17日に百式司偵1機の撃墜を報告している。

 実はこの戦果の内、零戦4機撃墜は全て誤認である。6月30日については前述したが、3月2日、5月2日の空戦でも零戦隊は全機帰還しており、日本側に損害の報告はない。そして6月20日の空戦の一式戦闘機1機の撃墜であるが、これは対戦した陸軍の59戦隊に一式戦闘機1機の未帰還が報告されているのでこれが該当するとも思われるが(秦P383)、オーストラリア空軍はこの空戦で零戦5機(一式戦闘機を零戦と誤認している)の撃墜を報告しているので実際にこの一式戦闘機を撃墜したのが誰なのかは不明である。

 8月17日の百式司偵1機は、202空の田中富彦飛曹長、河原眞治上飛曹機で撃墜が確認されている。以上を総合するとコールドウェル大佐の日本軍に対する戦果は、百式司偵1機、九七式艦攻1機の合計2機、さらに一式戦闘機1機を撃墜した可能性があるというところだろう。ただ、3月2日の九七式艦攻であるが、これはオーストラリア空軍の情報将校がパイロットの証言を集めて九七式艦攻と「判断」しているだけなので、実際にはどこの部隊のどの飛行機なのかは謎である。

 

 

ともあれ。。。

 実戦は命がけである。空戦で相手の撃墜を確認している余裕はない。特に第二次世界大戦では編隊空戦が主流となり、混戦となる場合が多い。日中戦争での零戦初空戦のような最新鋭機を使った一方的な戦いにおいてでも実際の戦果が13機撃墜であるのに対して27機撃墜を報告している。故にコールドウェル大佐の撃墜数が実数と異なることによってコールドウェル大佐が「偽物」である訳ではない。彼は飛行時間も1,200時間近く、隊長としても人望を集めた優秀なパイロットであったのだ。

 「敵機を撃墜」といってもその中には人間が乗っている。敵機を撃墜するということは多くの場合、中の人間を殺戮することでもある。コールドウェル大佐は、現役時代にこれらのことに対して割り切っており、無関心を決め込んでいた。兵隊としては当然のことだ。さらにコールドウェル大佐はパラシュートで脱出した敵パイロットも射殺するという冷酷さを示した。この結果、付いたニックネームは「殺し屋」で、当初は自称もしていたニックネームであったが、晩年になると毛嫌いするようになっていく(クリステンP20)。徐々に「殺戮をした」ことに対して無関心ではいられなくなってきたのだ。

 さらに最晩年になると撃墜した搭乗員の遺族からの面会も拒否(遺族は許している)、撃墜した敵パイロットの話になると涙声になっていたという。オーストラリア空軍のトップエースコールドウェル大佐の「スコア」は実際にはもっと少ない。少なくとも零戦4機の撃墜は完全な誤認だ。英雄を求める人々にとっては残念なことであろうが、故コールドウェル大佐にとっては朗報かもしれない。自身が撃墜、すなわち殺戮したと思っていたのは間違いで、敵パイロットは死んでいなかったのだ。

 

参考文献

  1. クリステン・アレキサンダー『キラーと呼ばれた男』 津雲 2011年
  2. /前衂А愨2次大戦世界の戦闘機隊付・エース列伝』 酣燈社 1987年
  3. 神立尚紀『祖父たちの零戦』講談社 2013年
  4. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』1巻 大日本絵画 2011年
  5. ⊃前衂А愼本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社 1975年
  6. 秦郁彦『日本陸軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社 1973年

 

 

 


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(画像はwikipediaより転載)

 

中谷芳市飛曹長の経歴

 

 1921年長崎県出身。海兵団に入団後、整備兵から航空兵となる。1940年11月丙飛2期として採用、1941年11月飛練12期を卒業後千歳空隊員として太平洋戦争開戦を迎える。1942年8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に参加。12月201空に復帰してマーシャル群島防空任務に就く。1943年春に内地へ帰還の後、7月再びブインに進出、ソロモン航空戦に参加した。12月331空に転じてサバンに転進し、1944年3月202空、ついで221空に異動、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。

 

中谷飛曹長と丙飛2期

 

 中谷芳市飛曹長は丙飛2期出身で「搭乗員の墓場」と言われたソロモン航空戦に二度にわたり派遣されている。この丙飛2期というクラスは、開戦直前に訓練を終えたクラスで比較的余裕のあった日中戦争の空戦を経ることなしにいきなり精強な連合軍と戦うことになったクラスである。特にソロモン・ラバウル方面に派遣された隊員の戦死が非常に多く、開戦1年目の1942年には丙飛2期65名中17名の隊員が戦死しており、そのほとんどが同方面であった(ポートダーウィンで1名戦死、不明が3名以外14名は全て同方面)。

 開戦1年目というと戦争全般としてみれば米軍は守勢にまわって日本側が攻勢をかけることも多かったという戦争中期以降に比べると比較的余裕のあった時期であった。それもで26%の同期が戦死してしまったことからも新人搭乗員を取り巻く環境がどれだけ厳しかったのかが分かるだろう。さらにより戦闘が熾烈になる1943年に入るとさらに丙飛2期の戦死は多くなり、この一年間で23名の同期が戦死している。割合にすると35%で、この2年間で同期の内62%が戦死している。

 この熾烈な状況の中で2度にわたるラバウル派遣を生き残った中谷飛曹長は、1943年12月スマトラ島サバン基地に展開している331空に配属された。この部隊は開戦当初台南空で有名を馳せた新郷英城少佐が飛行隊長を務める部隊で他にも奇行で有名なベテラン赤松貞明少尉、操練出身の谷口正夫、岡野博等がいた。331空に配属された中谷飛曹長はビルマに進出、陸軍航空隊と共同でカルカッタ攻撃に参加した。

 1944年3月には331空は、戦闘603飛行隊に改編されたのち202空に編入され、手薄になった内南洋防衛のためにメレヨン島に進出した。その後221空に配属となり内地に帰還した。以降筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。総撃墜数は16機ともいわれるが実数は不明である。

 

まとめ

 

 中谷飛曹長は太平洋戦争を生き残った。同じく生き残った丙飛2期の同期は65名中わずか15名となっていた。この中にはソロモン航空戦で重傷を負った渡辺秀夫飛曹長、23機撃墜を表彰された伊藤清飛曹長、宮崎勇少尉等がいる。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 石原進は甲飛3期出身で総撃墜数は16機とも30機ともいわれている。日中戦争、太平洋戦争に参加して戦後は航空自衛隊のパイロットとなったが事故により殉職した

 

石原進の経歴

 

概要

 1921年愛知県生まれ。1938年10月甲飛3期生として予科練に入隊。1940年4月飛練1期入学。1941年4月飛練課程を卒業。1空に配属、中国戦線に参加。1941年10月台南空配属。東南アジア方面の航空撃滅戦に参加する。1942年4月帰国。徳島空教員となる。1943年6月582空に配属。ラバウルに進出する。まもなく204空に異動。同年12月202空に異動。1944年3月202空は22航戦に編入され、トラックに移動、石原は激烈な中部太平洋の戦闘をくぐり抜けていった。同年7月、202空の解散により呉空に転じて本土へ帰還する。以降、終戦まで332空で終戦まで活躍した。

 

1921年生まれの撃墜王

 石原は1921年生まれである。この1921年生まれには撃墜王が多い。太平洋戦争開戦時には20歳で終戦時は25歳というパイロットとしては若干若くはあるが、時代が20歳の若者を熟練搭乗員に育て上げたといっていい。同年のエースとしては、32機撃墜の杉野計雄(32機撃墜)、島川正明(8機撃墜)、大野竹好(8機撃墜)、神田佐治(9機撃墜)、国分武一(14機撃墜)、関谷喜芳(11機撃墜)、佐々木原正夫(12機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、大原亮治(16機撃墜)、伊藤清(23機撃墜)、増山正男(17機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、白浜芳次郎(11機撃墜)、菅野直(25機撃墜)、堀光雄(10機撃墜)等、エースだらけである。

 ただ、年齢は同じでも出身によって実戦経験の長さは異なる。1921年生まれは海兵では69期、70期、甲飛では3期、4期、乙飛では9期、10期、操練・丙飛では2期が一番多い。石原は1921年生まれで実戦に参加したもっとも早いクラスであろう。石原以外のほとんどのエースは太平洋戦争が初めての実戦であったが、石原は飛練卒業と共に4月10日に新編された第1航空隊に配属となり中国に進出した。しかし空戦の機会はなかったようで、初陣は太平洋戦争初期の航空撃滅戦である。

 

ラバウル航空戦に参加

 開戦時は台南空に所属し、航空撃滅戦を展開する。台南空は4月にラバウルに進出するが、石原はここで内地帰還組となる。内地帰還後は徳島空で教員となるが、582空付に発令され、石原も1年遅れでラバウル航空戦に参加することになる。以降、204空に異動しつつもラバウル航空戦で活躍した。1943年12月、204空から南西方面の202空への転属となった。

 この202空とはポートダーウィン空襲を行った3空が1942年11月の改変で名称変更されたものであり、この時期に至っても高い練度を維持し解隊するまで無敗だったといわれる海軍航空隊でも稀有な航空隊であった。以降、202空隊員として後期の中部太平洋地域での戦闘に参加した。この202空は、のちに戦闘301飛行隊と戦闘603飛行隊に別れるが、石原は301飛行隊に所属していたようだ。

 

332空配属、そして戦後

 その後、1944年7月、本土に戻り呉防空の局地戦闘機部隊332空に配属され、局地戦闘機雷電で以て本土防空戦に活躍した。戦後は航空自衛隊に入隊し再びパイロットとしての道を歩むが事故により殉職する。撃墜数は30機ともいわれる。公式記録では16機が確認できるようだ。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 岡野博は1921年生まれ、操練54期を修了した。日中戦争は経験していないが太平洋戦争開戦時には十分な訓練を受けての参加である。太平洋戦争を戦い抜いたのち、343空で終戦を迎えたという円熟の搭乗員であった。

 

岡野博の経歴

 

概要

 1921年茨城県生まれる。1938年6月横須賀海兵団に入団。1941年5月54期操練卒業。横空配属。9月千歳空に配属で太平洋戦争開戦を迎える。1942年4月1空に転属。5月下旬、一時的にラバウルに展開中の台南空に派遣される。11月1空復帰。1942年12月201空に転属。マーシャル防空。1943年3月本土に帰還。松島基地で練成したのち、7月201空ブイン基地に前進、11月331空に転属。1944年3月、331空から202空戦闘603飛行隊に異動。ビアク作戦に参加。9月大村空。343空戦闘701飛行隊に配属されて終戦を迎えた。

 

横須賀航空隊

 岡野は1921年生まれ、操練54期を修了した。同期には山崎市郎平(14機撃墜)がいる。この54期には戦闘機専修者が21名おり、内、終戦まで生き残ったのはわずか2名であった。岡野の経歴で面白いのは操練修了後、4か月ほどではあるが、横須賀航空隊に配属されたことだ。横空とは新型機の試験を受け持つ審査部を持つ海軍航空隊の殿堂であり、終戦まで練度を維持し続けた部隊である。当時新米パイロットであった岡野がなぜ横空に配属されたのかは気になるところだ。そして太平洋戦争開戦時には西沢広義、福本繁夫等が所属していた千歳空に所属していた。

 

ラバウル航空戦に参加

 西澤等千歳空の一部部隊は1月にラバウルに進出するが、岡野等千歳空主力は引き続きルオット島で哨戒、訓練の日々を過ごした。1942年4月、戦闘機隊が再設置された1空に異動となる。5月には1空増援部隊としてラバウルに展開する台南空に派遣される。台南空には1月に千歳空から派遣された西澤廣義等が所属しており、再び同じ部隊として行動をするようになった。11月、戦力を消耗しつくした台南空が本土に帰還するのと同時に岡野は752空と改称された1空に復帰するが、12月には201空と改称された千歳空に再び異動してマーシャル諸島防衛に当たる。1943年3月、201空は本土に帰還する。

 

二度目のラバウル航空戦

 岡野も201空隊員として約1年半振りに内地に帰還した。数ヶ月の錬成を終えた後、7月には201空は南東方面のブイン基地に進出することとなる。ブイン基地とはラバウル基地よりもさらに最前線に位置する基地である。岡野としては二度目のラバウル航空戦であったが、戦争初期のラバウルよりも遥かに激烈な戦闘が繰り広げられていた。5ヶ月間に及ぶラバウル航空戦に生き残った岡野は、11月、南西方面に展開する331空に配属されたのち、1944年3月には同じ南西方面に展開する、機体にXナンバーを持つ「まぼろし部隊」202空に配属される。

 

内地帰還。紫電改部隊、そして終戦

 1944年9月内地帰還。大村空での教員配置の後、源田実大佐率いる精鋭部隊、343空戦闘701飛行隊に配属される。この戦闘701飛行隊とは自身も撃墜王である鴛淵孝大尉(撃墜6機)が隊長を務める部隊である。後に日中戦争以来のベテラン搭乗員松場秋夫(18機撃墜)、中村佳雄(9機撃墜)等も配属される。この343空で終戦を迎え、戦後は民間航空機のパイロットとなった。

 

まとめ

 

 横須賀航空隊とは海軍航空の殿堂と呼ばれた部隊で終戦まで高い練度を維持した部隊だ。その部隊に新隊員で派遣されたのだから相当期待されていたのだろう。その後、搭乗員の墓場と呼ばれるラバウルに派遣され生還するが、岡野は再度派遣される。その「地獄の航空戦」も生き抜き有名な「剣部隊」343空で終戦を迎える。著名な部隊を転々とした華々しい経歴であるが、多くの死線をくぐり抜けてきた実力派である。

 

 

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 伊藤清は大正10年生まれ、3空で活躍した多撃墜のエースである。撃墜数は23機に及ぶ。しかし私にとっては未知のエースであった。台南空の搭乗員達は坂井氏の著書で有名であったが、同時期に航空撃滅戦を行った3空には戦中の記録を公表した人が少なかったというのが理由なのかもしれない。

 

伊藤 清飛曹長の経歴

 

概要

 大正10年新潟県生まれ。昭和14年6月1日機関兵として横須賀海兵団に入団。昭和15年11月丙飛二期に採用され霞ヶ浦航空隊入隊。大分空で戦闘機専修教育を受け、昭和16年11月12期飛練を修了し3空に配属される。比島航空撃滅戦に参加したのち、ポートダーウィン攻撃に参加する。昭和17年9〜11月までラバウル派遣。その後再びポートダーウィン攻撃に参加する。昭和18年11月、2年にも及ぶ戦地生活を終え本土に帰還し、大分空、筑波空で教員配置に就き終戦を迎える。2012年7月4日死去。

 

丙飛二期の同期達

 伊藤清飛曹長は丙飛二期、同期には宮崎勇、渡辺秀夫、中谷芳市等、太平洋戦争で活躍した搭乗員が多い。戦中派とまでは言えないが太平洋戦争が初陣であったクラスだ。そのため日中戦争で実戦経験を経たクラスと異なり多くの戦死者を出した。

 伊藤飛曹長は自ら本や手記を出すことはなかったが、神立尚紀『零戦最後の証言』によって活躍が世間に知られることとなった。伊藤氏は丙飛二期を修了すると第3航空隊に配属された。これは台湾の高雄にある航空隊で太平洋戦争開戦後、台南航空隊と並んで航空撃滅戦で活躍する部隊である。

 

3空配属とポートダーウィン攻撃

 特に3空は搭乗員の練度が高く、202空と改称されたのち解隊するまで無敗であった稀有な航空隊であった。このため中々搭乗員割に入ることが出来なかったという。秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』によると初撃墜は昭和17年4月4日ということになっているが、伊藤によるとそれ以前に輸送機を撃墜したのが初撃墜だという。

 その後、6度のポートダーウィン攻撃に参加し、昭和17年9月〜11月まで米軍のガダルカナル上陸に対応するため3空派遣隊としてラバウルに進出する。その後、再び南西方面に戻り、数次のポートダーウィン攻撃で、北アフリカ戦線でドイツ空軍に恐れられたイギリス空軍の有名なエース、コールドウェル少佐(28.5機撃墜)率いるスピッツファイア隊と激突する。伊藤はこのスピッツファイア隊の印象をこう語っている。

 

「ま、弱かったですね。」

 

内地帰還から終戦

 昭和18年11月、伊藤は本土に戻り教員配置に付く。その時、約二年間の戦地勤務での戦果を表彰されている。そこには撃墜破32機となっており、内訳は撃墜23機、地上撃破9機である。秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』には撃墜17機とあるが、それは誤りである。

 その後は本土で教員配置に付き終戦を迎える。総撃墜数23機であった。戦後は婿養子となり姓が加藤と代わった。2012年7月4日死去。因みに『全機爆装して即時待機せよ』を上梓している加藤清氏は、全くの別人である。

 

伊藤 清飛曹長関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 加藤(伊藤)清氏のインタビューあり。撃墜数が17機ではなく23機であることの証拠となる賞状の写真もある。インタビューの内容は圧巻。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。伊藤飛曹長に関しても略歴が紹介されている。

 

まとめ

 

 伊藤飛曹長の経歴の多くは3空であり、他のパイロットと異なり転勤が少なかった。しかし3空派遣隊として激烈なラバウル航空戦に参加、その後もポートダーウィン攻撃で多くの戦果を挙げたのち本土に帰還。2年近く教員配置を送るという少し変わった経歴の持ち主だった。

 

 

 また本のレビュー。今日紹介するのは小高登貫著『あゝ青春零戦隊』である。この小高登貫とは、意外と知られていないエースなのではないかと思う。坂井三郎のように本を多数執筆していたり、岩本徹三西沢広義のように多撃墜記録を持っていたり、赤松貞明のように自著こそはないがあまりの奇人ぶりで有名になった人でもない。しかし、この小高登貫という人、すごい人なのだ。

 総撃墜数はエース列伝によると12機、本書の冒頭の文章によると共同撃墜含め105機。潜水艦2隻撃沈という類い稀な記録を持つ撃墜王なのだ。昭和18年に202空隊員として実戦初参加、その後ラバウルに派遣されあのラバウル航空戦に参加、トラック島、フィリピンと転戦した後、伝説の航空隊343空、剣部隊に配属される。そこで新鋭機紫電改を駆り終戦まで戦い抜いた。詳しい経歴については別に書いたのでそちらを見てもらいたい。

 

 

 小高氏含め同期13名は202空に配属される。一旦は母艦戦闘機隊に配属が決まっていたために落胆するのだが、この202空こそは連合国軍からは「まぼろし部隊」と言われ恐れられていた202空なのだ(部隊番号がXだったから)。そこで連日の戦闘に参加する。この中で当時のチモール島の風俗についても書いてあるので面白い(エッチな方ではない)。慰問団として森光子が来たり等、知らない人には結構ビックリしちゃうエピソードなどもある。

 その後ラバウルに派遣されるのだが、おたく的に面白いのは小高氏の機体にも撃墜マークが付いていたという。岩本徹三著『零戦撃墜王』にはピンクの撃墜マークが付いていたというのは有名であるが、小高氏の機体には黄色い撃墜マークが付いていたようである。部隊によってマークを統一していたのか否か等考えると面白い。撃墜マークは当然、公認されたものではないが、現地部隊では戦意高揚のために書いていたのだろう。

 本書で興味深いのはフィリピン時代に「かたき討ち作戦」と称される作戦に参加したことだろう。小高氏は命令により何も知らずに「わが軍の重要人物を捕まえているはずだ。早く戻せ」というようなことを書いたビラを撒き、その後、銃爆撃をしていることだろう。当時は意味も解らずやっていたが、戦後、古賀峯一長官が遭難した「海軍乙事件」であったことを知る。近代史研究の上でも価値のある記述だ。

 小高氏はそのフィリピンで特攻隊に志願するが、小高氏はみんな心から志願したという。これも当時の搭乗員個々人によって意見が異なっている。これらを比べてみるのも面白い。さらに世間では特攻隊の第一号は関行男大尉の敷島隊であることになっているが、実は4日前に最初の特攻隊が出撃していることなども興味深い。

 戦後はオートバイの売上日本一になったりと何でも一生懸命やる性格だったようだ。現在(2020年)ご健在であれば97歳となるはずであるが、残念ながら1992年3月に他界している。内容はかなり面白いのでおすすめだ。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

予科練で飛行訓練を受ける

 

 「トッカン兵曹」とあだ名される戦中派エース小高登貫は、1923年2月26日、長野県東筑摩郡島内村に生まれた。1941年6月に横須賀海兵団に入団。海兵団終了後は、自著によると小高は搭乗員になる前には整備兵として中国大陸に展開する第12航空隊にも所属していたようだ。元々飛行機好きだったという小高は、1942年2月丙飛第10期予科練習生に採用され、霞ヶ浦航空隊に配属される。自著によると、そこで3ヶ月、さらに土浦航空隊3ヶ月、百里ヶ原航空隊で4ヶ月の訓練を受けたとなっている。

 この小高が採用された丙種予科練習生とは、複雑になり過ぎた海軍の航空要員育成過程を予科練に一本化したもので以前の予科練習生は乙種予科練、操縦練習生は丙種予科練、さらに高学歴者が採用される甲種予科練というのがある。名称こそ変わったが、丙種予科練と操縦練習生はほぼ同じであり、練習生も操練と同様に兵から採用された。丙種といっても採用基準は厳しく、採用後も不適格として原隊に帰らされる隊員が多く出るという難関であった。

 しかし丙種予科練通称「丙飛」10期生は太平洋戦争開戦後の採用であり、航空要員の需要拡大により大量採用がなされたクラスだ。丙飛10期は戦闘機搭乗員だけでも修了者は88名に上る。だが、以前ほどの質の高い教育を行うことが出来ずに実戦に投入せざる得ない状況であり、日本海軍の防弾性能の低い航空機と相まって多くの戦死者を出すことになる。

 丙飛10期88名中、戦死が72名、終戦時に生き残った隊員はわずか16名であった。1943年1月、小高氏は大村航空隊での第25期飛練過程を卒業、晴れて戦闘機搭乗員となる。この時の教員にはのちに実戦部隊でも一緒に戦うこととなる山中忠男上飛曹(操練44期)、赤松貞明(操練17期)や敵飛行場に強行着陸したことで有名な大石英男(操練26期)がいたとある。当時の大村航空隊にはこの他にも大村空飛行隊長である横山保を始め「ゼロファイターゴッド」の異名を持つ亀井勉、操練9期の古豪、望月勇、操練19期の磯崎千利等の戦地帰りの熟練搭乗員が多くいたようだ

 

チモール島クーパン基地に配属

 

 小高は優秀者が選抜されるという母艦搭乗員に選抜されたようで、宮崎県冨高空で零戦による実戦訓練、母艦着艦訓練を受ける。配属先は当時、南太平洋海戦で搭乗員の多くを失い再建中であった空母翔鶴戦闘機隊であった。しかし急遽南方に展開している第202航空隊に変更される。この202空は開戦当初、台南航空隊と共に航空撃滅戦を展開した第3航空隊が名称を変更したものでポートダーウィン攻撃で圧倒的な強さを誇った無敵部隊だった。小高は母艦搭乗員になれずに落胆したようだが、結果的にはこれが小高氏の命を繋いだのかもしれない。

 202空は海軍航空隊でも随一ではないかと言われる程の熟練搭乗員で編成されていた。そのため若年搭乗員はなかなか搭乗員割に入ることが出来なかったと言われるが、同時にチモール島には近くに油田があったため燃料が豊富で十分な訓練をすることができたようだ。1943年2月、小高は202空に合流するため山中忠男上飛曹と共にケンダリー基地へ向かう。

 この時、零戦21型と新鋭機である零戦32型で進出したようだが、どうも新型機には小高氏が乗り熟練搭乗員の山中上飛曹は21型に乗ったようだ。若年者に最新鋭機を与えて腕を補わせたのか、熟練者が得体のしれない新型機を嫌ったのかは不明だが、丙飛16期を卒業して254空に着任した今泉利光氏も江馬友一(操練22期)や田原功(操練45期)の熟練者がいながらも最新鋭の零戦52型丙を与えられた

 それはともかく小高は着任早々空襲を受けるが、独断専行で出撃をしてしまう。着陸後、意外にも司令に褒められる。この行動力や判断力の正確さはさすがといえる。その小高も初空戦では増槽を落とすのを忘れてしまった上に深追いをしてしまったようだ。増槽は新米搭乗員は良く忘れるようで零戦隊の名指揮官として知られる進藤三郎や撃墜王として有名な大原亮治、山田良市も初空戦では増槽を落とすのを忘れたという

 その後も数次のポートダーウィン攻撃や「空中爆雷」3号爆弾での大型機攻撃等、着実に実戦の経験を積んでいった。この間に小高は9機を撃墜したという。戦闘とは関係ないが慰問団として来た森光子にあったりもしていて面白い。その小高に204空への異動命令が下る。204空とは第6航空隊として編成された部隊で南方の激戦地ラバウルに展開している部隊であった。このラバウルでは連日激戦が繰り広げられ「搭乗員の墓場」とまで言われる場所であった。

 

「搭乗員の墓場」ラバウルに異動

 

 実際、小高の出身期である丙飛10期戦闘機専修の戦死者72名の内、戦死場所が分かっている57名中20名がラバウル周辺で戦死している。まさに搭乗員の墓場である。小高は飛行時間わずか150時間程度でラバウルに送りこまれたという。このラバウル進出は小高の自著では1943年8月となっているが、多くの書籍では1943年12月となっている。当時、同じ202空の分隊士として1943年10月に着任した梅村武士も森光子の慰問団が来た時居合わせているので、恐らく1943年12月の誤りであろう。

 204空に転属した小高は1943年12月10日の船団護衛を皮切りに数多くの戦闘に参加する。特に翌、1944年1月17日の戦果は部隊最高個人撃墜者として司令賞を受けた。この時の戦果は、一般には敵機撃墜69機と言われているが、梅本弘の調査だと戦闘行動調書に記録されている数は88機だそうだ。小高の個人撃墜もP-38 3機ではなく1機撃墜、1機不確実という。

 実際のところは戦闘行動調書を見ないと何とも言えないが、資料上はこれがラバウルでの唯一の小高の撃墜戦果だそうだ。因みにこの1月17日の空戦の連合軍側の損害は10〜11機であり、かなり過大な戦果報告であったことが分かる。その後も多くの迎撃戦や爆装零戦でのマーカス岬攻撃等に参加した小高であるが、1944年2月、204空と共にトラック島に移動することになる。

 

トラック島から内地に帰還

 

 トラック島に移動した小高はそこに内地から送られた150機の零戦を見る。この零戦は最新の52型丙であったというが、零戦52型丙はマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れ改良された型で、改良が指示されたのが1944年7月23日、試作機完成が同年9月10日、制式採用が同年10月1日なので、制式採用前に量産されていたのか、或いは小高氏の記憶違いなのかは不明である。このトラック島で小高は米海軍機動部隊の艦載機群を迎撃、劣勢の状態の中、数度にわたる出撃を行い奮闘した。この戦闘は熾烈であり、同じ204空のベテラン前田英夫も帰還せず、地上で見ていた加藤氏によると帰ってきたのは小高のみであったという

 その後、小高は内地に帰還、第201空戦闘306飛行隊に配属される。この時に戦闘機受領のために中島飛行機に向かうがそこで行われていた性能試験に満足せずに戦地で鍛えた実戦的な試験を行い中島飛行機側を驚かせた。ここで小高達が三菱製の零戦を中島飛行機に受領に行っているのを不思議に思われる方もいるかもしれない。実は、戦時中、零戦は中島飛行機でも生産されていたのだ。それどころか52型に至っては三菱製の総数が747機であるのに対して中島製は3573機製造されており、むしろ中島飛行機の方が圧倒的に零戦を生産していたのである

 しかし両社の製作した零戦を比較してみるとやはり開発した三菱製の零戦の方が性能が良かったらしい。逆に中島製零戦は搭乗員からは評判が悪く、性能の劣悪さから「殺人機」とまで呼ばれていたという。その中島製零戦を戦地帰りの小高がテストすればどうなるか想像に難くない。

 

内地からフィリピン進出

 

 この時期に小高は日本海軍戦闘機の「必殺技」ひねり込みを教わったという。このひねり込みとは宙返りの頂点で左に機体を捻り一時的に失速状態になることで旋回の半径を小さくする特殊な技術だ。これは搭乗員それぞれやり方が違っており、職人気質の搭乗員の多い戦闘機の世界ではなかなか教えてくれなかったようだ。このひねり込みを教えたのは門田上飛曹とあるが、恐らく乙10期の門田岸男であろう。乙10期は1942年3月に飛練21期を修了したクラスで丙飛では4期にあたる。戦前に訓練を受けたほぼ最後のクラスといってよい。この後、小高氏の所属する201空戦闘306飛行隊はフィリピンに進出するが門田上飛曹は同飛行隊付で1944年9月12日戦死している。

 上記のように第201空戦闘306飛行隊は木更津基地で錬成訓練の後、1944年4〜5月に逐次セブ島に進出した。進出後の5月25日、小高は爆撃を命じられ、言われるままに爆撃するが、それが海軍乙事件の交渉のための爆撃だったことがのちに分かる。海軍乙事件とは当時の連合艦隊司令長官古賀峰一大将搭乗の二式大艇2機が低気圧のため墜落した事件である。古賀大将は殉職するがもう1機に登場していた福留繁参謀長はフィリピンゲリラの捕虜となり暗号書を始めとする機密書類を奪われるという大失態をやらかした。小高が行った爆撃は、この福留参謀長解放のための威嚇だったようだ。

 この後、201空は「あ」号作戦、レイテ作戦に参加するが、ここで小高らは特攻隊に編入される。特攻に関しては同時期にフィリピンにいた熟練搭乗員の岩本徹三は「一回の攻撃で死んでたまるか」と特攻を明確に拒否した。同じく操練31期の田中國義も後年、インタビューで一回の攻撃で死ぬのは嫌だったと語っている。どちらも日中戦争以来の熟練搭乗員であり、腕に自信があるだけに一度の攻撃で死ぬのは嫌だったのだろう。同様に激戦のラバウルから生還した小高だが、意外にも特攻に賛成した。

 

私たち四十人の搭乗員は、みんな心からこれに賛成し、敵艦に体当たりする戦法をとることになり、全員がこの特別攻撃隊への願書を提出した。
小高登貫『あゝ青春零戦隊』P204

 

 さすがに全員が心から賛成したかどうかは分からないが少なくとも小高は賛成したようだ。特攻隊には、ほとんどの隊員は心の中では反対だったというが、こういう意見もあることが分かるのは貴重だ。小高は特攻隊には編入されるが爆装隊ではなく戦果確認機としてであった。ラバウル帰りの熟練搭乗員であったためだろうか。

 

343空に転属

 

 1944年12月、小高は谷田部航空隊教員として内地に戻る。すでに前線はフィリピンから日本本土になりつつあった。自著には乙18期、飛行学生17期を教えたとなっているが、飛行学生17期は誤りである。飛行学生であればこの時期に教育されていたのは42期である。それはともかく戦地帰りの小高の教育は訓練生には評判が良かった。そして教育に当たる一方迎撃戦にも出動した。1945年2月16日の米海軍艦載機関東地区来襲では数機の撃墜を報告しているようだ。

 この時期、真珠湾攻撃の航空参謀源田實は、新たな戦闘機隊、第343航空隊を編成していた。この部隊は最新鋭機紫電改を集中配備し、基幹搭乗員には当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員を配していた。小高はこの343空に指名転勤により異動となる。343空は戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊、戦闘301飛行隊と偵察隊からなっていた。小高は戦闘407飛行隊に配属された。小高の配属された戦闘407飛行隊は最も遅く訓練を始めた部隊であった。そして小高はこの部隊の「一番のやかまし屋」本田稔少尉の2番機となる。

 この本田少尉は甲飛5期出身でラバウルで激戦をくぐり抜けてきた強者だった。あまりの「やかまし屋」振りに2番機が務まる者がいなかったという。厳しく教育された者は厳しく教育する。本田少尉の練習生時代の教員は厳しくて有名だったオール先任搭乗員とあだ名された海軍航空隊の名物男、菊池哲生上飛曹であった。因みにこの343空に菅原少尉という撃墜120機の記録を持つ分隊士がいたというが、該当する人物は見つけられなかった。

 

トッカン兵曹の撃墜数

 

 小高はこの343空で終戦を迎える。戦後は自動車販売店を経営していたが、平成4年(1992年)3月歿する。自著の前書きによると協同撃墜含め撃墜105機、潜水艦撃沈2隻というすさまじい戦果を挙げたことになっている。その105機の内訳は単独77機、協同38機ともいわれる。その小高の撃墜数について書いてみよう。1970年代に戦史研究家の秦郁彦氏は海軍戦闘機隊の公文書に記載されている撃墜数をカウントしエースリストを作成した。そのリストは8機以上の撃墜記録が確認された搭乗員を記載したものだが、その中に小高氏の名前はない。恐らく公式記録上は小高の撃墜数は7機以下であったのだろう。

 2000年には出版された、米国の戦史研究家ヘンリーサカイダの著書『日本海軍航空隊のエース』には、小高の撃墜数は12機となっているが、その出典は不明である。小高の撃墜数全体についてではないが、近年、ラバウルでの海軍航空隊の活動の精緻な調査をした梅本弘氏によるとラバウル時代に小高の戦果で公文書上に確認される撃墜戦果は2機だけだという。これらから考えると撃墜105機というのはちょっと過大である。小町定が指摘するように部隊の戦果も含めた数字であるのかもしれないが、高木・境田両氏が指摘するように誇大気味な感は否めない

 では小高は口だけの無能な搭乗員であったのかというとそれは違う。坂井三郎によると戦闘機の搭乗員は総じて威勢がよく元気者で負けず嫌い、そして彼らは有言実行であった。中には有言実行に留まらず、大言壮語する者もあったという。そして、むしろ大言壮語型から多くのエースが生まれたと語っている。実際、日本海軍のトップエースで自称216機を撃墜した岩本徹三は、空戦の腕も達者だったが口も達者でいつも大風呂敷を広げていたそうだ。さらに大ベテラン赤松貞明は自称撃墜350機であるが、空戦の腕の良さは海軍戦闘機隊では有名であった。

 恐らく小高もこの部類に入るのだろう。撃墜数は誇大であるかもしれないが、343空で小高の編隊長を務めた本田稔が小高の空戦の腕の良さを評価していることからも、空戦の腕が良かったことは間違いなさそうだ。母艦搭乗員に指名され、激烈なラバウル航空戦を数ヶ月間生き抜き、新鋭機紫電改で編成された343空に指名されて転勤した事実がそれを証明している。

 

まとめ

 

 太平洋戦争は徐々に過去から歴史になりつつある。そして人間は歴史に理想を投影する。海軍航空隊搭乗員は理想を投影する対象としては十分な価値がある。実際の人物とは違った自分の中の英雄像を過去の搭乗員に投影するようになる。これは人間が主観的な生き物である以上仕方のないことだ。そして日本人は得てして自己アピールの上手い人間を嫌う。逆に寡黙に自分の功績を語らない人や謙遜する人を好む。いつしか「好む」は「でなければならない」に代わり、過去の人物に自分の理想的な英雄像を投影するようになる。

 しかし過去の英雄とはその時代を生きた生身の人間だ。零戦搭乗員は自分の心の中にいる「理想的なサムライ」ではない。アピールが上手かったり饒舌だったり大風呂敷を敷いたりもする。撃墜数がどうあれ小高氏は激戦地で命がけで戦い続けた。岩本徹三、赤松貞明、坂井三郎も同様だ。その事実は凄まじいものがある。それはみんなが考える理想的なサムライではないかもしれないが、生死の狭間を生き抜いた戦士であったことは間違いない。

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。

 

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